衰退の症候群

人生における最も有害で危険な形態は、死を愛好すること、悪性のナルシシズム、共生的・近親相姦的固着である。この三つが結合すると、「衰退の症候群」=人間を破壊のための破壊へ駆り立てるもの、そして憎悪のための憎悪へ駆り立てるものを、形成するようになる。

 

「衰退の症候群」に対立するものとして、フロムは「生長の症候群」についても述べている。「生長の症候群」とは死を愛好する心に対立するものとしての生への愛、ナルシシズムに対立するものとしての、人間への愛、共生的・近親相姦的固着に対立するものとしての独立性から成立している。

 

この二つの症候群のうちどちらか一方が十分発達しているのは、ごく少数の人に限られている。しかし人はそれぞれ自分の選択した方向、つまり生の方向か死の方向、善の方向か悪の方向に進むことは否定しがたい

エーリッヒ・フロム 「悪について」鈴木重吉訳、紀伊国屋書店より

 

そして彼女はこう説明しました。嗜癖システムのおける根本的な嗜癖は、無力と非生命への嗜癖である。と。ほかのすべての嗜癖は、この二つ根本的な嗜癖から導き出された二次的嗜癖にすぎないと言うのです。

 

どんなタイプの嗜癖も遅かれ早かれ死に至ります。回復への道を進むために最初に嗜癖者がしなければならないのが、死なないという選択です。

 

少なくとも三種類の選択の組み合わせが可能です。

① 生きないことを選び、死を選択する。

② 死なないことを選び、生を選択する。➡ システムの変革へ。

③ 死なないことを選択し、生きないことを選択する。➡ 嗜癖システムへの完全適応へ。

③の選択をする人は私たちの周囲に溢れています。彼らはまるでゾンビです。システムのうちの無意味な役割に従っていて安楽を見出すのです。彼らは死なないという選択をしますが、同時に自分の人生を生きてはいません。なぜならシステムがその存続のために彼らを必要とし、それゆえ彼らはそこに収まることが出来るからなのです。

 

生きるという選択をすることは、もはや今のシステムを支えることが出来ないことを意味します

➡ アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会」誠信書房より

人間ー狼か羊か

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

人間は狼か羊かという疑問は、欧米の神学及び哲学の思想上の一つの根源的問題、すなわち人間は根源的に悪で堕落しているのか、それとも善であり完全になり得るのかという疑問の特異化にすぎない。

 

旧約聖書では、人間は根源的に堕落しているという立場をとらない。アダムとイブが神の命令に背いたことは罪と呼ばれない。この違背が人間を堕落させたとは、どこにも書かれていない。この最初の違背行為こそ、人間が自由を獲得するための第一歩であり、違背は神の御業であったとさえ思われる

 

なぜなら、人間は楽園を追放されたからこそ、自己の歴史をつくり、人間的能力を発達させ、未だ個として自覚のなかった土着的な結びつきに代わり、発達した個人として、人間と自然との新たな調和に到達しうるのである

 

予言者のメシアに関する教えは、たしかに人間は根源的に堕落しているのではなく、主の恩寵による奇跡をまたずに救われうることをほのめかしている。しかし、それは善に向かう可能性が当然勝利を収めるという意味ではない。人間はひとたび悪事を働けば、ますます悪事を重ねるようになる。かくしてファラオ(旧約聖書でイスラエル人を迫害した王の意)は悪事をしつづけたが故に心が硬化し、変心も懺悔も不可能なほどに硬化したと、旧約聖書では善行と同じくらい悪行の例を挙げ、ダビデのような気高い人物でさえ、悪行をした者のリストから除外されてはいない。

 

旧約聖書の見解では、人間には二つの能力(善をなす能力と悪をはたらく能力)があり、善と悪、祝福と呪い、生と死を選択せねばならない。神でさえこの選択には干渉しない。主はその使途である予言者を送り、善を実現させる規律を教え、悪を明らかにし、警告し、選択の助言をする。しかしそれがすむと、人間はそれぞれ善と悪の闘いに取り残され、その決定は人間ひとりですることになる

 

キリスト教の発展は別であった。キリスト教会の発達過程では、アダムの違背は罪と考えられた。事実、それは重罪であり、そのためアダムは堕落し、彼の子孫も堕落した。人間は自分の力で堕落から逃れることは出来ない。そのため主の恩寵による行い、つまり罪人のために死んだキリストの出現により救済され、キリストを信じる人々に救いの手をのべることができた。

 

しかし、原罪の意義について教団内で反対がなかったわけではない。教団内部のルネサンスのヒューマニストたちは、直接攻撃や否定することはできなかったが、その教義を弱めようとしていた。ルネサンスと啓蒙主義後期の思想家たちは、人間に内在する悪は環境の結果にすぎないから、人間に選択の必要はないと主張し、悪を生む環境を変えれば、善が自動的に現れると考えた。この見解はマルクスとその後継者に影響を与えた。人間の善に対する信頼は、ルネサンスと共に始まる驚異的な政治経済の発展により得られた自信の結果である

 

逆に第一次世界大戦始まり、ヒットラーとスターリン、コヴェントリー(第二次世界大戦、爆撃により壊滅)と広島・長崎を経て、世界の滅亡を準備しつつある現在までの先進国の精神的破壊は、ふたたび悪に向かう人間の性向を強調する昔の状態を現出した。この新たな強調は、人間に内在する悪の可能性を軽視しがちなことへの健全な解毒剤となった。だが、余りにも多くの場合、時には彼らの立場を誤解したり歪曲することにより、人間によせる信頼を失っていない人々を嘲笑する結果になりがちである

内に潜む悪

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

自分ではどうすることも出来ないという無力感の増大は、「戦争は人間のもつ破壊的傾向の結果であるが故に不可避である」。と主張する人の合理化に寄与し、新たな堕落と原罪説を受容する危険をはらんでいるとフロムは主張する。

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精神分析者として長い臨床経験をもつ人なら、人間に内在する破壊力を軽視することは非常に困難だろう。分析者は重症患者の中に、この力が働くのを見て、その力を阻止し、それを建設的方向に向けることは、途方もなく難事だということを経験する。同じように、第一次世界大戦の初めから悪の暴発と破壊性を目撃してきた人なら、人間の破壊性の持つ力や強さを直視しないわけにはいかないだろう

 

戦争とは政治・軍事・経済の指導者たちが、領土・天然資源・貿易上の利益を得るため、あるいは外敵によって自国の安全に加えられる真実あるいは架空の脅威を防ぐため、更には自国の名誉と国威を宣揚するために開戦決定する結果なのである

 

この人たちは一般の人と異なるわけではない。利己的で他人のために自己の利益を捨てるようなことはほとんどなくても、残忍でも邪悪でもない日常生活ではおそらく害になるよりは善行をなすこういった人たちが、多数の人びとを支配し、最も破壊的な兵器を自由にし得る立場につくと、測り知れぬ害毒を引き起こすことが出来る。人類を破滅に導くかもしれない異常な権力をもった普通の人間は、悪鬼やサディストではない。しかし、人類にとってなによりも危険である。

 

戦争をするためには武器が必要であるように、数百万の人びとに生命を賭け、また殺人者とならせるには、憎悪・憤怒・怖れ・破壊性の感情が必要である。しかし、こういう感情は開戦の必要条件ではあるが、大砲や爆弾と同様に、それ自体は開戦の理由にはならない

 

核装備されたミサイルを発射する人は、兵士が銃を使ったときと同じような「殺人」の経験をすることはまずないだろう。だが、核兵器を発射する行為は意識的には命令を忠実に守るに過ぎなくとも、このような行為を可能にするには、破壊衝動でないにしても、生命への根強い無関心がそのパーソナリティの深層にあるのではなかろうかという疑問が残る。➡ エーリッヒ・フロム

暴力のスペクトル 1、遊びと防衛反応

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

最も正常であり病的でない暴力の形態は遊びの暴力(playful violence)である。暴力が破壊に向かわず、憎悪や破壊性にも動機づけられず、技量を示すために現れるような形態に、われわれは遊びの「激情」を見るのである。その例は、未開種族の戦争ごっこから、スポーツまで広範囲に見受けられる。こういう戦いの勝負では相手を殺すことが目的ではない。実際には無意識の攻撃性と破壊性が、勝負の背後に隠されていることが少なくないが、この形の「激情」の主な動機は技量を示すことであり破壊ではない。もちろん、殺したい気持ちなど全くないと言える場合は、こういった勝負の理想的な形に当てはまる。

 

遊びの暴力より実際的に意味を持つのは、防衛⇔反動的な暴力(reactive violence)である。防衛⇔反動的な暴力とは、自分ないし他人の生命、自由、対面、財産を守るために用いられる「激情」のことである。それは恐れに根差しているので、おそらくもっとも起こる可能性の多い暴力のタイプだろう。その恐れは現実であれ想像であれ、また意識的であれ無意識であれ、このタイプの「激情」は死ではなく生に役立ち、目的とするところは防衛であって破壊ではない。それは全く不合理な「激情」ではなく、ある程度合理的で意識的なものであり、目的と手段の釣り合いがとれている

 

しかしながら、脅迫されているという感情とその結果生じる防衛的「激情」は事実に基づくものではなくて、人間の心理の働きに基づいていることが多い。政治や宗教の指導者は支持者たちに敵が攻撃していると信じ込ませ、防衛的な敵意を主観的な反応に転嫁する。そのようなわけで戦争の正義・不正義の区別は実に疑わしくなる。双方ともに自分の立場は互いの攻撃から身を守るために正当であると巧妙に印象づけるからである。

 

防衛という名を借りない侵略戦争はほとんど例がない防衛を正しく主張したものは誰かという問題のほとんどは、勝者によって決められる。いかなる戦争も防衛の闘いを装うという傾向は、二つの事例を示している。第一に、国民の大多数に、自分たちの生命と財産を守るための闘いであると確信させなければ、殺したり死んだりは出来ないということ。第二に、自分たちは攻撃の危険にさらされているため、防衛のための闘いに参加するのだと思わせるのは、さほど困難ではないということである

このように思い込むのは、たいていは独立した理性と感情を欠いた大多数の人びとが政治の指導者に情緒的に依存しているからである。こうした依存心があれば、プロパガンダで提示されるどのようなことでも真実と受け取られ、脅威と称するものを信じることの結果は実際の脅威と同じ力を持つ。

人々は脅威を受けていると感じると、自分を守るために進んで殺したり破壊したりする。偏執病患者の被害妄想にも同じ無意識のメカニズムを見るが、それは集団ではなく個人であることが違うだけで、どちらの場合も主観的に本人が危険を感じ、攻撃的な反応を示すのである。

暴力のスペクトル 2、妬みと嫉妬、復讐

反動的暴力のもう一つの面は「欲求不満」による「激情」である。願望や欲求が挫折するときには、動物や子供、そして大人であっても攻撃的にふるまうことがある。こういった攻撃的行動はほとんど報われないが、挫折した目的を暴力的な行為により果たそうとすることが、その「激情」の本質である

 

願望や欲望の挫折は現代社会では頻繁に起こることであり、その結果としての暴力事件が日常的に起こることは驚くにあたらない

 

欲求不満に由来する攻撃性と関連して、<妬み>と<嫉妬>から生ずる敵対行為がある。妬みも嫉妬も欲求不満の特別な種類である。それはBがAの欲しいものを持っているとか、Aが愛されたいと思っている人に、Bが愛されているというようなことが原因となり、Aが欲しがっていても所有できないものを持つBに対して、Aの心中に憎悪や敵意が起こるのである。Aの敵意は、望むものを手にできないばかりでなく、他人がそれを手に入れるという事実によって強化される。自分には何の落ち度もないのに、神に愛されなかったカインが、神の愛を受けるアベルを殺害する物語は、妬みと嫉妬の古典版である。

 

反動的「激情」に関係あるが、より病的な「激情」のタイプは「復讐の激情」である、防衛⇔反動的激情においては、その目的は脅迫されている危害を避けることにあるので、この「激情」は生命保存のための生物学的に合理的な機能である。ところが復讐の場合、危害はすでに与えられているので、その激情に防衛の働きはなく、「復讐は無意味である」という言葉の意味が表すように非合理である

 

復讐の動因は、集団または個人のもつ強さと創造性に反比例する。

創造的能力のない人間は、自尊心が傷つけられたり砕かれたりすると、その回復の手段として頼れるものは「目には目を」というたとえのように復讐することだけである

一方、創造的に生きている人にはそういう必要はほとんどない。傷つけられ、侮辱され、損害を与えられても、創造的に暮らしている過程そのものが過去の傷を忘れさせる生み出す能力というものは、復讐の欲求よりも強いということがわかる

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

君たちは素晴らしい人の命を奪った。掛け替えのない人、私の最愛の人、息子の母親を君たちは奪った。君たちが誰か知らないし、知りたいとも思わない。君たちは死んだ魂だ。憎しみという贈り物を君たちにはあげない。怒りで応じてしまったら、君たちと同じ無知に屈することになる。➡ アントワーヌ・レリス

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