同調しない勇気

君は心と人間性をもった1個の人格になるのか、それとも<意図的な力>が要求することは何でもするのか。ベン・ケノービが「フォースが共にあらんことを」と言うとき、彼は生命の力のことを言っているのであって、政治的意図のことを言っているのではない

⇨ ジョーゼフ・キャンベル

 

映画「ローグ・ワン」予告編

 

現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。

 

もし私がみんなと同じになり、ほかの人と違った思想や感情を持たず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ。

 

独裁体制は人々を集団に同調させるために威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる。たしかにこの二つのシステムの間には大きな違いがある。民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人がまったくいないわけではない。一方全体主義体制にあっては、服従を拒むのはごく少数の特別な英雄とか殉教者だけだろう。しかし、こうした違いにかかわらず、民主主義社会においても、ほとんどすべての人が集団に同調している。何故かというと、

如何にして合一感を得るかという問いには、どうしても何らかの答えが必要なのであり、ほかに良い方法がないとなると、集団への同調による合一が、いちばん良いということになるのだ

 

孤立したくないという欲求がいかに強いかが理解できれば、ほかの人と異なることの恐怖、群れから僅かにでも離れる恐怖の大きさが理解できるだろう。しばしば「集団に同調しないことの恐怖は、同調しないと実際に危ない目にあうかもしれないという恐怖なのだ」ともっともらしく説明される。だが実際には、少なくとも西洋の民主主義社会では、人々は強制されて同調しているのではなく、自ら欲して同調しているのである。

 

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求にすら気づいていない。誰もがこんな幻想を抱いている、

私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それは単なる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、自分の意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人と違うのだと思いたがるが、そうした欲求はごく些細な違いで満たされる。

ハンドバックやセーターのイニシャルとか、銀行員の名札とか、共和党でなく民主党支持だとかといったことが、自分はほかの人と違うのだという意思表示になる。「これはほかとちがいます」といった広告のコピーは、人と違いたいという悲痛な欲求をよく物語っている。実際はほとんど違わないのだが

 

違いをどんどん無くしてゆこうというこの傾向は、先進工業国で発達しているような、平等の概念やその経験と密接な関係がある。

現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った人間の平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。それは、同じ仕事をし、同じ趣味を持ち、同じ新聞を読み、同じ感情や考えを持つといった、雑多なものを切り捨てた同一性である。

⇒ エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店より

虚ろな世代

魂はどうなるのですか?」

魂って・・・お前何言ってんの」。

■Brave New World Trailer

 

現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人々は、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかれない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することが出来ないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐそれを他人と交換したりして、孤独を紛らわそうとする。

 

現代人は、オルダス・ハクスリーが「素晴らしき世界」で描いているような人間像に近い。旨いものをたっぷりと食べ、きれいな服を着て、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく、ハクスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに導かれて生きている。

 

個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に伸ばすな」あるいは最高のスローガン「昨日は誰もが幸福だ」。

 

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込むみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ大きな酒瓶大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。今や私たちのキャラクターは、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。

 

必然的に、愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。ロボットは愛することが出来ない。現代人は「商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む。愛の、特にこのような疎外された構造を持つ結婚の、もっとも重要な現れのひとつが「チーム」という観点である。幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は滞りなく役目を果たす労働者という考えと大して違わない

 

そうしたチームは「適当に独立して」おり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。同じようにカウンセラーは言う。夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理を誉めなくてはいけない。一方妻の方は、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときは優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときは心を込めて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。

 

こうした関係を続けていると、二人の間がぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言い合うだけの関係にとどまる。

 

愛と結婚に関するこうした考え方では、耐え難い孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは愛のなかに、ついに孤独感からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の表現だと誤解されている

 

第一次大戦後の数年間は、性的満足が愛情関係の土台であるという考えが流行した。不幸な結婚の原因は「性的適応」がなされなかったことであり、この誤りを「治療」するために多くの本が出版された。正しい「技術」を身につけることにより、幸福と愛が生まれると暗黙のうちに、あるいは公然と約束したのである。

 

こうした発想の底にあるのは、愛は性的欲求から生まれる子どもであり、二人の人間が「技術」を身につけさえすれば、自然に二人は愛し合うようになる、という考え方だ。こうした考えは、当時の一般的な幻想、すなわち、正しい技術を用いさえすれば、工業生産のみならず人間全般の問題も解決できる、という思い込みと一致していた。彼らは「逆は必ずしも真ならず」ということを考えなかったのである。

 

このような「精神的流行」は当時の人々がフロイトの影響下にあったことを物語っている。フロイトは、愛は基本的に性的現象であり、性器的な愛がもっとも強い満足を与えるから、性的な愛が幸福の原型だと確信できた人は、性的な関係を求め、性的な愛を人生の中心に据えるようになると考えた。

 

フロイトは兄弟愛(人類愛)についても、性的本能の「目的を抑制された」衝動が変化したものだと考えた。フロイトの理論ではどんな形の愛であっても、本来は純粋に「性愛」であり、それは無意識の中にあって、永遠に「官能的な愛」なのである。

 

神秘体験の本質にある、一人あるいは複数の人間との強力な融合体験とか一体感について、フロイトはどちらかというと、病的な現象⇨ 幼児期の「無限のナルシシズム」状態への退行と解釈している。フロイトにとっては、共依存的な愛と成熟した愛との間に違いはない。恋に落ちるということは、ほとんど異常であり、必ず現実が見えなくなり、強迫的であり、幼児期の愛の対象が転移したというものだ。

 

成熟の最高の達成としての愛は、フロイトにとっては研究の対象にならなかった。彼にとって、そのようなものは存在しないと考えられていたからだ。

⇨ エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊國屋書店より

You're So Vain(Live in Bryant Park):Carly Simon

 

彼はアプリコットのスカーフを巻き

帽子を斜に被り片目だけのぞかせて

ヨットの上を千鳥足で歩くようにパーティーに現れた

それから片目で鏡に映る

ガボットを踊るように歩く自分自身を見ている

そして女の子はひとり残らず

彼のパートナーを夢見ている

 

だからあなたは中身のない人なの

あなたはこの歌が自分自身の歌だと思うんでしょ?

あなたは自分自身が分かってないのよ!

この歌が自分のための歌だと思うに違いないもの

どうなの?どうなのよ!

 

私がまだ若くて怖いもの知らずのとき

二人は相思相愛で絶対に別れないと

彼は言った でもそれは真っ赤な嘘で

私はあまたの女の子の中の一人でしかなかった

私は短いあいだ夢を見ただけ

彼にとって女の子はコーヒーに浮かぶ

ホイップクリームのようなものなの

 

だからあなたは中身のない人なの

あなたはこの歌が自分自身の歌だと思うんでしょ?

あなたは自分自身が分かってないのよ!

この歌が自分のための歌だと思うに違いないもの

どうなの?どうなのよ!

 

あなたはサラトガへ

自分の馬があたりまえに勝つのを見に行く

それから自家用ジェットでノヴァスコシアへ

皆既日食を見に行くんですって

あなたは場所も時間も

ぜんぶ自分のためにあると思ってる

あなたは必要な時はそこにいないのよね

まるで極秘情報機関のスパイとか

親友の奥さんみたいにね

 

だからあなたは中身のない人なの

あなたはこの歌が自分自身の歌だと思うんでしょ?

あなたは自分自身が分かってないのよ!

この歌が自分のための歌だと思うに違いないもの

どうなの?どうなのよ!

 

だからあなたは中身のない人なの

あなたはこの歌が自分自身の歌だと思うんでしょ?

あなたは自分自身が分かってないのよ!

この歌が自分のための歌だと思うに違いないもの

どうなの?どうなのよ!

Nancy Mulligan:Ed Sheeran

私は2である。すなわち生命力であり、生命の質量である。同時にその2つである」。➡ リグ=ヴェーダ

 

 

24歳のとき 運命の人に出会った

22人の孫たちも今じゃ立派になって

兄さんに連れられて集まってきたよ

 

ある夏の日 ぼくは彼女にプロポーズした

結婚指輪は 金歯で作った

彼女のパパに挨拶に行ったら

「お前なんかに、娘はやらない」。って

 

それで二人は駆け落ちしたんだ

宗派なんか関係ない

愛しているから結婚するのさ

ウエックスフォードのはじっこで

 

彼女はナンシー・マリガンで

ぼくはウィリアム・シーランだから

彼女はナンシー・シーランになった

二人が一人に 一つが二つに

ウエックスフォードのはじっこで

 

戦争のときに彼女と会った

負傷兵士を看護していた

今まで見たことないほど美しい人

ナンシーはぼくの黄色いバラになった

二人は借りてきた衣装で式を挙げて

8人の子どもたちも今は立派な大人だ

息子が5人と娘が3人だよ

 

二人は駆け落ちしたんだ

宗派なんか関係ない

愛しているから結婚するのさ

ウエックスフォードのはじっこで

 

彼女はナンシー・マリガンで

ぼくはウィリアム・シーランだから

彼女はナンシー・シーランになった

二人が一人に 一つが二つに

ウエックスフォードのはじっこで

 

彼女の黒髪にシュプールみたいな白髪が混ざり

結婚して60年経っても ずっと大好きだ

暖炉の前で 古い肘掛け椅子に寛ぐ

ナンシーを本当に愛している

 

ぼくはベルファスト郊外の農家の倅

家柄がどうとかは心配無用だ

ぼくは南へ行って恋に落ちた

いまも変わらない心を保証するよ

 

二人は駆け落ちしたんだ

宗派なんか関係ない

愛しているから結婚するのさ

ウエックスフォードのはじっこで

 

彼女はナンシー・マリガンで

ぼくはウィリアム・シーランだから

彼女はナンシー・シーランになった

二人が一人に 一つが二つに

ウエックスフォードのはじっこで

Dacw 'Nghariad:Bob Delyn

イザナギは黄泉の国へ行き、イザナミに地上へ戻るように呼びかけた。イザナミは、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、地上へはもう戻れないという。イザナギは一度地上へ帰ったが、どうしても諦めることが出来ず、再び黄泉の国へ降りていった。暗闇の中、小さな灯りを頼りにイザナミを見つけたが、イザナミの身体は腐りかけ無数の蛆虫がたかっていた。自分の醜い姿を見られたイザナミは怒り、イザナギを亡ぼそうとして黄泉醜女を放った。イザナギは逃げながら髪を縛っていた元結を投げた。すると元結はたちまちブドウの木になり、沢山の実がなった。黄泉醜女がブドウを食べている隙にイザナギは逃げたが、またすぐに迫ってきたので、今度は櫛を投げた。櫛はすぐに無数のタケノコになり、黄泉醜女はこれを食べ始めた。地上に出ててもなお迫ってくる悪霊に対し、イザナギは神聖な桃の木から実をもぎ取り悪霊に投げつけた。悪霊は神聖な桃の実の力により黄泉の国へと送り返された。➡ イザナギと黄泉の国のイザナミ

 

 

果樹園にいる私の愛する人

一軒家の庭には納屋がある

納屋には開かれた扉がある

 

枝分かれしたオークの木は

とても優しく とても大きい

私はオークの木の下で待っています

あなたが私に会いに来るまで

 

愛する人の竪琴があります

愛する人は竪琴を弾く

竪琴を弾くのは私のためなのか

それとも誰のためでもないのか

 

その音は繊細で迷いがなく

生命に満たされています

どうすれば気取られずに

傍にいられるだろうか

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