プロテスタンティズムと予定説

「江戸時代から引き続いてきている日本的な「自律」という徳目ですね。それから「自助」という徳目、これは二宮尊徳も言っています。江戸時代に、石田梅岩という人が起こした「心学」もそうですし、普通の農村の徳目もそうでした。武士階級の徳目もそうです。偶然に江戸時代から一種のプロテスタンティズムというのが日本の風土でした。勤勉こそが尊いとか、怠け者はいけないとか、それが明治に引き継がれておってですね、その本(中村正直「西国立志編」)を読んだ人はですね、もっともだと思ったんですね。(プロテスタンティズム)をもっともだと思う空気が日本にはあって、むしろカトリック国よりも、変な言い方ですけどプロテスタントの理解がよく行き届いた」。➡ 太郎の国の物語「自助論の世界」より

 

正直は信用を生むから有益である。時間の正確さ、勤勉、質素も同じである。➡ マックス・ウェーバー

 

カルヴァンの予定説

カルヴァンの考えはルターと同様に福音主義であったが、彼は救済について一歩進め、「人が救済されるのは予め神によって定められた予定であって、人ができることは、ただひたすら自分が救済される側にあると信じることだけ」。とした。

 

「救済」についての確証は、各々個人が、社会生活において「成功」することであると説き、成功は勤勉・禁欲・節約と倹約によって得られるとした

ー「この一冊で世界の歴史が分かる」水村光男、三笠書房より

 

ジャン・カルヴァン(1509~1564)の教え

ー世界宗教・神秘思想、ジャック・ブロス著、小潟昭夫訳、JICC出版局より

宗教改革の第二の大司教ー ルターよりも急進派のカルヴァンは、浄化した教会を組織し、新しい社会をつくろうとした

 

私は説教したい、私は話したい、私は書きたい。しかし私は誰にも強要はしたくない。なぜならば、信仰は自由意志であってほしいし、妨げられることなく受け入れられてほしいからだ

➡ マルティン・ルター

 

カルヴァンにはルターの激しい歓喜と寛大さはない。ルターは神秘主義者で個人主義者だったが、法律の教育を受けたカルヴァンは、改革の始まりに新しいキリスト教都市を実現したかった。そのためにジュネーブを「神に奉仕し、その状態を保持すること」と、徳高く公平で慈悲深い人間を形成することを目的とする都市にしたかったのだ。

 

彼が創設した教会組織は、牧師と一般信徒とで作られた重層的な議会で構成されている。まさに近代民主主義を予告するシステムである

 

カルヴァンがジュネーブで著述し、カルヴァン派の特徴の一つである社会的な人文主義の形は、きわめて我々現代のものに近い。神の民は連帯し、相互扶助を施す。そのためカルヴァンは、病人や傷痍軍人や老人の救護組織や、めいめいに充分な糧を保証する雇用の規則を初めて作ったのである。

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(一度間違えて削除したら、何度アップしても消えてしまいます。なんでだろう?長いけど、今日の記事にくっつけてみます)。

19世紀のエスタブリッシュが考えたこと

1893年のシカゴ万博でF・J・ターナーは「アメリカ史におけるフロンティアの意義」を発表し、偉大な西部のフロンティアはついに消失し、19世紀アメリカの強さ、楽天主義は収縮の危機に直面したと論じた。セオドア・ローズベルトは、国民に「奮闘生活」を呼びかけ、これこそが今必要とされる改革の始まりとして、多くの人びとに歓迎された。かくして、政治的言説は世紀の変わり目とともに変わり始める。

 

19世紀に典型的だったイデオロギーなき利益闘争は、多くの人々の目に、新しい経済・社会状況に対処できなくなったものと映り、「改革(リフォーム)」という言葉が、「国家的安定と社会正義」を模索する言葉として意識的に使用された。姿を現した産業社会の無秩序を、どのような方法で継続的で倫理的にまっとうな国民社会へ形作るかという問いがなされた

 

その答えの一つがエスタブリッシュメントのヴィジョンである。それは主として産業界・金融界のエリートと結びついたもので、彼らは自分自身の企業と並んで、総合大学、病院、博物館、オーケストラ、学校、病院などの諸機関に基金を提供し、それらのネットワークを創りあげた。興味深いのは、大都市圏であれ、地域的なものであれ、それらの機関はすべて、私企業と同じく自発的団体の原則で作られたということである。そしてこれらの勢力の強さは、アメリカ国家の相対的な弱さと相関関係にある。実際、今日でも、大規模な研究大学とか有名な博物館とかいった、たいていの社会では公営であるような機関が、アメリカでは私的な機関のままだが、これは、制度構築に対するエスタブリッシュメントのヴィジョンの遺産である

 

こういった機関の構築者たちは、地方の大立者に国家的責任の意識を与えるような「高貴なるものの義務(ノブレス・オブリュージュ)」や公共的奉仕を促すコスモポリタン(国際主義)的な倫理を広めようとしたが、これらのヴィジョンには、明らかにカルヴァン主義の影響が感じられる。

 

エスタブリッシュメントのヴィジョンは、大規模な制度や利害取引の政治に介入し、個人的影響力や交渉力を通じて、争いを実りある妥協に導き、和解の道を見出そうとするものである。エスタブリッシュメントのヴィジョンはコスモポリタン的で柔軟なものであり、大きな国家的目標のなかに様々な利害を調和するべく務めるものである。

ポピュリズムのヴィジョン

幸せを与えてくれるのは、富でも豪華さでもなく、穏やかさと仕事である」。

ついに起こらなかった害悪のために。われわれはいかに多くの時間を費やしたことか」。➡ トーマス・ジェファーソン

 

エスタブリッシュメントの高潔高貴なイメージとは逆に、ポピュリズムのヴィジョンはアメリカの伝統における平等主義的エートスを強調した。ここでは、しばしばトーマス・ジェファーソンが創設の英雄とされ、アレキサンダー・ハミルトンが代表的敵役とされた。

 

ポピュリズムのヴィジョンは、「人民」すなわち普通の市民たちは自分たちの事柄を自分たちで治めるだけの賢明さを持っていると主張していた。エスタブリッシュメントのヴィジョンと同じく、ポピュリズムの理想も「顔見知りの共同体」の政治だった。しかし、エスタブリッシュメントのヴィジョンの理想は初めから新しい全国的制度という眺望の良い高台を占拠した支配者向けのものであったから、ポピュリズムの論拠は野党的色合いをもつことが多かった。それでも1896年の人民党(ポピュリスト)のプログラムにおいては、ポピュリズムは共同善のために政府の権力を経済活動にまで広げようとした。

 

ふつうの市民の尊厳と重要性というポピュリズムの偉大なテーマは、しばしば聖書的言説によって語られた。ポピュリズムは、アメリカ宗教の無律法主義・神秘的主義的側面とセクト的宗教の熱烈な共同体コミットメントとの両方と類似性を持っている。

 

エスタブリッシュメントのヴィジョンが共和主義的な共同善の理想の重要な側面を、世紀の変わり目のアメリカで再び表明したとすれば、ポピュリズムは、十全な市民的権利から排除された市民のある限り、その共和国は不完全なものであると主張し、民主化の偉大な促進者の役割を演じた

 

両者には小さからぬ不一致があるとはいえ、エスタブリッシュメントとポピュリズムの二つのヴィジョンは、出現しつつある産業化社会を公共の秩序に取り込む必要を主張したという点では互いによく似ている。市場の極端な道具主義的モーレスに脅かされつつあるかに見える、市民的・倫理的な価値を再び取り戻すことを主張したのである。


ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より

「公共善」という残された課題

アメリカは、単なる戦争ではなく、理性を基礎として築かれた世界で最初の国家です。築いた人々は18世紀の理神論者でした。国章の上に「In God We Trust(われらは神を信じる)」の文字が見えますね。しかし、これは聖書の神ではありません。建国者たちは人類の堕落という考えを信じてはいませんでした

 

彼らは人間の知性が神から切り離されるとは思っていませんでした。二次的な関心事というか、現世のはかない関心事を洗い流してしまった人間の知性ならば、清められた鏡のような明るさで、合理的な神の知性の反映を見られるはずだ。理性が神との触れ合いを可能にしてくれる。というわけで、こういう紳士たちにとっては、どこにも特別啓示などはありはしない。実際、なにひとつない

➡ ジョーゼフ・キャンベル

 

公共善のための六つのビジョン

独立独行の競争的企業と公共的な連帯の理念、この両者の間にある緊張はアメリカ史における最重要の未解決問題である。アメリカ人は、公共体の理想のうちに、個人の自由と自己実現への欲求を定着し完結できるような信頼関係を求めている。公共的領域で言えば、全国規模の制度化された生活の枠の中で、経済的追求と互恵的関係を統合しようとする欲求である。独立独行と共同体の調和という両面感情の強い葛藤はアメリカ文化の特徴の一つである。

 

個人の自律性と現代経済の相互依存関係をどのように結び付けるかという問題でも、アメリカの歴史は葛藤をくり返し、揺れ動いている。

 

この百年間、合衆国では公共善をめぐる異なる六つのヴィジョンが生み出されている。これらはどれも、次第に相互依存性が高まってゆく社会に暮らす市民の、「いったい自分たちはどんな国民なのか」「自分たちはどこへ向かうべきなのか」を明確に知りたいという要望に答えるべく描き出された。

 

1、「エスタブリッシュメント」対「ポピュリズム」

最初の組は、19世紀後半の10数年に現れ、第一次世界大戦が終わるまでの国民意識を形成していた。

2、「新資本主義」対「福祉型リベラリズム」

1929年(世界恐慌)の私企業経済の崩壊に続く環境の急変は第二の論争を引き起こした。

3、「行政管理型社会」対「経済民主主義」

企業・政府間協定をめぐる難題は新しい様相を呈し、そこからさらに競合するヴィジョンが登場する。

 

公共善についての概念、あるいは国民共同体のあるべき姿を問うたものとして、エスタブリッシュメントのヴィジョンもポピュリズムのヴィジョンもアメリカの文化的想像力の基本的源泉に触れている。それゆえこの最初の一組のヴィジョンが差し出しているテーマは、続く二組のヴィジョンにとっても基調をなすものとなるのである」。

 

ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より

欠乏の原理

私たちは心で感じ、心で考える。アメリカ人は頭で感じ、頭で考える。白人は冷酷に見える。目はじっと見つめるような表情。いつも何かを探している。だが何を探すのだ。白人はいつも何かを欲しがる。いつも不安で落ち着かない。何を欲しがっているのか、我々にはわからない。どうかしてると思う

➡マウンテンレイク(アメリカン・インディアンのシャーマン)

 

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

愛は特定の対象によって「惹き起こされる」ものではない。それは人間の内に潜む不可知で、「対象」はそれを現実化するものである。憎悪が破壊を求める激しい欲望であるなら、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。

 

愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的つながりである。それは原則として、自分を含めたすべての人間や、事物に向けられるように準備されている排他的な愛というのはそれ自体一つの矛盾である

 

ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間の内のモヤモヤした愛が、対象に集中し現実化したものにすぎない。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着である。愛に含まれる根本的な肯定が恋人に向けられるとき、それは恋人を、本質的に人間的な性質の具現したものと見ているのである。

 

原則的に、私自身もまた、私の愛の対象である。自分自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる不可知な原理が存在することに根差している。そして、他人しか愛することができない人間は、まったく愛することができないのである

 

利己主義と自愛は同じものではなく、まったく逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。利己主義は継続する不充足感であり、底知れぬ落とし穴である。実現不可能の欲求をどこまでも追及させ、人間を疲弊させる。

 

利己的な人間は、いつでも不安げに自分のことばかり考えている割に、決して満足できない。常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われているのではないかという恐怖に、かりたてられている彼らは自分より多く持っている人間に燃えるような羨望を抱いている。彼らは、自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪を抱えている。

 

利己主義は自愛の欠如に根差している。自分自身を好まない人間や自分自身をよしとしない人間は、常に自分自身に不安を抱いている。彼らは純粋な行為と肯定の基盤の上のみに存在する内面的な安定をもっていない。自分自身に気を使い、あらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見開いている。

 

これと同じことは、いわゆるナルシシストにもあてはまる。彼らは自分自身のために何かを得ようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに集中する人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、彼らのナルシシズムは、利己主義者と同じように、自愛が根本的に欠けていることを無理に償おうとする結果なのである

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