納屋を立てる:1

 

岡崎照男・訳「パパラギ」初めて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集、立風書房より

 

( `ー´)ノ どのパパラギも職業というものを持っている。職業というものが何か、説明するのはむずかしい。喜び勇んでしなくちゃならないが、たいていちっともやりたくない何か、それが職業というもののようである。

 

( `ー´)ノ 職業を持つとは、いつでもひとつのこと、同じことをくりかえすという意味である。目をつぶっていても、また、全然緊張なしでもできるまで何回もそれをくり返す。たとえば私が自分で小屋を作るとか、むしろを編むほか、何にも仕事をしないとする。― すると私の職業は小屋作り、あるいは、むしろ編みということになる。

 

( `ー´)ノ だからこんなこともよく起こる。たいていのパパラギが、その職業ですることのほか何もできない。頭は知恵にあふれ、腕は力に満ちている最高の酋長が、自分の寝むしろを横木に掛けることもできなかったり、自分の食器が洗えなかったりする。また、こういうことも起こる。色とりどりにツッシ(手紙、文章)を書ける人が、入江でカヌーを走らせる力がなかったり、その逆もまた起こり得る。

 

( `ー´)ノ できることはたったひとつだけ、というこの能力には、大きな欠陥と危険がある。というのは、だれだって一度くらい、どうしても入江でカヌーを漕がなければならなくなるということは、大いにあり得ることだから。

 

( `ー´)ノ 小屋を建てるのは楽しいことだ。森で木を切り、柱を作る。それから柱を立て、その上に屋根をのせ、柱も梁もその他何もかも、ヤシ縄でしばって、最後に乾いた砂糖きびの葉で屋根をふく。

 

( `ー´)ノ それなのにもし、村のほんの少しの男にだけしか、森で木を切り、柱をを作るのが許されないとしたら、そのときおまえたちは何と言うだろう。そして、小屋の落成式を祝うのが、小屋を建てた全部に許されるのではなく、中に住む人たちだけだったら、どうだろう。

 

( `ー´)ノ パパラギも実は、そのことでとても困っている。一日に一回、いやもっと何回でも、小川へ水を汲みに行くのは楽しいことだ。しかし日の出から夜まで、毎日毎時汲み続けねばならないとしたら、力のあるかぎり、くり返しくり返し水汲みばかりしなければならないとしたら― 最後には、自分のからだの手かせ足かせにむほんを起こし、彼は怒りの中で爆発するだろう。まったく、同じくり返しの仕事ほど、人間にとってつらいことはないのだから

納屋を立てる:2

(゚Д゚)ノ おい!ジョン・ブック、イングリッシュに気を付けるのだぞ

➡ 映画「刑事ジョンブック・目撃者」より

 

岡崎照男・訳「パパラギ」初めて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集、立風書房より

 

( `ー´)ノ  ヨーロッパにはたぶん、私たちの島のヤシの木よりもたくさんの人がいるが、彼らの顔は灰のように暗い。仕事が楽しくないから、職業が彼らのあらゆる喜びを食いつぶしてしまったから、仕事をしても、実どころか葉っぱ一枚作って喜ぶこともできないから。

 

( `ー´)ノ それゆえ職業を持つ人びとの心には、鎖でしばられ、逃げようとしても逃げられない獣のような何かがある。そしてすべての人びとが、他人をうらやみ、他人に嫉妬しながら、お互いの職業を比べ合い、あの職業は尊いとか卑しいとか、しきりにごたくを並べている。

 

( `ー´)ノ そうではなく、すべての職業は、それだけでは不完全なものなのだ。なぜなら人間は手だけ、足だけでなく、頭だけでもない。みんなをいっしょにまとめていくのが人間なのだ。手も足も頭も、みんないっしょになりたがっている。からだの全部、心の全部がいっしょに働いて、はじめて人の心はすこやかな喜びを感じる。だが、人間の一部分だけが生きるのだとすれば、ほかのところはみな、死んでしまうほかはない。こうなると人はめちゃめちゃになり、やけになり、そうでなければ病気になる

 

( `ー´)ノ パパラギの生き方は、職業のためにめちゃめちゃになっている。しかし、そのことに彼らは気がつこうとしない。そして私がこんなことを語っているのを聞いたら、まちがいなく、彼らは私を馬鹿だと言い切るだろう。自分でどんな職業についたこともなく、ヨーロッパ人のように仕事をしたこともないのだから、判断ができるわけがないのに、裁判官になりたがっている、と言って。

 

( `ー´)ノ 腹いっぱい食べ、頭の上に屋根を持ち、村の広場で祭りを楽しむために、神さまは私たちに働けとおっしゃる。だがそれ以上になぜ働かなければならないのか。パパラギはこのことについて、正直に答えたこともなく、意見を聞かせてくれたこともない。私たちの仕事はほんのちょっぴりで、職業という点からは、貧しく見えるかもしれない。だが、たくさんの島の心正しい兄弟たちは、喜びとともに自分の仕事をする。決して苦しみながらではない。そんな仕事なら全然しないほうがましだ

 

( `ー´)ノ パパラギは自分の仕事について話すとき、まるで重荷におさえつけれれたようにため息をつく。だがサモアの若者たちは歌いながらタロ芋畑へいそぎ、娘たちも歌いながら流れる小川で腰布を洗う。大いなる心は、私たちが職業のために青ざめて、ヒキガエルや入江の底をはう虫のように、はいずり歩くことを決して喜びはしない。大いなる心は、私たちがすべての行いを、誇り高く、正しく行うことを、そしていつも喜びの目と、しなやかな手足を持った人間であることを望まれるのだ。

経済的価値観の変革

 

「あたりまえ(オーディナリー)」の仕事とは、その語源が示すように、自然環境の中でわれわれが知覚する秩序(オーダー)と調和のとれた仕事のことである。➡ フリッチョフ・カプラ

 

「新ターニングポイント」フリッチョフ・カプラ著、1995年、工作舎より

 

☟ われわれの価値体系の見直しに必要とされる重要な要素は「仕事」を定義しなおすということである。われわれの社会では、仕事とは賃労働のことであり、雇主と賃金のために行われるもので、無償の行為は仕事とみなされない。たとえば、家庭内で男女が行なう仕事は何の経済的価値も与えられない。しかし、家事は、金銭に換算すれば、合衆国の全法人が支払う賃金と俸給の総額の三分の二に等しいのである。

 

☟ 一方、賃労働における仕事は、望めばすぐに得られるというものではなくなってきている。失業者であることは社会的な恥辱になり、仕事が得られないという理由で自他ともに地位と尊敬を失うような気になるのだ。同時に、現に職業を持っている人も、何の誇りも持てず、深刻な疎外と不満が残るような仕事を強いられていることが多い。

 

☟ この疎外は労働者が生産手段を持たず、自分の仕事に関して発言権もなく、その生産過程に何の意義も認めることができないという事実からきている。現代の産業労働者は、もはや、自分の仕事に責任を感じ、誇りを持つことができない。その結果が、ますます工芸的、美術的、趣味的な味わいの薄れていく製品群である。こうして仕事の質は極度に低下する。つまり、労働者にとっての唯一の仕事の目的は「生活費を稼ぐこと」であり、雇用者の最終目標は利益の増大なのである

 

☟ われわれの文化には、多種多様な仕事の地位に関して奇妙な階級構造が存在する。もっとも低い地位にある仕事はもっとも「周期的」な仕事、すなわち、営々とした努力の痕跡があっという間に消えてしまう仕事であることが多い。それらは、すぐに食べられてしまう食事をつくること、しばらくするとまた汚れてしまう工場の床掃除、たえず伸びる生け垣や芝生の刈りこみなどである。

 

☟ 全ての先進工業国と同じく、われわれの社会でも、日々の暮らしに不可欠であるにもかかわらず周期的な仕事「家事・サービス業・農業」には最も低い価値が与えられ、最低賃金が支払われる。

 

☟ 地位の高い職業には何か永続するもの「高層ビル、ジェット機、宇宙ロケット、兵器をはじめとするありとあらゆるハイテクノロジー生産物」をつくりだす仕事が含まれる。高い地位は、いかに退屈であろうと、ハイテクノロジーに結び付いたすべての行政的な仕事にも与えられている。

 

☟ 仕事の階級構造は伝統的な社会では正反対になる。仏教の僧侶は料理、庭仕事、家の掃除を瞑想活動の一部とみなし、キリスト教の修道士や尼僧には農耕や看護などの長い奉仕活動の伝統がある。そうした伝統で、周期的な仕事と高い精神的な価値が一致するのはエコロジカルな認識に根ざすものだと思われる。くり返して行う必要のある仕事は、成長と衰退、誕生と死といった自然の循環を認識するのに役立ち、大自然の秩序を学ぶ一助となる

 

☟ 来るべき経済思想にみられる人間の心のあり方、価値観、ライフスタイルに対する画然とした論及が、この学問を限りなくヒューマニスティックなものにするだろう。それは、人間の大きな抱負と潜在力に対処し、エコロジカルな構造の中にそれらを統合させてゆくだろう。そして、その最終的な姿は、科学的であると同時に精神的なものになるだろう

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