Toad:Cream

 

私はヘビーメタルが嫌いだ。彼らは「あなたのドラムを叩き壊すような奏法に、多大な影響を受けました」と言うんだが、勘違いしているんだよ。自分の演奏を聴くために、強く叩かなければならなかったんだ。いつも怒っていたし、楽しくなんかなかった、むしろ苦痛だね。つまり、ステージでは大容量のアンプを使うので、音が大きすぎたのさ。私はそういうのは嫌いだ、今もって好きになれない

 

彼らは私が努力していることを知らない。1960年と61年にはビックバンドで活動していた。ドラマーなら、楽譜を読めるように勉強しなければいけないと思ったからだ。バンドのメンバーに2冊の本を勧められて同時に勉強した。1冊は基本的なハーモニーのルールについてで、もう1冊はいかにしてそれを壊すかについてだった

 

➡ ジンジャー・ベイカー(フォーブス誌インタビュー「ヘビーメタル、レッド・ツェッペリン、ビートルズを語る」より

ラクダとライオンの比喩

ニーチェは一種の比喩によって、彼が魂の三つの変容と呼んでいるものを説明しています。その変容の第一はラクダ(子供)の魂です。ラクダはひざを折って、「私に荷物を負わせてください」と言う。これは、服従の期間です。社会があなたに指示したり伝えたりするものを受け取る、そういう時期です

 

しかし、十分に荷を負わされたとき、ラクダは立ち上がり砂漠へと駆けて行く。そこでライオンに変わる。― 負わされた荷が重ければ重いほど強いライオンにね。さて、ライオンの役目は何かというと、それは「なんじ・・・・・すべし」という名の竜を殺すことです。この恐ろしい竜には、そのうろこ一枚一枚に「なんじ・・・・・すべし」が刻まれている。四千年の昔からのものもあれば、今朝の新聞の見出しからのものもありますがね。ラクダや子どもは、この「なんじ・・・・・すべし」に服従しなければならない。しかし、ライオンは、若者の魂は、それをはねのけ、自分自身の考えを持つのです。

神話の力/ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ共著、飛田茂雄訳、早川書房)より

 

第一次絆からの自由

生物学的に言えば、子供は生まれると、母親とは別の一個の生物的存在になる。この分離は個人の始まりではあるが、心理的・機能的に子どもは、なおかなり長い間、母親と一体である。例えて言えば、個人が外界に結び付けられている臍の緒を、完全に断ち切っていない程度に応じて、彼には自由はないのである。

 

半面、この絆は彼に安定感と帰属感、地に足がついているという感覚を与えてくれる。この個人が完全に開放される以前に存在する絆を、フロムは「第一次的絆」と呼んだ。

子供を母親と結びつけている絆

未開社会の成員を、その氏族や自然に結び付けている絆

中世の人間を、教会や社会的階級に結び付けている絆は、この第一次的絆に他ならない。そして

 

⇒ 個性化が完全な状態に達し、個人がこれらの第一次的絆から自由になると、かれは一つの新しい課題に直面する

 

⇒ すなわち彼は、前個人的存在の絆とは別の方法で、みずからに方向を与え、世界の中に足を下ろし、安定を見つけ出さなければならない。そうなると自由の意味も、この段階に進化する以前の自由の意味とは違ってくる。

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

内なる抑圧

「ヒットラーのような男たちは、ただ権謀術策だけで権力を獲得したのであり、すべての国民は、ただ欺かれ、脅かされたために、意思のない存在になっていたに過ぎないと思われていた。しかし何年かたってみると、このような議論が間違っていることが明らかになった。

私たちはドイツにおける数百万の人びとが、彼らの祖父たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由を捨ててしまったこと、自由を求める代わりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値があるものとは信じていなかったこと、などを認めざるをえないようになった」⇒ エーリッヒ・フロム

 

「我々のデモクラシーに対する容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちをしめた諸条件が、まさに我々自身の態度の中にも、我々自身の制度の中にも存在するということである。したがって戦場はここに、我々自身と我々の制度の中に存在している」⇒ ジョン・デューイ

 

自由とは何か

私たちが人道主義としての自由、または服従への憧れや、力への渇望ということに目を注ぐとき、次のような疑問が浮かんでくる。

自由とは何であろうか。自由を求める欲求は何か人間性に固有なものであろうか?

それは、特定の文化とは関係のない、普遍的なものだろうか?

あるいは、特定の社会において、個人主義の発達の過程において異なるものであろうか?

自由とは、単に外的な圧迫のないことであろうか?それとも何らかの条件が存在することであろうか?― もしそうだとすれば、それはなんであろうか?

人々を自由へと駆り立てるのは、どのような社会的要因だろうか?

いったい自由が人々にとって堪え難い重荷となり、それから逃れたいものとなるようなことが、ありうるのだろうか

多くの人々にとって自由は大切な目的でありながら、他の多くの人々にとって脅威となるのは、なぜであろうか

また、自由を得たいという内的な欲望のほかに服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうかもしそうでないとしたら、指導者への服従が、あれほどまでに多くの人びとを引き付けていることをどう説明したらよいであろうか

服従というのは、常に目に見える権威への服従であろうか?あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内部に潜む強制力とか、世論のような匿名の権威に対する服従が存在するのだろうか?服従することのうちに、合理的な説明のつかない満足が隠されているのだろうか?

人間のなかに、あくことのない力への渇望を生み出すものはなんであろうか?それは人間の生命力の反映なのだろうか?それとも人生を自発的な親しみをもって経験することのできない、根本的な弱さであろうか?どのような心理的条件がこれらの傾向を強めるのだろうか?そして、心理的条件はどのような社会的条件と結びつくのか?

自由という重荷

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

 

著者紹介― 1900年、ドイツのフランクフルトに生まれる。ハイデルベルグ、フランクフルトの大学で社会学、心理学を専攻し、1925年以後は精神分析学を社会現象に適用する新フロイト主義の立場に立ち、社会心理学に重要な位置を占めた。ナチに追われてアメリカに帰化し、メキシコ大学などの教授に歴任、1980年没。

 

もし私が、私のために存在しているのではないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば

― いつというときがあろうか

➡ 「タルムード」第一編「ミシュナ」より

 

現代における自由の意味

現代の政治的発展が、近代文化のもっとも偉大な業績― 個性と人格の独自性― にとって危険なものとなっているのをみて、私は大規模な研究の続行を中断し、現代の文化的社会的危機にたいして決定的な意味をもつ一つの側面、すなわち近代人にとっての自由の意味ということに集中しようと決心した」

 

「なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとする全ての行為の前提であるからである」➡ エーリッヒ・フロム

 

社会の基礎的な実体は個人であり、個人の欲望と恐怖、激情と理性、善への傾向と悪への傾向が社会を形成している。そのため社会過程を理解するためには、個人の心理過程がどのように形成されたかを理解する必要がある。

 

近代人は

個人に安定を与えると同時に彼を束縛していた、前個人的社会の絆からは自由になったが

個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない

 

⇒ 自由は近代人に独立と合理性を与えたが

⇒ 一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安で無力なものにした

⇒ この孤独は耐え難いものである。個人は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とに基づいた積極的自由の完全な実現に進むかの二者択一を迫られている。

是非に及ばず

死にたくない!死ぬには若すぎる!死ぬには、いい性格すぎる!

死ぬには『ぼく』すぎる!➡ スヌーピー

 

死の幻想

過去と未来に境界がなく、今現在、同時に存在すると考えると、誕生と死には境界がなく、今現在のこの瞬間に共存していることが分かる。だが、人は排他的に自らの有機体と同一化することにより、誕生と死を分け、その一半(いっぱん)だけを受け入れる。つまり、誕生のみを受け入れて死を拒絶するのである。これにより、死はもっとも恐怖されるものとなる。事実、人はこの現在の瞬間に死の匂いを嗅がないための方法として、未来を要求する。死の恐怖は巧妙に機能して未来に手を伸ばし、未来に向かって進もうとする動機となる。このように人が生み出す時間に対する幻想は、同様に人間が生み出す死の幻想を和らげようとする試みだといえる。

 

「(人間が恐れる)死などというものは、幻想以外存在しない。人が生涯の間抱き(恐れ)続けるのは、その幻想の印象である

➡ ハズラト・カーン(スーフィー教の神秘主義者)

 

永遠の意味

時のない永遠の今は、過去も未来も知らない一つの自覚である。永遠の今には、未来もなく、境界もなく、その先にも、前にも後ろにも何もない。だが、これは死の状態そのものである。死を受け入れるということは、未来を所有せず、何の不安もなく生きることである。つまり、エマーソンのいうように、時間を超えた現在にいきることなのだ。

過去に何があり、未来に何があるかは些細なことだ。私たちの内側に何があるかに比べれば」➡ ラルフ・エマーソン

 

やせ細る現在

私たちは死を回避しようとして想像上の未来を利用する。「なりたい自分」とは未来に出会いたい自分、未来に生きている自分のイメージである。今ではなく、別の今、そしてまた別の今。明日、明日、明日。このようにして、私たちのやせ細った現在が過ぎてゆくのは、私たち自身がその終了を要求しているからである。そうすれば、また別の未来の瞬間へ移ることができるから。

 

過去に執着する人

もう一方、現代人は自我に固執するあまり、頭の中にある記憶の痕跡が、均衡を崩すほど大きな意味を持ち、頭から離れなくなってしまう。そして、あたかも本物であるかのように、つまり、本物の自己の本当の記憶を報告しているかのように、記憶に執着する。つまり、後ろにある過去が「本物」であると信じることで、前にある未来も「本物」であると思い込もうとするのだ。⇒ 昨日、自分が存在していたのだから、おそらく、明日も存在している。という確証を得ようとして、過去の記憶にしがみつくのだ。このようにして現在を過ぎ去った時の甘酸っぱい嘆きと、来るべき時のほろ苦い希望によって束縛し、記憶と期待のなかにのみ生きるのである。自らを死から守るために現在の周囲に何かを欲しがり、過去と未来によってそれを境界づけるのである。

ー平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

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