国際社会からの孤立と独裁 ナチズムの心理(2)

軍人とは何だ?勝っても負けても得をすることはない。いずれ私たちは世界中から見放される。➡ ヘスラー大佐(バルジ大作戦より)

 

全体主義への逃走

ヒットラーが権力を握ってからは、さらにもう一つの誘因が力を得る。多数の人々がナチ政府に対し忠誠を捧げるに至り、数百万の人々にとって、ヒットラーの政府が「ドイツ」と同一のものになったのである。

 

ひとたびヒットラーが政府の権力を握った以上、彼に戦いを挑むことはドイツ人の共同体から自らを閉め出すことを意味する。他の諸政党が廃止され、ナチ党がドイツのものであるとき、ナチスに対する反対はドイツに対する反対を意味した。

 

より大きな集団に属していないという感情ほど、一般の人間にとって耐え難いものはないだろう。ナチズムの諸原理に対してどんなに反対していようとも、もし彼が孤独であることと、ドイツに属しているという感情を持つことと、どちらかを選ばねばならないとすれば、多くの人は後者を選ぶだろう

 

ナチズムに対する攻撃はドイツに対する攻撃と感ずるので、ナチでない人間でさえも、外国人の批判に対しては、なおナチズムを擁護するというような場合が多くみられた。どのような政党であっても、ひとたび国家の権力を掌握すると、孤独の恐怖と道徳的原理の弱さが相まって、大部分の民衆の忠誠を獲得することができるのである

 

この考察から、政治的プロパガンダの一つの公理にたどり着くことができる。すなわち、

⇒ ドイツそのものに対する攻撃、「ドイツ人」についての誹謗的プロパガンダは、それがどのようなものであっても、ナチ体制と完全に合一していない人々の忠誠心までも増大させるということである

 

しかしこの問題は巧妙なプロパガンダによっては、完全に解決することは出来ない。それは一つの根本的な真理、すなわち倫理的原理は国家の存在以上のものであり、個人はこれらの原理を固く守ることによって、過去、現在、未来を通じてこの信念を分け合う人々の共同体に属するという真理が、すべての国々において勝利を得たとき、初めて解決できる事柄である

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

既得権の喪失:ナチズムの心理(3)

労働者階級や自由主義・カトリック的ブルジョアジーの消極的なあきらめの態度と対照的に、ナチのイデオロギーは小さな商店主、職人、ホワイトカラー労働者などからなる下層中産階級によって、熱烈に歓迎された。

 

この階級の旧世代は、より消極的な大衆的基盤であったが、彼らの息子や娘たちがより積極的な闘士であった。息子や娘たちにとっては、ナチのイデオロギー

指導者に対する盲目的な服従と人種的政治的少数者に対する憎悪の精神、征服と支配への渇望、ドイツ民族と「北欧人種」の讃美は驚くべき感情的な魅力を持っていた。かれらの特徴的な社会的性格は、

強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもケチくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。彼らの人生は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人にたいしては詮索好きで嫉妬深く、さらに嫉妬心を道徳的公憤として合理化していた。彼らの生活は心理的にも経済的にも欠乏の原理にもとづいていた。

 

1918年のドイツ革命以前、君主政治の権威はゆるぎないものであり、それによりかかり、一体となることによって、下層中産階級の成員は安全感と自己満足的な誇りを獲得していた。また宗教や伝統的な道徳の権威がまだしっかり根を張っていた。家族はなお揺り動かされず、敵対的な世界における安全な避難所であった。個人は安定した社会的文化的組織に属し、そこで自分の明確な地位をもっていると感じていた。個人の経済的な地位には、自尊心と安定感を与える強固な基盤を持ち、よりかかっていた権威は、彼らに安定感をもたらすだけの強さを持っていた。しかし、

第一次世界大戦後、この状態は大きく変化した。旧中産階級の経済的衰退が急速に進行し、1923年に頂点に達するインフレにより促進された。このインフレーションは長年の労働による蓄財をほとんど完全に吹き飛ばしてしまった

経済的な要因の他に、彼らの安定を脅かす心理的事情が存在した。君主制の崩壊と敗戦である。君主制と国家が小市民の存在を支える固い岩であったが、その失墜と敗北は彼ら自身の生活の基盤を打ち砕いてしまった。インフレは経済のみならず、倹約の原理に対しても心理的な打撃となった。

小さな快楽の多くを犠牲にして、長年蓄えてきた貯蓄が、自分自身の過失でもないのに失われてしまうなら、貯蓄の目的は何であったのか?国家が紙幣や公債に書かれた約束を破るのなら、人は一体誰に信頼をおけばよいのだろうか?

 

戦後いっそう急速に衰退したのは、下層中産階級の経済的地位ばかりではなく、社会的威信もそうであった。戦前は労働者よりましなものとして自分を感じることができたが、革命後、労働者階級の威信が向上し、その結果、相対的に下層中産階級の威信が低下したのであるもはや見下ろすべき何人もなくなり、小さな商店主やその同類の人々にとって、最も貴重な資産の一つであった特権も失われた

旧世代の動揺と新世代のアクトアウト:ナチズムの心理(4)

君主制や国家のような、社会的シンボルの衰退は、家庭内における両親の権威も弱体化させた。特にインフレのもとでは古い世代は困惑し、すばしこい若い世代よりも、新しい条件にうまく適応できなかった。若い世代は旧世代に優越を感じ、目上の人間やその教えを真面目に受け取ることができなくなった。さらに中産階級の経済破綻は、両親から子どもの経済的将来の保護者としての役割を奪った。

 

下層中産階級の古い世代は、ますます怨みと憤りを感ずるようになったが、それは消極的なものであった。それに反し、若い世代は行動に突き進んでいった。彼らの経済的地位は、かつて両親が持っていたような特権が失われたために、一層悪化したのである。雇用市場は飽和状態で、社会的地位を保証された医者や弁護士などの職業に就く機会は僅かしかなかったが、戦争で戦った人々は、現実で受けているよりも、より多くのものを要求する権利があると考えていた。特に何年間も命令することに慣れ、権力を行使することに慣れていた多くの若い将校は、書記や行商人になることを潔しとしなかった

 

増大する不満は外部へと反射し、国家社会主義の重要な源泉となった。旧中産階級の経済的・社会的運命を自覚する代わりに、自己の運命を意識的に国家と関係させて考えた。現実的な不満を、国家の敗北とヴェルサイユ条約の不満にすり替えてしまったのである

 

大多数の人々が、ヴェルサイユ条約は不正であると感じ、特に中産階級は極度の激しさで反発したが、労働者階級の間では、条約に対する怨みははるかに少なかった。労働者階級にとって敗戦は旧体制の敗北を意味し、自分たちは勇敢に戦ったので、恥じることは何もないとも感じていたのである。他方、君主制の敗北によって可能になった革命の勝利は、彼らに経済的、政治的、人間的な収穫をもたらした。

 

条約に対する憤りは下層中産階級の内に根差していた。そして国家的公憤は社会的劣等感を国家的劣等感に投影する一つの合理化であった。この投影はヒットラーの個人的発展において、より鮮明になる

 

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

オポチュニズム 「形勢を見て都合の良い側に味方しようとする態度」

幕府を倒したのは攘夷というエネルギーでした。外国を打ち払え・・・、攘夷というのは要するに、鎖国を続けるということです。鎖国は日本の神代以来の国是だと思ってるんです、全部の人が。相当なインテリでもそう思っていたんです。

 

もっともね、東京に政府ができまして、長州の大物の一人で井上馨という、ちょっといかがわしいところのある、ややユーモラスな人物のところへ同郷の人がやってきて、「井上さん、ちょっとうかがいますけど、攘夷はどうなりましたか?」といったら、「あ、あれは、あの時だけだったんだ!文句を言うな!」と・・・、つまりこれが革命の秘密ですね、攘夷のエネルギーを利用して薩長が天下を取るわけですが、とった途端に明治政府は開国をするわけです。するんですけど『青写真』がない。これでは、どうしようもないんです。

➡ 司馬遼太郎「太郎の国の物語、青写真なしの新国家」

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「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

 

第一次大戦後、独占資本主義によって脅かされた中産階級、特に下層中産階級は不安と憎悪で恐慌状態に陥り、無力な人間を支配したいという渇望にまみれた。これらの感情は、まったく異なった階級によって、その階級自身の利益のために動く政治に利用された

 

ヒットラーがそのような思惑の有効な道具になったのは、ヒットラー自身が下層中産階級が持つ、憤りと憎悪に満ちたプチブルの特徴と、ドイツの財界人とユンカーの利益にいつでも奉仕しようとするオポチュニストの特徴を、感情的にも社会的にも兼ね備えていたからである。

 

彼は当初、旧中産階級の救世主であると見せかけて、百貨店の破壊、銀行資本支配の打破などを公約としたが、これらの約束は決して果たされなかった。ナチズムは純粋な政治的目的や経済的な原理は何も持っていなかったのである。

 

ナチズムの原理と言えば、まさにその極端なご都合主義であるということを理解することが重要である。普通では金や権力を獲得する機会のほとんどない何十万というプチブルに、ナチ官僚機構のメンバーとして、上層階級から強制的に富と権威の大部分を分け与えたということが問題であった。

 

ナチ機構のメンバーでないものには、ユダヤ人や政敵から取り上げた仕事が与えられた。そしてさらに残りのものは、彼等より多くのパンは獲得しなかったが「見世物」を与えられた。これらのサディズム的光景と、彼らに対し優越感を与えるイデオロギーのもたらす感情的満足によって、彼らの生活が経済的にも文化的にも貧困になったという事実を補うことができた。少なくともしばらくの間は

欠乏の原理

私たちは心で感じ、心で考える。アメリカ人は頭で感じ、頭で考える。白人は冷酷に見える。目はじっと見つめるような表情。いつも何かを探している。だが何を探すのだ。白人はいつも何かを欲しがる。いつも不安で落ち着かない。何を欲しがっているのか、我々にはわからない。どうかしてると思う

➡マウンテンレイク(アメリカン・インディアンのシャーマン)

 

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

愛は特定の対象によって「惹き起こされる」ものではない。それは人間の内に潜む不可知で、「対象」はそれを現実化するものである。憎悪が破壊を求める激しい欲望であるなら、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。

 

愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的つながりである。それは原則として、自分を含めたすべての人間や、事物に向けられるように準備されている排他的な愛というのはそれ自体一つの矛盾である

 

ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間の内のモヤモヤした愛が、対象に集中し現実化したものにすぎない。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着である。愛に含まれる根本的な肯定が恋人に向けられるとき、それは恋人を、本質的に人間的な性質の具現したものと見ているのである。

 

原則的に、私自身もまた、私の愛の対象である。自分自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる不可知な原理が存在することに根差している。そして、他人しか愛することができない人間は、まったく愛することができないのである

 

利己主義と自愛は同じものではなく、まったく逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。利己主義は継続する不充足感であり、底知れぬ落とし穴である。実現不可能の欲求をどこまでも追及させ、人間を疲弊させる。

 

利己的な人間は、いつでも不安げに自分のことばかり考えている割に、決して満足できない。常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われているのではないかという恐怖に、かりたてられている彼らは自分より多く持っている人間に燃えるような羨望を抱いている。彼らは、自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪を抱えている。

 

利己主義は自愛の欠如に根差している。自分自身を好まない人間や自分自身をよしとしない人間は、常に自分自身に不安を抱いている。彼らは純粋な行為と肯定の基盤の上のみに存在する内面的な安定をもっていない。自分自身に気を使い、あらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見開いている。

 

これと同じことは、いわゆるナルシシストにもあてはまる。彼らは自分自身のために何かを得ようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに集中する人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、彼らのナルシシズムは、利己主義者と同じように、自愛が根本的に欠けていることを無理に償おうとする結果なのである

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