ユング著「タイプ論」まえがき より

私が今も一人でいるのは、人が知りたいと思わないことを私が知らせてしまうかもしれないからだ。➡ ユング

(ユングは自宅に塔のような建物を建て、そこで仕事をすることが多かった)。

 

本書は臨床心理学における、ほぼ20年にわたる研究の成果である。このアイデアは、一方では精神科及び神経科における臨床やあらゆる階層の人々とのつき合いによって得られた無数の印象や経験から、他方では友人や反対者との私の個人的な討論から、そして最後に私自身の心理的特質の批判から、しだいに生まれてきたものである。私は読者を煩瑣(はんさ)な議論に悩ませることはしたくないと思った。その代わりに私が用いたのは、経験から引き出した私の考えを、歴史的にも用語においても、すでに存在している知見と関係づけることであった。私がそれを企てたのは、歴史的に正当に評価されたいと思ったからというよりは、むしろ専門医師たちの経験を狭い専門分野から広い世界に持ち出して、教養ある素人が専門分野の経験を利用できるようにしたいと思ったからである

(1920年春、チューリッヒ、キュスナハトにて、C・G・ユング)

 

すなわち批判はしばしば次のような誤りを犯している。つまり彼らはタイプがいわゆる勝手に考え出されたものであって、経験的素材にいわば押しつけられたものだと思い込んでいるのである。私はこの思い込みに対して、私のタイプ論は長年の臨床経験の結果であり、しかもこの経験は書斎派の心理学者にはまったくうかがい知ることのできないものであることを強調しておきたい。私は何よりもまず医師であり、臨床心理療法家であり、私の心理学の定式はすべて、日々の困難な職業労働の経験から生まれたものである。それゆえ私が本書で述べていることは、いわば一言一句が実際に患者を治療している中で何百回となく試みられたことであり、もともとはその中から生まれたものなのである。(第七版序文、より)

 

二つのタイプ

私が臨床医として神経症患者と接する中で、ずっと以前から気づいていたことがある。それは、人間心理には、多くの個々の差異のほかにタイプの違いもあるということである。中でもまっ先に私の注意をひいたのは、私が内向型および外向型と名づけた二つのタイプであった。

 

人間の人生の歩みを観察してみると、一方の人間の運命はむしろ彼の関心の対象によって影響を受け、他方の人間の運命はむしろ彼自身の内面によって(彼の主観によって)影響を受けていることが分かる。

そして私たちは、いくぶんかは前者か後者の側に片寄っているので、当然のことながら、何事もそのつど自分のタイプを基準にして理解しがちである

主体か?客体か?

人々があらかじめ「自分のタイプ」について詳しく知っているのならば「タイプ論」の理解はそれほど難しくないとユングは言う。しかし、私たちは自分の人格について考えるとき、どうしても判断が曇りがちである。

 

個の主観的な判断の「曇り」が頻繁に起こるのは、はっきりしたタイプのいずれにも、そのタイプの一面性を補償しようとする特別な傾向、すなわち心の平衡を保とうとする意味で生物学的に合目的的な傾向が内在しているからである。➡ ユング

 

この補償作用によって、副次的な性格(サブタイプ)が発生するが、このサブタイプを判読するのが難しい。それがあまりに困難なので、どうしてもタイプそのものを否定して、ただ一人一人が異なっているだけだと信じがちである。

 

話を簡単にするために、各タイプをバラバラに記述するのが妥当と思われるかもしれないが、人間は誰でも内向と外向の二つのメカニズムを備えていて、ただどちらか相対的に優位な方がその人のタイプになるに過ぎないのである。

 

内向と外向

二つのタイプの問題は、昔から、深い洞察力をもつ思想家の関心を引いてきた。たとえばゲーテは彼の直観により、収縮(ジストレー)と拡散(ディアストレー)という包括的原理として呈示した。内向や外向に関する名称や概念は実にさまざまであるが、根本的な理解は常に共通である。

 

すなわち、一方には、関心の向きが客体へと向かう場合があり、他方には、関心の向きが客体から離れて主体へと、つまり主体自身の心理過程へと向かう場合があるという理解である

 

➡外向型の場合、客体は主体に対して磁石のような働きをし、主体を引き付け支配する。それどころか、客体は主体者自身を疎外して、主体の性質を客体と同化することによって変えてしまうのである。つまり、客体が主体がより高い意味を持ち、自らの運命に関しては客体が絶対的な力を持つと考えるようになる。

 

これに対して、⇒内向型の場合、主体がいつも関心の的である。それはまるで、究極的にはすべての生命エネルギーが主体を探し求めており、そのために、客体が何らかの意味で強い影響力をもつことを常に妨げているように見える。外向型とは逆に、主体自身が磁石となり、客体のエネルギーすべて引き付けようとしているような印象を受ける。

 

⇒この立場はいかなる時も、自我や心理的な事柄を客観的事柄より上に置こうとする、あるいは客体に対抗しようと努めるものである。この態度が高じると、客体が常に低い価値基準に置かれ、副次的な意味しか持たなくなる。客体は主観的な内容をあらわす記号あるいは、理念が具象化したものにすぎない。大事なのは「理念」であり、客体が感情の対象となった場合でも、重要なのは主体の感情体験であり、客体の個性ではないのである。

 

➡これに対して、外向的立場は主体を客体より下に置き、客体に高い評価を与える。主体はつねに副次的な意味しかもたない。つまり主観的な事柄はしばしば単に客観的な出来事を妨害する余計な添え物としか思われないのである。

 

こうした二つの立場から生まれる心理が、二つの異なった方向に分裂せざるを得ないのは明らかである。一方は何事も自分の見解を視点として見るが、他方は客観的な出来事を視点として見るのである

二つの「構えのタイプ」と四つの「機能タイプ」

内向と外向という表面的で大まかな区分けとは別に、人間は個々の心理的な基本機能によっても区別されるとユングは考えた。個人は生まれつきに(生物学的機能によって)思考・感情・感覚・直感のいづれかが優位であり、これが習慣化することにより「タイプ」が成立する。さらにこれらのタイプのそれぞれが、客体に対してどのように振舞うかによって、内向的か外向的であり得る。

内向的思考型・外向的思考型、内向的感情型・外向的感情型、

内向的感覚型・外向的感覚型、内向的直観型・外向的直観型。

ユングのタイプはエニアグラムの各タイプに、おおむね対応する。

タイプ1(改革する人) ⇔外向的思考型

タイプ2(人を助ける人)⇔外向的感情型

タイプ3(地位探究者)⇔(ユングのタイプ論には当てはまらない)

タイプ4(芸術家)   ⇔内向的直観型

タイプ5(考える人)  ⇔内向的思考型

タイプ6(忠実な人)  ⇔内向的感情型

タイプ7(万能選手)  ⇔外向型感覚型

タイプ8(統率者)   ⇔外向的直観型

タイプ9(調停者)   ⇔内向的感覚型

 

構えのタイプ

一般的な二つのタイプは、それぞれのタイプに特有な、客体に対する構えによって区別される。

⇒内向型の人は客体を無視する態度をとる。彼がいつも配慮しているのは、結局、客体からリピドー(心的エネルギー)を奪い取ることであり、まるで客体が優位になることを防ごうとしているようである。

➡外向型の人は、客体に対して積極的な態度をとる。彼は客体の意義を高く評価し、自らの主観的な構えを客体に従って方向づけ、客体に関連付ける。客体は彼にとって最高の価値を持ち、客体の重要性は高まらざるを得ない。

 

この二つのタイプはあまりに異なっているので、両タイプの存在は容易に見出すことが出来る。閉鎖的で心の内を明かさない、しばしば内気な人がいる一方で、まったく反対にあけっぴろげで愛想がよく、少なくとも親切で人好きな性格の人がいる。こうした対照は、単にその人特有の性格構造として個別的に理解されがちであるが、多くの人と深い付き合いを続けるならば、当初想定したよりも、類型的で普遍的なものであることが理解されてくる

 

このような性格の違いは、広くあらゆる階層に見られ、職業の違いや、専門的教育の有無、あるいは性の違いにかかわらず、広く見出すことが出来る。

 

内向型か外向型かの性格の違いを、個人が意識的・意図的に選択した結果だとすれば、この対立がこれほどまでに普遍的に見られることはありえない。もしそうならば、同一の教育と教養を持ち、地域的にも一定の範囲に住む特定の人びとが、一方の考えを主として持つということになってしまう。

 

現実にはそうしたことは起こっていない。むしろ正反対に、タイプは見たところバラバラに分布している。同じ家族でも、ある子どもは内向的であり、別の子どもは外向的である。こうした事実に照らすと、「構えのタイプ」は明らかに偶然に分布する普遍的な現象である。これらは、意識的な判断や学習が原因ではなく、おそらく無意識的で本能的な基盤から来たものと考えられる。したがってタイプの違いは普遍的な心理現象であり、何らかの生物学的な先駆形態を持つに違いない。      <C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

「草食系」対「肉食系」

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

主体と客体の関係は生物学的に見て「適応」の関係である。自然界には生物が適応し、それによって生き続けるための二つの方法がある。一つは

⇒ 個々の防衛力が劣ることや、寿命が短いことの代わりに繁殖力を大きくするというものであり、もう一つは

➡ 繁殖力が弱い代わりに自己保存のための手段を個体に持たせるというものである。

 

この生物学的対立は、われわれの二つの心理的適応様式に似ているというだけでなく、その普遍的な基盤でもあると考えられる。すなわち

➡ 外向型はつねに自分の力を使い果たし、あらゆることに首を突っ込む特性(貪り食うタイプ)を持ち、

⇒ 内向型は外界の要求に対して防衛線を張り、客体と直接関係のあるエネルギー支出を可能な限り抑え、安全で強力な陣地を築こうとする傾向(多産タイプ)を持っている。

 

二つの道はどちらとも有効であり、「心理的構え」においても同様である。すなわち一方は、

➡ たくさんの関係を結びつけることにより成し遂げ、他方は

⇒ 独占することによって獲得するのである。

 

時にはごく幼い子供でさえタイプの違いがはっきり認められるのを見ると、心理的構えを決定する要因は子どもの素質(生物学的な機能)にあるのではないだろうかと考えられる。もちろんこれは正常な条件のもとにある場合だけである。異常な条件のもとにある場合、すなわち母親の心理が極端で異常である場合には、その子供たちが本来獲得するであろうタイプに代わって、強制的に母親のタイプをとらされることもある。このようにタイプが偽装されている場合には、その人は後に神経症になることが多く、その治療は、彼の自然にあったタイプを引きだすことによって可能になる

 

個人の固有の資質に関しては、明らかにどのタイプにも適応できる、大きな融通性を持つ人々がいる一方で、一つのタイプだけに適応し、他のタイプには適応しないほうがうまくいく人々がいる

 

ユングは自らの臨床経験から、

タイプが逆転していれば、その人は精神的に消耗し疲れ切ってしまうので、生理的機能が著しく損なわれる危険がある」。と警告する

外向型の「意識の構え」

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

誰でも外界から入ってくるデータを基準にして行動を決定するが、外界からのデータが決定的な役割を果たす場合もあれば、それほどでもない場合がある。

 

ある人は寒いとすぐにコートを着ようとするが、別の人は身体を順応させるためにすぐにコートは着ないという。ある人は、みんなが褒めているからと言って新人の歌手を賞賛するが、他の人は彼が気に入らないというよりは、むしろ皆が褒めているものが必ずしもそれに値しないという考えから彼を賞賛しない。ある人は経験に照らしてこれ以外はありえないという理由から既成事実に従うが、他の人はもう千回も同じことが続いたのだから千一回目には新しい事態が生ずるはずだと固く信じている

前者は既成の外的事実を基準にして自らを方向づけるし、後者は常に自分の意見を持っていて、それが彼と客観的な既成事実との間に割り込んでくるのである。

もっぱら客体や既成事実を基準に自らを方向付け、そのため重要な決定や行動が主観的な意見ではなく客観的な状況に支配されるとき、これを外向的な構えと呼び、これが習慣的になったものを外向的タイプと呼ぶ。ある人が良い意味でも悪い意味でも客観的状況やその要求に直接応えるかたちで考え・感じ・行動している場合、その人は外向型である。一見してわかるように主観的意見よりも客体の方が意識を決定する要因として大きな役割を演じている。もちろん彼にも自分の意見はあるのだが、その決定力は外界の客観的状況より小さいのである

 

こうして彼は絶対的な要因をつねに外界に見出すため、自分自身の中でそのような要因(主観的な意見)と出会えるなどと予想だにしない。彼は内界が外界の要求に屈しており、たしかに葛藤がないわけではないが、最後には常に客観的条件が勝利を収める

 

しかし、彼らの決定が常に外界からもたらされるのは、彼らが常に外界に期待しているからこそなのである。関心と注意は客観的出来事に、とりわけ最も身近な周囲の出来事に払われるので、行動もまた人物や事物の影響によって左右される

 

外向型の人は、常に現実の状況に対応しうる性質を持ち、客観的な出来事の範囲内で十分満足し、適切に活動する。そのため、この範囲を超えようと企てることは決してしない。同じことは興味のもち方にも言える。つまり客観的な出来事が無尽蔵に刺激を与えるので、普通これ以外のものに関心が払われることはないのである。

 

行動を規定する道徳法則も社会一般の道徳法則と一致している。社会の道徳観念が変化すれば、それに従って主体の道徳的観念も変化するので、心理的な態度全体が大きな影響を受けることがない。

 

このように、一見したところ生存条件に完全に、あるいは理想的に適応していることは、外向的な見方からすれば完全な適応状態に思える。しかし、俯瞰的にみると客観的状況がいかなる状況の元でも正常であるとは言えない。客観的条件は時代や場所によっては異常になることもあり得る。

 

こうした異常な状態に順応している個人は、たしかに周囲の異常な流儀とうまくやっていくが、それは同時に普遍妥当な生の法則(バイオフィラス)の見地から見ると、周囲の人々全員と一緒に異常な状態(ネクロフィラス)におかれているのである。そうなると一時的にはうまくやっているように思えても、最後には普遍的な生の法則に背いた罪により、周囲の人々と一緒に破滅してしまうのである。

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