人で無しの原理

自分のうちに安らぎを見出せないものが、それを外に求めても無駄である。⇒ ラ・ロシュフーコー

 

イメージに同一化している人間は、他人もまた一つのイメージとして見ている。多くの場合それは否認されている自己のある側面を象徴するナルシシズムは個人の実体を受容される側面否認したい側面に引き裂き、後者を他人に投影する他者に対する攻撃は、この否認された側面を破壊したいという欲望から生ずるものである

 

たとえば、自分を抜け目のない優秀な人間と考える詐欺師は、自分の獲物をウスノロの馬鹿と見なしているだろうし、同様に、自分が正義や名誉のために闘っているとイメージしている兵士は、敵を凶暴で下劣な奴と見なすだろう。自分に抱くイメージが強くてたくましいものであるなら、人は傷つきやすさとか弱々しさといった破壊されるべきイメージを、他者に投影するものなのである

 

平和時における不必要な暴力行為も、このような原理で説明できる。このことを考えるさい、恰好の事例となるのが、公園のベンチに寝ていたホームレスの老人を殺害するような非行少年たちの行動である。それはたいていの人がショックを受け、うろたえてしまうような非人間的な行為である。彼等には人間的な感情というものがないのだろうか?彼らが老人にたいして、いささかも感情を抱いていなかったことは明らかである。

 

少年たちは老人を現実に実在する人間としてではなく、単なるイメージとして、つまり胸糞の悪くなるような、それゆえ撃退されるべき老いぼれとしてのイメージとしてのみ見ていただが、彼らは自分が殺すことになっている人間たちと接触をもたなかった兵士と違い、彼らは生身の人間をまのあたりにしていた。

 

彼らはふざけ半分に老人を殺すことで、老人の人間性を否定し、その過程で自らの人間性をも否定した。おそらく少年たちは、このような罪をおかすまえに、自らの人間性を失っていたと考えられる。そして間違いなく、自分の人生にたいする激しい嫌悪感やヤケくそな気持ちが、彼らに自分の感情を否定させたのだ

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より

破壊の原理

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より

他者を傷つけたり破壊してゆく行為は、感情の否定、勝利という目標、そして権力のイメージという観点からのみ十分理解できる。従業員を酷使する経営者や、年金生活者からお金をだまし取る詐欺師は同じ原理にもとづいて行動している。両者はいづれも他者を現実に存在する人間として見ることができない。彼らの目には、他者が利用すべき客体としか存在していないのである。

 

とりわけ年老いた年金生活者は人間として見られることが少ない。なぜなら詐欺師は自分自身をも人間とみなしていないからである。彼らは悪知恵で世界を渡り、他人を出し抜いたり、他人の裏をかく自分の能力に同一化している。他人に嘘をついたり騙したりすることは、成功という目標からすれば、また他人の上前をはねる能力を物差しにして、自分は優秀だと考える彼らの自我イメージからすれば、取るに足らないことなのだ

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勝利という最優先の重要課題、感情の否定、イメージの役割、これらの結びつきが最も明瞭になるのが戦争である。勝つか負けるかは、生きるか死ぬかの問題となるので、感情の入りこむ余地など全くない。しかしながら彼らは、同じ部隊のメンバーにたいする感情によって、自らの人間性を保つ。そのような感情がなければ、殺人兵器になったり、気が狂ってしまう危険に身をさらすことになるだろう。兵士はナルシシストではないが、戦争は彼らにナルシシストのように行動することを強制するのである

 

不幸なことに、戦争は軍事行動に限られる話ではない。たいていの大都市にはギャングの抗争があり、ギャングのメンバーは、兵士のように感情や人間的諸価値を否定しながら役目を果たす。だが私たちにはそれ以外にも、

企業間の戦争、政治的な戦争、家族の戦争があって、ナルシシズム的傾向を促進し、他人を傷つけたり破壊する行為を助長している

 

敵が現実に存在する人間として描かれることはない。なぜなら、現実に存在する人間を殺すのは容易なことではないからである。兵士は滅ぼさなければならない敵をイメージとして見ることを教育される。たとえば「鬼畜米英」、「ジャップ」、「ナチ野郎」など。だがそのようになるには自己を捨て、自らがイメージとならなければならない。彼らは命令に従うこと、疑問を持たないこと、感情を捨て戦うことを役割とする兵士なのだ

 

兵士は自分に恐怖や痛みや悲しみを感じさせてはならない。このような感情に触れることは、兵士としてのイメージをくじき、戦場で効果的に行動することを不可能にするからである。また彼らはこのようなイメージを拒むことは出来ない。というのは、そうすれば彼らは上官と衝突し、ひいては生き残ることが難しくなるからだ

➡ A・ローウェン

他人に対する無関心

我々はみな、他人の不幸を平気で見ていられるほどに強い。

⇒ ラ・ロシュフーコー

 

すべてのナルシシストの特徴である感情の否定は、その対他行動において明瞭だ。彼らは他人に対し、無慈悲で、搾取的で、破壊的にふるまう。なぜなら、彼らは他人の苦痛や感情に鈍感だからである。

 

共感、すなわち他者の気分や感情を感じる能力は、共鳴の働きである。他人の悲しみが感じられるのは、それが私たちを悲しくさせるからであり、喜びを共有できるのは、それが私たちを心地よくさせるからである。

 

だが、もし悲しみや喜びを感じることができないのであれば、私たちは他人のそうした感情に答えることは出来ない。自分の感情を否定する人は、他人が感情を持っていることも否定するのである

 

良心の呵責なしに従業員を酷使し、人の感情などおかまいなしに、感受性にたいする無関心と無差別爆撃によって恐怖支配をつくりだす企業の重役のような、ある種のナルシシストたちの無慈悲な行動は、このような論拠によって説明することができる。

 

もちろん彼らは自分自身に対しても過酷である。権力や成功という目標は、彼等にも等しく、自分の感受性や感情を犠牲にすることを要求するからである。そのような企業家は、軍隊を率いる将軍のように自分をみなしている。経営の成功が戦争での勝利を意味するのだ。そんなイメージがあって初めて、戦時下において取り換え可能な兵士のように部下を扱うことができるのである

 

私たちの文化がナルシシズムを促進する原因の一つは、勝利の重要性に対する過大な強調である。「勝たなければ意味がない」とは広く受け入れられたスローガンではあるが、このような態度は人間の諸価値を軽んじさせる。勝利し、人の上に立ち、ナンバーワンでなければならないという圧倒的な目標は、人間の感情を圧殺する

 

成功のイメージが行動を支配する力をもちうるのは、感情が否定されるときだけである

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より

ナルシシストの定義

ナルシシストは、自分自身が世界になり、全世界が自分であると考える」。➡ セオドア・ルービン(精神分析家、作家)

ナルシシストは、強烈な野心と誇大妄想と、劣等感と、他人からの賞賛や喝采への過剰な依存を示す。自分自身についての慢性的な不確実感と不満、他者に対する意識的または無意識の搾取性及び無慈悲さがその特徴である」。➡ オットー・カーンバーグ(精神分析家)

 

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より

ナルシシストとは、自分以外のすべての人間をしめ出して、自分自身に熱中する人間のことである。問題は、人間に対し搾取的にさせ、無慈悲に行動すると同時に、慢性的な不確実感や不満に苦しむのは、なぜなのか?ということである。

 

精神分析学者は、問題が幼児期に発展していくことを認め、幼児が「対人関係でのがまんのならない現実に対する防衛として、理想の自己と理想の客体を自己のイメージと混同してゆく」。ことを指摘している。

 

じっさいナルシシストは、自分はこういう人間であるべきだと思うイメージと、自分が現実にはどういう人間であるかというイメージを区別することができない。つまり、ナルシシストは理想化されたイメージに同一化し、現実のイメージを捨ててしまうのである

 

ナルシシストは現実の自己イメージにもとづいて行動しない。彼らはそれを決して受け入れようとはしない。しかし、ちょうど実際の人間と鏡に映る象が異なるように、自己と自己イメージの間には違いがある。自己イメージが、理想化されたものであれ、現実的なものであれ、自己とは単なるイメージ以上のものだ。私たちはもっと「身体を備えた自己」に注意を向ける必要がある。自己とは生きている身体のことであり精神はそのなかに含まれる。自己感覚は、生きている身体のなかで起きていることを、意識がどう捉えるかにかかっている。自己感覚が適切なイメージをつくりだすのである

 

しかし、ナルシシストは身体を精神の道具、意思の従属物と見る。身体は道具として機能し、機械のように仕事をし、アンドロイドのような印象を人に与えるが、そのとき身体は「生命」を失ってしまっている

 

私の意見では、ナルシシズム障害の根本的な原因は感情の否定であるということがはっきりしている。そこで私はナルシシストを、感情によって行動が動機づけられることのない人間と定義しよう。だが、それでもなお次のような問題が残っている。それは、感情を否定することを選ぶ人がなぜいるのか?という問題。そしてもう一つの問題はナルシシズムの障害が今日の社会に、これほどまで広まっているのは何故なのか?という問題である」。➡ A・ローウェン

魂の殺人

彼の説明によれば、父親の冷たさと敵対性はほとんど母親を狂わせるばかりであったという。それはまるで悪夢のようだった。しかしエリックは、だからといって苦しんでいるわけではまったくないと断言した。

 

感情がないということをぼくは苦にしていません。バッチリうまくやっているんですから」。

私はただこう答えることができただけである。「死んだ人間には苦しみがないし、なにものも死者を苦しめることはできない。あなたはただたんに自分を殺してしまっただけなんですよ」。このように言えば彼も痛みを覚えるだろうと思ったからである。彼の答えは私を仰天させた

ぼくは自分が死んでいることを知っています」。彼はこう言ったのである。エリックは次のように説明した。

 

「まだ幼かったころ、ぼくは死を考えることを恐れていました。そこでぼくはこう思ったんです。もしぼくがもう死んでしまっているのなら、ぼくにはもう恐れるものはないって。だからぼくは、自分が死んだんだと考えることにしたのです」。

 

エリックは自分を「モノ」として見ている。彼は自分のイメージを表現するときに「モノ」という言葉さえ使う。ほかのひとびとの反応から自分が代償的な満足をひきだしていることを彼は認めてはいるけれども、彼の目的は、ひとつの道具として、彼らのために何かよいことをすることであった。

 

彼は自分がどこかおかしいということは知っていた。しかし彼は、そのことに関わり合いのある感情を否定していた。彼は自分が変わらなければならないことを知ってはいるのだが、同時に自分自身を守ってくれる強力な防護壁も発達させてきていた。そのような防護壁は、その仕組みを十分に理解し、そして患者の協力を得るのでないかぎりは、こわすことができない。エリックはなぜ、感情にたいしてそんなにも強力な防護壁を築き上げたのか?彼はなぜ、自分自身を埋葬してしまったのか?彼は本当は何を恐れていたのだろうか

 

その答えは狂気である、と私は考える。自分は死を恐れているとエリックは主張したが、それは確かにそうだろうとは思う。だが、死に対する彼の恐怖は意識的なものであるけれども、狂気に対する恐怖は無意識的なものであるから、その方が一層深い。

 

彼は(無意識にではあるが)次のように信じていた。どんな感情であれ、それが意識に上ることを許せばダム(正気の防護壁)にひびが入ってしまう。そうなれば自分は感情の奔流に押し流され、押しつぶされて、狂ってしまうだろう。

 

彼の無意識の内では、感情が狂気やヒステリーの母親と同じものとされていた。⇔ エリックは父親に同一化し、意思や理性や論理を正気や力と同一視していたのである

 

私は彼に、感情そのものは狂わないこと、それはいつでも妥当なものであることを説明した。しかしながら人が自分の感情を受け入れることができないとき、感情が思考と矛盾するように思われるときには、その人は分裂した自分(狂った自分)を経験するだろうと話した。

 

自分の感情を否定することは意味がない。感情を否定できるのは、自分が生きているという感覚を覚える身体から、意識を切り離すことによってのみである。そのとき人は「あたかも・・・・・であるかのごとく」という形でに行動するように努力し続けなければならない。それは人を疲弊させ、何ら得ることのない営みである。このように考えてみたらどうだろうか?

 

公判中に逃走し、自首する勇気もないけれど、隠れていることの緊張にも耐えられない逃亡犯がいる。この人間の態度が事実上狂ったものであり、自首することによってのみ心の平安が訪れるということをエリックが理解し、認めることができるなら、彼は狂ってはいないだろうと

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より
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