知識の断片化

みな散り散りとなり

みなまとまりを失う

みな仮初めに役につくのみ

主君 臣下 父 息子 すべての結びつきは忘れられる

みな考えることといえば

不死鳥になること 不死鳥になれば

これでもなく あれでもなく 自分そのものになれると

➡ ジョン・ダン(1572~1631年)

 

二つの世界のあいだをさまよう

一つは死んだ世界

もう一つは力なく未だ生まれえぬ世界

➡ マシュー・アーノルド(1822~1888年)

 

袋小路から抜け出すビジョンの構築が困難な理由は、私たちの意識が近代なるものによって深く規定されていることにある。近代が「分離の文化」であり、世界が包括的な様式を持たない、散り散りで断片的なものと映る限り、どのように変えればよいのか知ることは不可能である

 

断片性の感覚は、現代の文化で最も尊重され、最も権威のある科学で顕著である。科学はかつての神学や哲学がそうであったように、現実の総体的解釈ではなく、互いにほとんど関連を持たない諸科学の集まりにすぎない

 

【科学探求は切り離された個別の「諸科学」へと分割されていった。個々別々の学科は、それぞれに特殊な様式を持っており、取り上げる問題も他の諸学科とは独立し、抽象化された形で議論を行うように定義されている。そのため初期の自然論の焦点であった「大自然の相互関連」についての一般的な問いは、専門的に細分化された学科的な問いに取って代わられた。換言すれば、科学の実質とは構成諸科学で得られた結果の寄せ集めの総計にすぎない

➡ スティーヴン・トゥールミン(1922~2009年、哲学者)】

 

【我々の個々の観点や特殊な関心事について、それが何であるか、何のためにあるのか、ユニークな点は何かといったことがよくわからない。それは事実として与えられたものであって、合意や合理性の及ぶものではないのだ。私たちの合理性は、主として目的と手段の関係に振り向けられており、種々の目的の間の序列については考慮の外に置かれてしまう。同様に、この合理性はきっちりと区分けされた仕切りの中で発揮されるものであって、それぞれの領域の配分や定義や相互関係に口を挟むことはないのである

➡ ルイ・デュモン(1911~1998年、人類学者)】

 

このような高等文化の展開は、教育に破壊的な影響を与えてきた。現代のマンモス大学は、情報や有用な技術が別々に盛り付けられた皿を選び取るカフェテリアのようなものになってしまっている。こうした傾向を逆転させようとする努力の一つが「コア・カリキュラム」をつくろうとする動きであるが、実質的コアの観念を持っていない諸科学間の闘争に終わることが少なくなかった。結局、こうした努力自体、私たちの文化の断片化を癒すものというよりは、その症状そのものといった有様である

第三の道を模索

第二次世界大戦後の数十年間、福祉型リベラリズムは国民的コンセンサスの土台であり続けてきた。しかしそれは、経済に対する政府の介入という処方箋が大多数の人々の生活水準を上昇させ、そのコストが豊かさの上昇という利益に比べて低いものである場合に限るのである。

 

そして1970年代に、「経済成長マシーン」は軋みはじめ、経済成長を予測できない時代が到来した。パイが縮小し、成長の速度が期待より遅い場合には、福祉型リベラリズムの楽観的ヴィジョンのすべては、信憑性を失う。選挙民は次第に移り気となり、党からの訴えかけには耳を貸さなくなってゆく。

 

こうして新自由主義の復活にとって格好の舞台が用意されたのである。多くの人にとってそれは、私的利益の個人的追求を継続してゆくのに福祉型リベラリズムよりも効果的な手段を約束してくれるように思われた。しかも不幸な者に対する個人的同情を表明する余地も残されている。ただしコストは前よりも低く済むというわけである。

 

もし福祉型リベラリズムのヴィジョンが限界の時代(era of limits)にいたって困難に陥っているとすれば、新自由主義のヴィジョンもまた、政府と私的市場との結合は複雑な現代社会の中にあっても解消することができると称するなら、その足下は危ない。新自由主義者が熱心に信奉している巨大な軍産複合体の存在自体が、自分たちの主張を自ら否定するものである

 

さらに現代資本主義の下で貧困と失業の構造的問題が解決の兆しすらない現実のなかで、国民経済の積極的な管理と「同情溢れる政府」にとって代わる効果的で説得力ある代案を示さなければならないという決定的な問題を抱えている。

 

こうした困難に対処するために、今日の新自由主義と福祉型リベラリズムの支持者たちは、ポピュリズムやエスタブリッシュメントの伝統に見い出されるような共同体の絆と共同善への関心をめぐる古くからのイメージの中にレトリックの材料を求めている

 

しかし未曾有の赤字増大、深い混迷のなかにある経済世界、そして環境問題、諸々の経済・政治・社会的混迷を見てとった人々の中から、福祉型リベラリズムも新自由主義も私たちの社会に山積みされた難題に対処することが出来なくなる時代が、早急に訪れようとしていると示唆する者が現れている

ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より

道徳的コミットメント

税制改革、市場介入、福祉政策といった新自由主義とは対照的な政策があるにもかかわらず、福祉型リベラリズムの理論は、「政府の目的は、個人に私的利益の追求の手段を与えること」。という根本的な仮説を新自由主義と共有している

 

この目的を達成するためには、経済が専門家に指導された官僚機関により管理され、歴史的に不利な境遇に置かれた人に援助して、恵まれた境遇の人々と競い合うことができるようにすればよい。と福祉型リベラルは信じている。

 

しかし彼らと新自由主義信奉者との不一致は、独立独行を育む「手段」に関するものであり、その目的➡ 万人にとっての正義の実質的意味には関わっていない。議論の焦点は公平さを実現するための「手続き」に集中している

 

公平な競争においても個人的な自己充足の達成に失敗する者もあるかもしれないが、そんな人々に対して福祉型リベラリズムが提供できるものはと言えば、レーガンのような新自由主義者が提供できるものと大差ない。すなわち「同情」という主観的な憐れみの感情のみである

 

もちろん、福祉型リベラルは、社会的競争に敗れた者への同情は「援助的職業」の専門家たちによる政府機関によって管理されるべきだと考えるだろう。しかしこういった機関の存在は、社会的な同情のある限りでのみ正当化される。福祉計画が高くつく場合や依存性を高めるだけだと見なされる場合には、福祉型リベラルたちは、「要するにお前たちは軽率に同情して回る同情屋なのだ」。あるいは「己の心の広さを示すために人の金を使うやつらなのだ」。と非難されてしまう弱みを持っている

 

つまり彼らも、正義に対する自分たちの深い道徳的コミットメントを同胞市民に訴えるための言語を持っていないのである

福祉型リベラリズムのヴィジョン

ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より

 

福祉型リベラリズムは、大恐慌における私企業の崩壊に対応して発展した。その眼目は、経済的成長と社会的調和という利益のために市場の働きを調整すべく、政府が行政に介入するところにある。福祉型リベラリズムも、物質的豊かさの増大をもたらす中核的な機構として資本主義市場を肯定するが、連邦政府は市場交換を規制もしくは援助するためにつくられる機関によって、常に市場介入を行う必要があると考えた。

 

積極的介入は、道徳的な目的のためにも行われる。すなわち、すべての市民に対し平等な機会を用意すること、搾取を抑止すること、1970年代以降は、環境資源を保護することなどである。エドワード・ケネディは民主党の大統領候補の指名をジミー・カーターに譲った1980年の演説で公平さと同情(コンパッション)にもとづく政府の必要を訴えた。

具体的なプログラムは時に廃れます、しかし公平さの理想はつねに生き続けるものです。周囲の状況は変化します。しかし同情にもとづく仕事がやむことはないでしょう。金を投げ与えれば問題が解決するわけではないというのも事実です。しかし国家的課題を無関心と冷淡のごみ捨て場に放り投げてはならないということも確かです。私たち国民が要求するのは、最も小さな政府でも、最も大きな政府でもない、最もよい政府なのです」。➡ エドワード・ケネディ

 

エドワード・ケネディは続けて、完全雇用の実現、労働者の安全、産業復興、環境保護を訴え、さらにあらゆる力を動員してインフレを抑制し、税制を改革して富裕層の税金を増やし、医療コストの抑制と国民皆保険の実現を主張した。そして、このような政府を支えるためには、

いかなるものであれ犠牲が払われなければならないときには、その犠牲は皆が分け持つこと、しかも公平に分け持つという原則を守らなければならない。こうすることで市民の立場に忠実であり続ける、同情に溢れる政府を確保することができる」、と述べた。

新自由主義のヴィジョン

1980年の大統領選挙でロナルド・レーガンは「家族、仕事、近隣、平和そして自由といった言葉に込められている価値のの共同体に加わっている国中の人々との新しいコンセンサス」を建てることが自分の使命であると定義した。

 

レーガンのレトリックでは、こういった言葉は道徳的な響きを持ちながらも、公共的というよりは私的な徳を喚起するものである。レーガンは就任演説に際して「我々国民は、自分たちの食料をつくり、自分たちの町を警備し、自分たちの鉱山と工場で働き、自分たちの子どもを教え、自分たちの家を護り、病気のときは自分たちで癒しあう男と女よりなるところの、特殊利益集団なのだ」。と述べた。

 

職業によって国民を定義づけることにより、レーガンは国民を一個の政体ではなく、一個の経済であると捉え、国民の全体は、全アメリカ市民に対して平等な機会を与えるような、健全で活気あふれる経済成長に主たる関心を寄せる、一個の「利益集団」であると表現する。

 

政府の主な目的は、独立独行の個人が経済的目的を、自由のうちに追求するための平和と安全を保護することである。だから、これらの目的以外のものを供給しようとする「大きくなり過ぎた政府」はダイエットしなければならない。政府は失敗した個人のために「安全ネット」を張る必要を認めながらも、援助は本当に困窮した人を保護し、独立独行へ引き戻すだけの必要最低限に切り詰めるべきであるとしている。

個人的慈善のために政府計画に訴えるような考え方は今こそ拒否するべきである。自分の持てるものより出して何かをなすこと、心の広さとはこういうものである」。➡ ロナルド・レーガン

 

私は人類への奉仕となるような事業を求めたりなどしなかったですね。私に言わせれば、たくさんの人間を雇い、たくさんの金を生み出すような事業だったら、それがそのまま人類への奉仕になるということです。我々のやることの中に欲が含まれていないものはありません。欲からしていることだからといって、何らやましいことはありません」。➡ ジャスティン・ダート(実業家)

 

企業家たちは社会問題に対してしばしば冷淡である。事実、ダートは社会問題のことを「権利の平等とか言ったタワゴト」と呼んでいる。しかし、ジェリー・ファルウェル(牧師、テレビ伝道師)の言葉を借りれば、新自由主義は「アメリカに人間らしい生活を呼び戻す」ための宗教的潮流と手を結ぶことが少なくない。この流れは伝統的な家族とキリスト教の保守的形態を奨励して復古的な姿勢をとる一方で、個人的な繁栄の手段としての科学技術と物質的進歩については概ね肯定的である。

 

言い換えれば、新自由主義は、いくつかの点で19世紀の町の文化との連続性を保持する一方、町の文化は地域的で私的な生活の基盤としてだけ受け入れ、国民社会の統合のためには、自由市場の力学のみが効果的手段たり得るとみなすのである


ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー 共著 「心の習慣」アメリカ個人主義のゆくえ(みすず書房)より
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