宮沢賢治 「どんぐりと山猫」:朗読 (youtube)

ナルシシストとそれ以外の人間を区別するものは、人間味の欠如である。彼等は自分のことをかまってくれない世界にたいして自分が値打ちのある存在であることを証明するために、人生が費やされることの悲劇を感じていない。自分が優れた人間、特別な人間であるというナルシスティックなファサード(心理構造)が崩壊し、喪失と悲しみの感覚を否応なく意識せざるを得ない時には、しばしばもう手遅れである

 

権力に反撃をくわえうるのは権力だけであり、それゆえ戦闘には終わりがない。無力な人々が平等な権力というものを求めても答えは得られない。平等な権力などというものは存在しない。もしも誰もが平等な権力を持っていたら、誰も人をコントロールすることができないだろう。それは本当の権力が存在していない事を意味する。ひとたび権力という見地からものを考えるならば、存在するのはただより大きな権力を求める闘争のみである。誰も決して十分な権力というものを持つ事が出来ない。権力は自分の劣等感を克服するものでもなければ、屈辱という内面の感情をいやすものでもない。権力はただそうした感情を否定するのみである。権力は、人間のナルシシズムを増大させ、心の底に潜む不安感を強化するものなのである

➡ A・ローウェン著「ナルシシズムという病」

 

私たちの文化の病

たとえば人生のすべてを、高いところも低いところも知ること、権力を持つこと、賞賛されること、自分は特別だと感じること。権力をもつことへの誘惑にはなかなか抵抗しがたい。とりわけ、子どものとき自分が愛するひとびとに傷つけられたり、裏切られたりしたことのある人には。権力と引き換えに天国を売り渡すことは、悪魔の取引である。そしてそれこそナルシシストの取引なのである

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理

(新曜社)第九章 われわれの時代の狂気 より

 

個人のナルシシズム(自己-selfと自我-egoの分裂・対立の構図)

ナルシシズムとは自己を犠牲にしてなされる、自分のイメージへの過剰なのめりこみを特徴とするパーソナリティ障害である。ナルシシストたちは、

自分がどう感じるかということよりも、自分がどう見えるかということに関心を持つ。じっさい彼らは、

自分が追い求めるイメージと、矛盾するような感情を否定していく。彼らは感情無しに行動しながら、

人を誘惑し、操縦し、権力や支配力を得ようとして闘っている

彼らは自己中心的な人間で、自分の利害に関心を集中しながらも、真の意味での自己の価値(自己表現自己抑制品位の感情誠実さ)が欠けている。ナルシシストには、身体感情からくる自己感覚が欠けている

がっちりとした自己感覚が欠けているために、彼らは人生を空虚で無意味なものとして経験する。それは荒涼とした状態である

 

文化のナルシシズム

文化のレベルにおいて、ナルシシズムは人間価値の喪失のうちに、つまり

環境への関心生活の質に対する関心同胞への関心の喪失のうちに見出すことができる。利潤や権力のために自然環境を犠牲にする社会は、人間の欲求に対する鈍感さを示すものである

物質的なものがどれほど増大したかということが、生活がどれほど進歩したかということの尺度となり、男は女と、労働者は雇用者と、個人は共同体と闘わざるを得なくなる

 

知恵よりも富が高い地位を占め、人間としての品位よりも名声が賞賛され、自分に敬意を払うことよりも成功することのほうが重要だとされるときには、文化そのものが「イメージ」を過大評価しているのであり、それはナルシスティックだとみなされなければならない

過剰適応と、感覚・感情の喪失

個人のナルシシズムは文化のナルシシズムに対応している。私たちは自分のイメージにあわせて文化を形成し、個人は文化によって形成される。そのため一方を理解することなしに、他方を理解することは出来ない。心理学が社会学を無視したり、反対に社会学が心理学を無視することも出来ない。

 

現在セラピストを訪れる人々には、ある際立った特徴がある。少し前まで主流だったノイローゼ、つまり

罪悪感や不安や病的な恐怖や強迫観念のために無力化されてしまうようなノイローゼは、今日ではあまり見ることができない。そのかわりによく見られるのは、抑うつ状態を訴える人たちである。彼らは、感情が欠如していること、内面の空虚さ、深いフラストレーション感覚、深い自己不全感を口にする

 

彼らの多くは仕事の面ではうまくいっているのだが、そのことは、彼らの現実の生活と、彼らの内部で進行していることの間に深い亀裂があることを暗示している。奇妙に思えるのは、障害の深刻さにもかかわらず彼らが不安や罪悪感を比較的感じていないことである

 

こうした不安や罪悪感のなさは、感情の欠如と一体になって、彼らがあたかも現実に存在している人間ではないかのような印象を人に与える。彼らがやることは、

あまりにも能率的で、機械的で、完璧であり、人間業とは思えないほどである。彼らは、人間というよりは機械のように機能する

 

ナルシシストとそれ以外の人間を区別するものは、人間味の欠如である。彼らは核による人類絶滅の危機に脅かされている世界の悲劇を感じないばかりでなく、

自分のことをかまってくれない世界に対して、自分が値打ちのある人間であることを証明することに人生が費やされることの悲劇を感じていない

自分が優れた人間、特別な人間であるというナルシスティックなファザードが崩壊し、喪失と悲しみの感覚を意識するときには、しばしばもう手遅れである

一人の男、大会社の社長がいて、末期ガンであることを告知された。生命の喪失という事態に直面することによって、彼ははじめて人生の何たるかを発見した。彼はこんなふうに説明する。

 

私はこれまで花など見たことがなかったし、太陽の輝きも、野原も見たことがなかった。私は、自分が成功した人間であることを父に証明するために、自分の一生を費やしてきた。私の人生の中には愛のしめる場所がなかった」。

 

この人は大人になってからはじめて泣き、助けを求めて妻と子どもたちに手を差し伸べることができたのである

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理

(新曜社)より

社会は狂っているのか、いないのか。

ナルシシズムとは個人と社会における非現実性の程度を示すものである。

成功した人間になれるかどうかを、愛し愛されたいという欲求よりも上位におく行動パターンには、どこか狂ったところがある

自分の存在基盤を、身体の感覚や感情に求めるのではなく、人からどう見られているかということで判断する人は、どこか狂ったところがある

より高い生活水準という名目のために、大気や水や大地を汚染する文化には、どこか狂ったところがある。だがいったい、文化とは狂いうるものなのだろうか?

 

精神医学における狂気とは、自分が属す文化の現実にふれることのない人間のしるしだとされている。そうした基準からみて、仮に文化の中に狂気など存在しないということであれば、成功したナルシシストは狂気からほど遠くにいるということになる。しかし、現代の大都市に見られるような人々の熱狂性、

もっと多くのお金を儲けようとして、もっと大きな権力を手に入れようとして、前に進もうとして、がんばっている人たちは、どこか狂ったところがありはしないだろうか

熱狂は狂気のしるしなのではないだろうか

 

ナルシシズムの底に潜む狂気を理解するためには、専門性にとらわれない視野を持つ必要がある。たとえば「都会の騒音は人を狂わせる」などというとき、私たちは現実的で、人間的な、意味のある言葉として話す。だれかを「少々狂っている」と評するとき、私たちは精神医学の文献では見ることができないような真理を表現している。

 

人々が普通の、日常的な言葉で表現するような経験をも取り込むことができるように、精神医学がその概念や理解を拡大することができるなら、それは精神医学にとって大いに得るところがあるだろう。

 

ナルシスティックな状況について理解するには、問題をつくりだす文化の諸力と、個人がなぜ、その状況に加担してゆくのかという心理的要因の両方を考える必要がある

 

患者はみな自分を理解してくれる人を必死に求めている。彼らは子どものころ両親に理解されていなかった。彼らは感情をもった人間として見られておらず、同時に人間性にたいする敬意をこめてあつかわれてもいなかった。彼らの苦しみを見抜くこと、恐れに気づくこと、人を狂わせもするような家庭環境の中で、自己の正気を保つための闘いがいかに激しいものであるかを知ることでしか、彼らの障害から脱出しようとする努力に、有効な援助を与えることは出来ないのである。

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理

(新曜社)より

魂の殺人

彼の説明によれば、父親の冷たさと敵対性はほとんど母親を狂わせるばかりであったという。それはまるで悪夢のようだった。しかしエリックは、だからといって苦しんでいるわけではまったくないと断言した。

 

感情がないということをぼくは苦にしていません。バッチリうまくやっているんですから」。

私はただこう答えることができただけである。「死んだ人間には苦しみがないし、なにものも死者を苦しめることはできない。あなたはただたんに自分を殺してしまっただけなんですよ」。このように言えば彼も痛みを覚えるだろうと思ったからである。彼の答えは私を仰天させた

ぼくは自分が死んでいることを知っています」。彼はこう言ったのである。エリックは次のように説明した。

 

「まだ幼かったころ、ぼくは死を考えることを恐れていました。そこでぼくはこう思ったんです。もしぼくがもう死んでしまっているのなら、ぼくにはもう恐れるものはないって。だからぼくは、自分が死んだんだと考えることにしたのです」。

 

エリックは自分を「モノ」として見ている。彼は自分のイメージを表現するときに「モノ」という言葉さえ使う。ほかのひとびとの反応から自分が代償的な満足をひきだしていることを彼は認めてはいるけれども、彼の目的は、ひとつの道具として、彼らのために何かよいことをすることであった。

 

彼は自分がどこかおかしいということは知っていた。しかし彼は、そのことに関わり合いのある感情を否定していた。彼は自分が変わらなければならないことを知ってはいるのだが、同時に自分自身を守ってくれる強力な防護壁も発達させてきていた。そのような防護壁は、その仕組みを十分に理解し、そして患者の協力を得るのでないかぎりは、こわすことができない。エリックはなぜ、感情にたいしてそんなにも強力な防護壁を築き上げたのか?彼はなぜ、自分自身を埋葬してしまったのか?彼は本当は何を恐れていたのだろうか

 

その答えは狂気である、と私は考える。自分は死を恐れているとエリックは主張したが、それは確かにそうだろうとは思う。だが、死に対する彼の恐怖は意識的なものであるけれども、狂気に対する恐怖は無意識的なものであるから、その方が一層深い。

 

彼は(無意識にではあるが)次のように信じていた。どんな感情であれ、それが意識に上ることを許せばダム(正気の防護壁)にひびが入ってしまう。そうなれば自分は感情の奔流に押し流され、押しつぶされて、狂ってしまうだろう。

 

彼の無意識の内では、感情が狂気やヒステリーの母親と同じものとされていた。⇔ エリックは父親に同一化し、意思や理性や論理を正気や力と同一視していたのである

 

私は彼に、感情そのものは狂わないこと、それはいつでも妥当なものであることを説明した。しかしながら人が自分の感情を受け入れることができないとき、感情が思考と矛盾するように思われるときには、その人は分裂した自分(狂った自分)を経験するだろうと話した。

 

自分の感情を否定することは意味がない。感情を否定できるのは、自分が生きているという感覚を覚える身体から、意識を切り離すことによってのみである。そのとき人は「あたかも・・・・・であるかのごとく」という形でに行動するように努力し続けなければならない。それは人を疲弊させ、何ら得ることのない営みである。このように考えてみたらどうだろうか?

 

公判中に逃走し、自首する勇気もないけれど、隠れていることの緊張にも耐えられない逃亡犯がいる。この人間の態度が事実上狂ったものであり、自首することによってのみ心の平安が訪れるということをエリックが理解し、認めることができるなら、彼は狂ってはいないだろうと

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より
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