恐怖に淀む社会:クリシュナムルティの授業から-4

わたしは、伝統は両刃(もろは)の剣だと思っている。あやまって、ふかい傷を負ってしまうこともある

 

世界というのは、技術や魔術の進歩によって、人口の増減によって、種族のまじわりによってさえ、変わっていく。世界は変わらないものではない。もし、伝統が変わらないものだったら、わたしたちは、破滅にすすむしかないだろう

そして、両刃の剣のかたほう ー 暗い刃の上へと落ちていくのだ

                                                  ードリッズト・ドゥアーデン

 

保守的な私たち

「私たちは概して保守的です。この言葉が何を意味するかわかりますか。『維持する』という言葉はどうでしょう。それは『もちつづける』『守る』ということです。私たちはたいてい敬われていたいのです。だからこそ正しいことをしたいし、正しい行為を模範としたいのです。でもそのことを深く突き詰めるなら、それが恐怖の兆候に他ならないことがわかるでしょう。

 

失敗してみたらどうですか。発見してみたらどうでしょう。ところが恐れている人はいつも、『正しいことをしなくては人から立派に見られなければあいつは何ものだとか取るに足らないやつだなんて世間から馬鹿にされてはならない』などと考えるのです。そういう人は実際、根底から怯えきっているのです。野心的な人間とは、ほんとうは怯えている人のことです。そして怯えているものには、愛も思いやりもありません。」

 

創造力を殺す恐怖心

詩を書く、絵を描く、木を眺める、鳥や人々、大地を愛するということは創造的な行為の一部。ところが自我が恐怖に支配されると、「これは私のもの、私の国、私のクラス、私の仲間、私の哲学、私の宗教」という思考に囚われ、創造性と相殺される。

 

「私のもの、という感覚を持ったとき、人は創造的ではありません。『自分のもの』『自分の国』という感覚を持たせるのは恐怖の本能だからです。そもそも、地球はあなたのものではないし、私のものでもないのです。地球は私たちのものなのです。アメリカ人の世界でもロシア人の世界でもインド人の世界でもなく、私たちの世界、あなたや私の、金持ちや貧しいものの世界なのです。問題は、恐怖に駆られているとき私たちは創造しないということです。恐れている人には真理であれ神であれ見出すことはできません。あらゆる崇拝やイメージ、儀式の陰には恐怖があります。ということは、あなたが信じるさまざまな神は神ではないのです。」

 

教育者の役割

若いうちに恐怖の実態を理解することはとても重要。そしてそれは、自分が恐れていることに気付いているときに限って可能だと、クリシュナムルティは言う。そして、それには大変な洞察力が必要とされるので、生徒が恐怖を理解する手助けをするのは教育者の使命である。恐怖をを理解することは、精神を研ぎ澄まし、恐怖に抵抗する力になる。

 

大人たちは美しい世界を作りませんでした。彼らは夥(おびただ)しい邪悪と恐怖と退廃と争いでいっぱいです。彼らは良い世界を築かなかったのです。もしかしたらここラジガット・スクールを卒業するとき、みなさんはあらゆる種類の恐怖から解放されているか、あるいは自分や他の人の恐怖と、どう向き合うかを理解しているかもしれません。そうなれば皆さんはきっと、共産党員や国会議員などの世界ではなく、それとはまったく異なる世界を築いてゆくことでしょう。実はそれが教育の役割なのです。」

➡J.クリシュナムルティ、有為エンジェル訳「恐怖なしに生きる」平河出版社より

恐怖を考える:クリシュナムルティの授業から-3

昔、美濃の山奥に「覚(サトリ)」という妖怪が住んでいました。覚は人間の心を読むことができる怪物で、独りで山の奥へ出かける人間を見つけると、次々に心を読み、暴き立て、その人から恐怖を引き出すと、ついには捕えて食べてしまうということです。

 

ある日のこと、一人の樵(きこり)が、山のなかで木を切っていると、とつぜん覚が現れ「今、お前は怖いと思っただろう」と樵の心を言い当てました。樵は恐怖を覚られまいと必死に考えないようにしたが、その度ごとに覚は、「今、お前は私に食べられると思っただろう」「今、私から逃げようとしただろう」と心を暴きながら徐々に樵に迫った。

 

樵は心を読まれないために無心になろうと、斧を振るい薪を割った。すると、割られた薪の一片が偶然に覚のほうへ飛んで頭に命中した。覚は「何も考えないで攻撃ができる人間は恐ろしい」と山の奥へと逃げていった。覚の思い違いが覚の恐怖となったのです。(民間伝承)

 

恐怖を洞察する

蛇をを見て跳び上がったり、暴走する車をとっさに避けたり、崖の近くでむやみに走り回ったりしないようにするのは、身体の自然な反応であり恐怖とは異なる。危険から身を護ろうとする反応は肉体的な反射であり恐怖とは区別されなければならない。恐怖は思考に密接に結びつくもので、過去の失敗や未来への不安、他人からの罰、罪悪感などから生ずる思考的な働きである。

 

「あなたは映画を観に行きたい。その日はベナレスへ出かけたいのですが先生はだめだと言います。規則があるのです。でもあなたはその規則が嫌いです。あなたは出かけたいのです。そこで何かの口実を作り、行ってしまいます。そして帰ってきたとき、先生はあなたが出かけたことを知っていて、あなたのほうは罰を受けることにおびえます。

 

ですから罰を受けると思うときに恐怖が襲います。でももし先生が、なぜ街には出掛けるべきではないかという理由を穏やかに話し、不潔な食べ物を口にするなどの危険を説明してくれるなら、あなたは理解します。説明を受けた後は主体的に考えることができるので、知恵が働き、なぜ出かけるべきではないかという理由を自分で見出すことができます

 

恐怖心などないことを示すために、やりたいことは禁止されてもなんでもやるというのは知恵ではありません。勇ましさは恐怖の反対ではないのです。戦場においてはだれもがとても勇ましいですね。彼らは様々な理由から酒を飲んだり、度胸をつけるために、いろんなことをします。でもそういうことが恐怖から自由になることではないのです。」

➡J.クリシュナムルティ、有為エンジェル訳「恐怖なしに生きる」平河出版社より

使われた恐怖:クリシュナムルティの授業から-2

(゚Д゚)ノ「達磨大師さま、わたくしは毎日が不安で仕方ありません。」

 

( `ー´)ノ「それでは、あなたの不安というものを持ってきて私に見せなさい。そうしたらその不安を取り除いてあげよう。」

 

(゚Д゚)ノ「あの、えー、不安というものを探してみましたが見つかりませんでした。」

 

( `ー´)ノ「そうか、それはよかった。不安がなかったのだから、あなたは心配する必要がないのだ。」

 

(゚Д゚)ノ「・・・・・。」

 

恐怖を利用する社会

➡J.クリシュナムルティ、有為エンジェル訳「恐怖なしに生きる」平河出版社より

 

過去の宗教の多くは人間を管理する手段として、恐怖を利用してきた。それらの宗教は「現世できちんとやらなければ、その代償は来世で払うことになる」と啓発する。すべての宗教は愛を説き、兄弟愛に触れ、人類は一つだと語る一方、きわめて狡猾、ないしは野蛮に、この恐怖心を維持し利用してきた。

 

学校で生徒に対し「がんばれ、君たちよりずっと優秀な誰それ君のような生徒になるんだ」と煽るような場合、生徒を発奮させる半面、心の内に人と比較することから生ずる恐怖を生み出す。恐怖は意図する、しないに関わらず人間を管理する場合に多く用いられている。

 

教育の場で生徒の恐怖を取り除く手助けをすることは有意義なことだとクリシュナムルティは説く。なぜなら恐怖は人間を堕落させるからだ。恐怖は人間の精神を捻じ曲げて鈍感にさせる、そうなるともう人間は聡明ではいられなくなる。

 

恐怖は黒い雲のようなものです。恐怖を抱いているときはまるで黒い雲を心に浮かべ絶えず怯えながら、燦々と照る太陽の下を歩いている感じです。」➡ クリシュナムルティ

 

真の教育とは、子供たちが恐怖を理解して、恐怖から解放される手助けをすることではないだろうかとクリシュナムルティは語る。

恐怖とは何か:クリシュナムルティの授業から-1

「君は神を信じるか?」

「何の話です?」

「神の望みは人間が死を恐れることだ。父の事故死は私に恐怖心を与えた。お陰でいい人間になれた。人間は死で終わりを迎えることを前提として存在する、あの少女を生かしておけば社会の価値観は崩壊する、死の恐怖がない社会などクズだ、堕落だ。あの少女は希望の代わりに絶望をもたらす、私は絶対許さない。」

⇒ ディーン・クーンツ「生存者」

 

「父が言うにはランゴリアーズは物置や下水などに潜む小さな生き物なんだ。」

「妖精なの?」

「ハッハッハッ、そんな可愛いもんじゃない、見た目は全身毛と歯だけだそうだ、それに速い足だ。何しろ足が速くないと、跳ね回る悪い子たちを捕まえられないからね。ランゴリアーズは何千といる、なぜなら世界には多くの悪い子たちが跳ね回っているからだ。『無駄が多い』という言葉は無知でムダが多そうで、父が好んで使っていた。ランゴリアーズは目的をもって素早く走る。ランゴリアーズは目的そのものだからだ。」

「子供たちはどんな悪いことをしたの?」

「よくぞ聞いてくれたね。父が言う悪い子とは怠け者のことを言うんだ。怠け者は大物にはなれない、我が家では大物以外は皆、落ちこぼれと言われた。大物になりそびれた連中は一人残らずランゴリアーズに跡形もなく始末される。夜寝ていると奴らが忍び寄ってくる、歯を鳴らし、舌なめずりを・・・・・」

⇒ スティーヴン・キング「ランゴリアーズ」

 

1954年1月5日「ラジガット・スクールで生徒たちに語る」

あなたにとって恐怖とは何でしょう。あなたは先生や両親、年長者を恐れているかもしれません。そして水牛や蛇、誰かに噂されることや死について怯えているかもしれません。だれでも恐れを持っていますが、恐れは人間が成長するにつれ複雑で困難で微妙なものになります。例えば偉大な作家になりたいと考え、執筆活動ができれば幸せだと考えたとします。ところが予期せぬことが起き、書きたいものが書けなくなったり、書くことがなくなってしまうこともあります。すると私は無気力になり、自分の人生を生きていないと感じるようになります。それが私の恐怖になるのです。大人になるにつれて、取り残されること、友達がいないこと、財産を失うこと、何の地位も持たないこと等々、さまざまなことが恐怖となります。

 

あなたたち若者が恐怖について考えるのは重要なことです。なぜなら社会や大人たちは、皆さんが行儀良くふるまうためにも恐怖心は必要だと考えているからです。あなたが親や先生を怖がれば怖がるほど、あなたを支配しやすくなるでしょう。彼らは「これをしなさい、あれはしてはいけない」と指示します。そしてあなたは従わざるを得ません、大人数のクラスを管理する手段として、恐怖心を道徳的圧力として利用するのです。そして社会は大人にも恐怖心は必要だと言っています。恐怖心がなければ、市民や住民はやりたい放題、好き勝手に行動するだろうと考えるからです。恐怖はこのように人間を管理するのに不可欠のものになってしまいました。

➡J.クリシュナムルティ、有為エンジェル訳「恐怖なしに生きる」平河出版社より

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