外向的感情型

善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ。人は精神的な勇気と人格を伴った、優れた識別力を備えていなければならない」。➡ マハトマ・ガンジー

 

日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」。

➡ マザー・テレサ

 

勇気があるというのは、無条件に誰かを愛すること。見返りを求めたりしないで」。

私はタフで、野心があって、自分の欲しいものが何かはっきりわかっているわ。それで私が嫌な奴だと言うなら、それで結構よ」。

➡ マドンナ

 

タイプ2(人を助ける人)の状態

良い状態愛情深い、面倒見がよい、適応できる、直観力がある、心が広い、物事に熱中する、人々の気持ちに同調できる。

悪い状態殉教者的、遠回し、人を操る、独占したがる、ヒステリック、人の言いなりになる、感情を表し過ぎる、非論理的になる。

タイプ2の成長のベクトル=タイプ4(芸術家、内向的直観型)の肯定的な面に向かう。

・怒り、悲しみ、孤独感などの不快な感情を認め受け入れる。

・自分自身を個性的かつ適切に表現する。自分の内面を探求する。

・本当に必要なものが何か自覚し、それを表に出すようにする。

人を助けること以外に、自分を誇れる素養を見つける。

孤独の価値を自覚し、深い次元で物事を考える。

タイプ2の衰退のベクトル=タイプ8(統率者、外向的直観型)の否定的方向に向かう。

・親切に疲れ、怒りっぽくなり、人を攻撃する。

・他人が自分を利用していると感じ、疑い深くなり孤立する。

極端な要求をして、与えられないと非難する。

人を操作、管理しようとし始める。

(鈴木秀子著「9つの性格」PHP、より)

■(典型的な)外向的感情型のタイプの説明

このタイプの感情は客観的状況や普遍妥当な価値と一致している。何よりもこのことをはっきりと表すのは恋人を選ぶ場合の基準である。彼女が選ぶのは「ふさわしい」男性であり、それ以外は決して選ばれない。彼がふさわしいとされるのは、彼女の内に秘めた情熱に適うからではなく、(たいていの場合、このような要求が自分にあるとは気づきもしない)身分・年齢・資産・身長・立派な家庭に関する合理的要求に彼が合っているからである。

 

こうした言い方は皮肉や侮蔑として反発されても仕方がない。だがこの感情は正真正銘のものであって、打算による作り事では決してない。このような「合理的な」結婚は無数にあるし、決して最悪のものではない。こうした女性も、夫や子供が普通の心理構造の持ち主である限り、よき伴侶でありよき母である。「正しく」感ずることが出来るのは、その感情を妨げるものが他に何もない時である

 

ところが感情を妨げるものといえば、思考に勝るものはない。それゆえこのタイプにおいて思考ができる限り抑圧されていることは容易に理解される。これは考えることがないということではなく、彼女はおそらく様々なことを分別を働かせて考えているのであろうが、その思考は<それ本来のもの>ではなく、彼女の感情の、<後付け>であり、付け足しなのである。

私は感情の湧いてこないもののことは、どうしても考えられないのです」、とかつて患者が私に怒ったような口調で告げたことがある。彼女は感情の許す範囲でなら、非常によく考える。しかしいかに論理的な結論であっても、

感情を妨げるような結果になりそうなものはすべて、<あっさりと>拒絶してしまう。そういうものについては、ただ考えが働かないのである。こうして

客観的価値に一致する良いものはすべて尊重され愛されるが、その他のものは自分と無関係なものとしか思われない

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

外向的思考型の無意識

人間の決断力は冷酷さという性格を連れ添っている

➡ ミスター・スポック(スタートレック)

 

外向型はつねに、自らを客体に委ね、主体を客体に同化させようとする。その結果「外向的な構え」が度を超すと、主観的要因が有害な抑圧を受けることになる。意識の外交的構えに対する無意識の補償は、逆に主観的要素を特別に強調することになる。すなわち外向型の無意識の中には極端な自己中心性が指摘されるはずである。

 

客体や客観的事実に意識のエネルギーを傾注すると、(自らの)意見・希望・欲求などの主体的な心の動きの多くが無理やり抑圧され、本来これらにも注がれるはずのエネルギーが奪われる。そのため客体に完全に同化すれば、抑圧された少数者の抗議を受ける。

客観的事実だけに同化すると、主観的な心を意識化することが妨げられ、それは抑圧の度合いに比例して退行的な性格を帯びることになる。

 

主観的な心に注がれるべきエネルギーの多くは、客観的事実に同化するために使われ、どうしても取り上げられないエネルギーだけが残される。この残存エネルギーはそれでもなお侮りがたい威力をもっており、これは「根源的本能」と名づけるしかないものである。

いかなる抑圧された傾向にも、たとえエネルギーを奪われたために無意識化しているとはいえ、本能の強さに見合った相当量のエネルギーが残されており、外向的な構えが徹底すればするほど、時には幼児性をはるかに超えた、無軌道ともいえる自己中心性を特徴とする。

 

たとえばある印刷工が、長年の努力の結果、独立して起業し大会社の社長として成功した。会社はどんどん拡張し、他の関心のすべてを無視して仕事に没入した。その結果、彼は仕事に吞み込まれ、次のような形で破たんした。すなわち、

関心が仕事だけに向いているのを補償するために、子ども時代のある記憶<絵画や図案を描くことが大好きだったこと>が無意識のうちに活動を始めたのである。彼はこの能力をバランスをとるための趣味として素直に受け入れる代わりに、自分の仕事に導入して自社製品を芸術的に仕上げようと空想し始めた。不幸なことに彼は自分自身の原始的幼児的趣味に合わせた製品を量産し、数年後その会社は倒産した。

彼は私たちの文化的理想の一つ「能力ある男は一つの目標にすべてを賭ける」。という理想に従って行動したが、理想に自分を同化しすぎたため、主観的・幼児的欲求の手中に陥ってしまったのである。

 

破局的クライマックスは、主観的な形、すなわち神経衰弱による虚脱状態をとる場合もある。この場合、意識は無意識からの絶対的な要求により混乱状態に陥る。この混乱は、<自分が本当にしたいことがわからなくなり、何もする気がなくなってしまう>、あるいは<一度に何もかもやりたくなり、できないことにまで手を伸ばそうとする>といった形で現れる。

 

優越機能がつねに意識的な人格を表しその意図・その行為・を反映するのに対し、未分化な機能はその人にとって<降ってわいた>ように現れる。外向的な構えにおける未分化な機能は、つねに際立った自己中心主義と個人的な偏見によって極度に主観的に囚われた状態にあり、無意識と密接に関連していることが分かる。

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

 

「主観にも客観にも、外向にも内向にも、さらには善にも悪にも、完全に同一化していない立場をとれるということは、重要なことのように思われる。人間は肉体も精神ももっているし、理性も感情ももっているし、聖者でも罪人でもあるのだ。疲労が睡眠を強い、血糖の低下が栄養欲求を引き起こすのとちょうど同じように、ユングの見解によると心的機能の全エネルギーは、これら対立物の間の緊張から生じているのである。生理的活動はアンバランスから生じるものではあるが、釣り合った中庸へと向かっており、その中庸は、常に求められ、達せられるや否やそこから離れてしまい、定めがたい。それでもそれは背後において遍在しているのである」。

➡ アンソニー・ストー著「ユング」岩波書店より

外向的思考型

政治において、言ってほしいことがあれば男に頼みなさい。やってほしいことがあれば女に頼みなさい」。

考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」。➡ マーガレット・サッチャー

 

タイプ1(改革する人)の状態

良い状態=道徳的、信頼できる、建設的、賢い、理想主義、公正、正直、きちんとしている、自制的

悪い状態善悪で判断しがち、頑固、独善的、強迫神経症的、あら探し好き、真面目すぎる、人に対して操作的、心配性、嫉妬深い。

タイプ1が成長するためのポイント

⇒ 自分の体験や理解において、自信がある価値判断であっても絶対視しない。

⇒ 人それぞれの価値基準やこだわりを知り、多様性を尊重する。

⇒ たとえ社会に対して影響力を持てなくても、自分の存在を大切なものと思えるようにする。

⇒ 自分の意見を素直に述べ、他人の言動をあるがままに受け入れる。

⇒ 完全でありたいという思いが度を越してしまうときは、その思いをコントロールする方法を学ぶ。

(鈴木秀子著「9つの性格」PHP、より)

 

■(典型的な)外向的思考型タイプの説明

このタイプはあらゆる生活営為を知的推論に依存させようと努める人である。しかもこの推論は客観的事実普遍妥当な理念のどちらかを基準にして方向づけられる。周囲に対するときも、既成事実や事実から導き出された知的公式に決定権を与える。

 

この公式に照らして善と悪を識別し、美と醜を決定する。公式に適うものはすべて正しく、矛盾するものは正しくない。公式にかかわりを持たないものは「偶然」と見なされる。この公式は世界の意味に適っていると思われているため、彼が従うのと同じように周囲の人もこれに従えば幸福になれると考え、これに反するものは非理性的で反道徳的であるとされる。彼にとってそれは、客観的事実の純粋な表現であり例外は許されない。というのは彼のなかでは、この公式に矛盾するものは不完全であり、取り除かれるべき欠陥と見なされるからである。

 

病人や困窮者や異常者に対する寛容が彼の公式の重要な要素とされる場合には、そのための対策として救護施設・病院・監獄・居留地が考えられ、そのための草案が提出されるが、これが現実に実行されるためには、正義・真理・温情主義という動機では不十分で、「隣人愛」というような、感情に基づく不可知な価値基準も必要なのである

 

公式が十分な幅を持つ場合、このタイプは改革者として、不正を糾弾し、重大な変革を訴えるものとして社会生活に有益な役割を演じる。ところが公式が狭いものとなるにつれ、このタイプは小言屋・屁理屈屋・独りよがりのうるさ型となって、自分自身や周囲の人を一つの枠に押し込めようとする。そして、このタイプの大部分はこの二つの両極端の間で絶えず揺れ動いている。

 

外向的な構えの本質では、こうした人格の影響力や言動は、外向的なことになるほど適切で良質なものとなる。彼が最も良い影響を及ぼすのは彼の活動範囲の周辺部であり、逆に彼の中心に近づくほどに公式に合わない生命は衰弱してゆく。彼の公式のもたらす悲惨な結果を味わう羽目になるのは身内の人々であり、もっとも苦しむのは彼自身である。

 

というのは生とその可能性をそっくりそのまま包摂し、的確に表現しうるような知的公式はあったためしがないし、これからもあるわけがない。したがってこのような「公式」にとらわれると思考以外の重要な生の形式や活動が阻止され排除されてしまうからである。具体的には、審美的活動・芸術的感覚・友情の涵養などであり、宗教的体験や情熱といった非合理的なものは抹殺され完全に無意識化される。

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

過剰適応の問題

外向型にとっての「正常」な状態とは、既成の状態に対し軋轢無く順応し、客観的に存在している可能性を成し遂げる以外には何の要求も持たない状態のことである。すなわち、たとえば現在この場で見込みのありそうな職業に転職するとか、周囲の人々が、今必要としていたり彼に期待していることを実行したり、そうしたものを創りあげるとか、見通しが立たないとか、あるいはどうかすると予想をはるかに上回ってしまうような変革は一切やらない

 

外向型の「正常」な状態は同時に、自分には主観的な欲求や必然性もあるのだという事実を勘定に入れなくなるという弱みを持っている。このタイプは外の方を向きすぎる傾向を持っているので、主観的な意識の中でも最も身近な「身体の健康」ですら、ともすると「客観的でない」「外的でない」として十分考慮されず、その結果、健康状態にとって欠くことのできない基本的な欲求がおろそかになり、心ならずも病気になる。ところが外向型の人の多くは最終的なこの状態にほとんど気づかないので、周囲の人や家族が先に気づく場合が多い。

 

このように外向的な構えが行きすぎると、主体に対する配慮がおろそかになり、主体が客体の犠牲になることが起こり得る。たとえばともかく注文があるのだからとか、目の前にある可能性は実行しなければならない理由から、商売をどんどん拡張し、主体が犠牲にされてしまうのである。

 

外向型の人のもっている危険は、客体の中に引き込まれてしまい、その中でまったく自分自身を見失ってしまうことである。この結果生ずる神経的な障害ないし身体的障害は補償的な意味を持っている。なぜなら、客体に引きずられて障害が発生した時、主体はいやでも自重せざるを得ないからである。→<否が応でも休まなければならない>

 

症状が身体に現れる場合は心理状態を独特な方法で象徴的に表す場合がある。たとえばある歌手の名声が急速に高まったため、自分では応じきれないエネルギー支出を迫られる危機に瀕し、突然高い声が出なくなったりする。貧しい境遇から出発して、社会的影響力のある地位に就いた男性の場合、心因によって高山病のあらゆる症状(頭痛、吐き気、嘔吐、睡眠障害、運動障害、消化機能の低下など)を呈することがある。

 

ユングによれば、外向型にもっとも見られる神経症は身体表現性障害である。典型的ヒステリーの特徴は、常に周りの人との過剰な関係であり、周囲の状況に猿真似ともいえるほどに迎合しようとするのも、特有の症状である。ヒステリーの特徴の一つは、つねに他人の関心を集めよう、周囲に感銘を与えようとする傾向であり、これと対になるのは暗示を受けやすいことと、他人によって影響されやすいことである。外向型の特徴はヒステリー患者の話好きとしても表れており、これは時としてまったくの作り事を話すまでになる。

 

ヒステリー性格は初めは正常な構えが誇張され、さらに無意識の側の補償的な反作用により、複雑になる。無意識の反作用によって生じる症状は外向的とは逆に、むしろ内向的な性格を持っている。このうちで特によく見られるのは病的に高まった空想(妄想)である。

外向型の「意識の構え」

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

誰でも外界から入ってくるデータを基準にして行動を決定するが、外界からのデータが決定的な役割を果たす場合もあれば、それほどでもない場合がある。

 

ある人は寒いとすぐにコートを着ようとするが、別の人は身体を順応させるためにすぐにコートは着ないという。ある人は、みんなが褒めているからと言って新人の歌手を賞賛するが、他の人は彼が気に入らないというよりは、むしろ皆が褒めているものが必ずしもそれに値しないという考えから彼を賞賛しない。ある人は経験に照らしてこれ以外はありえないという理由から既成事実に従うが、他の人はもう千回も同じことが続いたのだから千一回目には新しい事態が生ずるはずだと固く信じている

前者は既成の外的事実を基準にして自らを方向づけるし、後者は常に自分の意見を持っていて、それが彼と客観的な既成事実との間に割り込んでくるのである。

もっぱら客体や既成事実を基準に自らを方向付け、そのため重要な決定や行動が主観的な意見ではなく客観的な状況に支配されるとき、これを外向的な構えと呼び、これが習慣的になったものを外向的タイプと呼ぶ。ある人が良い意味でも悪い意味でも客観的状況やその要求に直接応えるかたちで考え・感じ・行動している場合、その人は外向型である。一見してわかるように主観的意見よりも客体の方が意識を決定する要因として大きな役割を演じている。もちろん彼にも自分の意見はあるのだが、その決定力は外界の客観的状況より小さいのである

 

こうして彼は絶対的な要因をつねに外界に見出すため、自分自身の中でそのような要因(主観的な意見)と出会えるなどと予想だにしない。彼は内界が外界の要求に屈しており、たしかに葛藤がないわけではないが、最後には常に客観的条件が勝利を収める

 

しかし、彼らの決定が常に外界からもたらされるのは、彼らが常に外界に期待しているからこそなのである。関心と注意は客観的出来事に、とりわけ最も身近な周囲の出来事に払われるので、行動もまた人物や事物の影響によって左右される

 

外向型の人は、常に現実の状況に対応しうる性質を持ち、客観的な出来事の範囲内で十分満足し、適切に活動する。そのため、この範囲を超えようと企てることは決してしない。同じことは興味のもち方にも言える。つまり客観的な出来事が無尽蔵に刺激を与えるので、普通これ以外のものに関心が払われることはないのである。

 

行動を規定する道徳法則も社会一般の道徳法則と一致している。社会の道徳観念が変化すれば、それに従って主体の道徳的観念も変化するので、心理的な態度全体が大きな影響を受けることがない。

 

このように、一見したところ生存条件に完全に、あるいは理想的に適応していることは、外向的な見方からすれば完全な適応状態に思える。しかし、俯瞰的にみると客観的状況がいかなる状況の元でも正常であるとは言えない。客観的条件は時代や場所によっては異常になることもあり得る。

 

こうした異常な状態に順応している個人は、たしかに周囲の異常な流儀とうまくやっていくが、それは同時に普遍妥当な生の法則(バイオフィラス)の見地から見ると、周囲の人々全員と一緒に異常な状態(ネクロフィラス)におかれているのである。そうなると一時的にはうまくやっているように思えても、最後には普遍的な生の法則に背いた罪により、周囲の人々と一緒に破滅してしまうのである。

(=゚ω゚)ノ
blogramのブログランキング
音楽を別ブログにまとめました
♬ (^^♪
過去記事
カテゴリ
はてなブックマーク
このエントリーをはてなブックマークに追加
( `ー´)ノ
おきてがみ
(=゚ω゚)ノ
ブログ村投票
プロフィール

スエスオ

Author:スエスオ
オリジナルのエッセイ・ブログを目指して鋭意更新中

ブログランキング.net