さようなら虚飾の世界:ヘルマン・ヘッセ

二つの世界のあいだをさまよう

一つは死んだ世界

もう一つは力なく未だ生まれえぬ世界

⇨ マシュー・アーノルド

 

かつて愛していた世界は

粉々に砕かれてしまったが

私たちは死んだように生きているから

それほど恐ろしいとも思わない

 

でも私たちは世界を冒涜してはいけない

かつての世界は多様性があり輝いていた

そんな古代の魔法の一撃が

いまでも世界を形作っているから

 

私たちは感謝するべきだ

生命の偉大な戯れの恩恵に

女神が与えた喜びと苦しみに

世界は私たちに愛を与えたから

 

さようなら 虚飾の世界

君はまだ未熟で効率ばかり求めるから

君が企てる喜びや悲しみ そして

わざとらしい生き方にはもう飽きたから

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頭脳警察「さようなら世界婦人よ」*youtubeへ飛びます

Box of Rain:Grateful Dead

 

どの家の窓からだって

それぞれの朝 それぞれの夜 日々の生活がある

太陽はこれからも輝き続け 鳥は渡り続ける

雨は天国から降ってくる

 

君が求めていることを

君の為にしてあげよう

最後まで君を見守っていよう

すべての夢がかなうように

私たちは遠い昔の午後 同じ夢を見た

 

どの家の玄関からだって 

それぞれの一日 それぞれの人生

そして 昨日そうしたように

進むべき道を見つけるだろう

いくつもの曲がり角で

私と再び会うはずのところで

 

君は私に何をしてほしい?

私は何を気にかければいい?

あなたが眠りに就くとき

その時が来ても怖がることはない

君は同じ夢を見る私を見つける

 

自分のことは自分にしか分からない

誰にとっても同じことさ

明日になれば 君にも分かる

別の良い方法があるってことが

家に戻る間にも分かるはずだ

 

君が求めていることを

君の為にしてあげよう

最後まで君を見守っていよう

すべての夢がかなうように

私たちは遠い昔の午後 同じ夢を見た


きらきら光る光の中に入ってみなさい

君は1インチずつ

彼岸へ向かう夢の中を歩く

君が疲れ果て一文無しだとしても

君が混乱して まとまりを失くしても

言いたいことの半分も言えなくても

 

君は私に何をしてほしい?

君の人生を見守るために

「雨の箱」は痛みを和らげてくれる

慈愛の雨は君に降り注ぐ

 

それはまるで 空に浮かぶ恵みの箱だ

風と雨が必要ならば それを信じてゆけ

君は それを手放してはいけない

降り注ぐ太陽の光と風と雨

人は窓から自由に出入りする

ランプに集まる夜の蝶のようなものだ

 

それはちょうど「空にある箱」のように

誰がそれを用意するのか人には分からない

君が必要ならば それを信じるしかない また

君に勇気があるなら それに頼らなくてもいい

それはちょうど「恵みの箱」のようなもの

あるいは君の髪を飾るリボンのようなもの

過ぎ去ってゆく長い長い時間

そして今ここにある瞬間

不屈のジャーナリズム:大統領の陰謀

このときだけは、これまで耐えてきた他の危機とは違い、生きる理由も守るべき大義も見いだせなかった。⇨ リチャード・ニクソン

 

大統領の陰謀は「All the President’s Men-ニクソンを追い詰めた300日」(ボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン共著)をワーナーが映画化(監督アラン・J・パクラ)1976年に上映された。

 

1972年6月17日、ワシントン・ウォータゲートビル侵入事件

ウォーターゲートビルの警備員フランクは、ドアのラッチが逃走経路確保のため工作されていることに気づく。テープが張られたことによりラッチが受け穴に落ちないようになっていたのだ。フランクは市警に通報し、民主党委員会本部に侵入した5人が逮捕された。

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取材の始まり

新米記者ボブ・ウッドワードは社会部長のハワード・ローゼンフェルドから侵入事件の法廷取材を命じられる。容疑者の所持金が多額であったことや、所持品の中に無線機やカメラが含まれていたからだ。取材により、共和党関係の弁護士が傍聴に来ていたこと、容疑者の一人マッコードがCIAの元警備員だったことが判明する。

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盗聴疑惑を追う

容疑者の残したメモから、ハワード・ハントという人物が浮かぶ。ハントに電話するが不在で、チャールズ・コルソンのオフィスにいるかもしれないという。コルソンのオフィスに電話すると、コルソンは不在だが、ハントは作家でマレン社にいるかもしれないという。(コルソンは大統領特別顧問)

 

ディープ・スロートの間接話法「選挙資金を追え」

ウッドワードは政府内部の情報提供者ディープ・スロート(仮名)から「政府捜査機関と情報機関は政府に牛耳られており、君たちは監視下にある」と警告される。ディープ・スロートが示唆した通り関係者の口は重く、取材は困難を極めたが、同僚のカール・バーンスタインと共に、干し草の山から針をひろうように粘り強く証拠を検証、選挙資金の一部が盗聴事件の実行犯に渡っていたことを突き止める。

 

さらにニクソンの強力なライバルだったマスキー上院議員(中道派)に対し、民主党党首選挙において「マスキーがカナダ人を侮蔑した」という内容の怪文書でマスキーの信用を失墜させた選挙妨害にも、ニクソンの選挙資金が使われていたという証言を得る。妨害がどれほどの影響をもたらしたかは不明だが、結果としてベトナム反戦を明確に打ち出していたジョージ・マクガバンと現職のニクソンが大統領選挙を戦うことになった。

 

四面楚歌

少ない証言をもとに記事は発表され、政府は無責任な記事と一笑に付し、世間の反応も薄かった。

 

言論の自由は尊重するが、ポストのような卑しいジャーナリズムは別だ。今朝、掲載された記事は不正確で事実に反している。それはわたしのみならず、記事の根拠となった大陪審で証言した人物も、そう述べている、そのような証言はしていないと」。

 

「当てこすりや第三者の伝聞、根拠のない非難や匿名の取材源、こけおどしの見出しで、ホワイトハウスを事件と結びつけようとした。そうした非難は、事実無根だとポスト紙は知っている。ポスト紙はまさに偽善の塊だ。その有名な二枚舌は誰の目にも明らかだ」。

 

遂にディープ・スロートが秘密を暴露

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ホールドマン(首席補佐官)の仕業だ、金も何もかも彼が仕切った。彼には容易に近づけない、手を講じないと。不正工作はミッチェル(再選委員長・元司法長官)が始めた。実に大勢が関係している。この国の全情報機関がかかわっている。FBI、CIA、司法省・・・途方もない。隠ぺい工作は違法なスパイ活動を守るのが主目的だった。みんな、つながってる。ノートを出せ、もっとある

 

大団円

一時は完全に劣勢だったワシントンポストだが、記事を発表したことにより少しづつ流れが変わり始め、次第に事件の全容が明らかに。

 

1973年1月11日:ハント(CIA局員)共謀と不法侵入の罪状を認める。

1973年8月17日:マグルーダー(再選委員会・総務部長)不法侵入ほう助を認める。

1973年11月5日:セグレッティ(弁護士)民主党党首選挙妨害に関与、6か月の禁固刑。

1974年2月26日:カームバック(ニクソンの私設弁護士)不正資金調達を認める。

1974年4月6日:チェーピン(大統領秘書)偽証で有罪。

1974年4月12日:ポーター(大統領再選委員)FBIへの偽証で30日投獄。

1974年5月17日:クラインディーンスト(司法長官)罪状を認める。

1974年6月4日:コルソン(ニクソン大統領特別顧問)司法妨害を認める。

1975年3月13日:スタンズ(再選委員会・財務委員長)不正献金受領を認める。

1975年1月2日:ミッチェル(再選委員長、元司法長官)ホールドマン(大統領首席補佐官)ら有罪。

1974年8月6日:録音テープによりニクソンの隠ぺいが発覚。

1974年8月9日:ニクソン大統領辞任。ジェラルド・フォード38代大統領に就任。

 

最新の世論捜査では、ウォーターゲートを国民の半数が知らない。疲れただろう、家に帰るがいい。風呂に入って15分休んだら、また仕事だ。君たちが招いた苦境だからな。だが、我々が守るべきは憲法修正第一条、「報道の自由」この国の未来だ。たったそれだけだが、今度しくじったら許さんぞ。⇨ ベン・ブラッドリー(ワシントンポスト編集主幹)

ワシントンポストとニューヨーク・タイムズは、71年、ベトナム戦争に関する国防総省の極秘文書も暴露している。ニクソン政権は両紙を告訴し、記事の差し止めを求めたが敗訴(76年最高裁決定)、政府印刷局は全12巻を公刊した。ペンタゴン・ペーパーズの暴露と最高裁の判決は、当時のベトナム反戦運動を励まし、三権分立への信頼も失わせなかった。

2005年、月刊誌「ヴァニティ・フェア」は「ディープ・スロート」の正体が、事件当時FBI副長官だったマーク・フェルトだと報じた。マーク・フェルトはFBI退官後の1976年、1970年に極左テロ組織「ウエザーマン」に対する捜査で、容疑者宅に不法家宅侵入した責任を問われる。4年に及ぶ審理の終盤、ニクソン前大統領はフェルトを擁護する側の証人として出廷。判決は罰金刑だったが、フェルトはウッドワードに「ニクソンはワシントンポストより力になってくれた」と語ったという。

同調しない勇気

君は心と人間性をもった1個の人格になるのか、それとも<意図的な力>が要求することは何でもするのか。ベン・ケノービが「フォースが共にあらんことを」と言うとき、彼は生命の力のことを言っているのであって、政治的意図のことを言っているのではない

⇨ ジョーゼフ・キャンベル

 

映画「ローグ・ワン」予告編

 

現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。

 

もし私がみんなと同じになり、ほかの人と違った思想や感情を持たず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ。

 

独裁体制は人々を集団に同調させるために威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる。たしかにこの二つのシステムの間には大きな違いがある。民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人がまったくいないわけではない。一方全体主義体制にあっては、服従を拒むのはごく少数の特別な英雄とか殉教者だけだろう。しかし、こうした違いにかかわらず、民主主義社会においても、ほとんどすべての人が集団に同調している。何故かというと、

如何にして合一感を得るかという問いには、どうしても何らかの答えが必要なのであり、ほかに良い方法がないとなると、集団への同調による合一が、いちばん良いということになるのだ

 

孤立したくないという欲求がいかに強いかが理解できれば、ほかの人と異なることの恐怖、群れから僅かにでも離れる恐怖の大きさが理解できるだろう。しばしば「集団に同調しないことの恐怖は、同調しないと実際に危ない目にあうかもしれないという恐怖なのだ」ともっともらしく説明される。だが実際には、少なくとも西洋の民主主義社会では、人々は強制されて同調しているのではなく、自ら欲して同調しているのである。

 

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求にすら気づいていない。誰もがこんな幻想を抱いている、

私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それは単なる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、自分の意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人と違うのだと思いたがるが、そうした欲求はごく些細な違いで満たされる。

ハンドバックやセーターのイニシャルとか、銀行員の名札とか、共和党でなく民主党支持だとかといったことが、自分はほかの人と違うのだという意思表示になる。「これはほかとちがいます」といった広告のコピーは、人と違いたいという悲痛な欲求をよく物語っている。実際はほとんど違わないのだが

 

違いをどんどん無くしてゆこうというこの傾向は、先進工業国で発達しているような、平等の概念やその経験と密接な関係がある。

現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った人間の平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。それは、同じ仕事をし、同じ趣味を持ち、同じ新聞を読み、同じ感情や考えを持つといった、雑多なものを切り捨てた同一性である。

⇒ エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店より

虚ろな世代

魂はどうなるのですか?」

魂って・・・お前何言ってんの」。

■Brave New World Trailer

 

現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人々は、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかれない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することが出来ないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐそれを他人と交換したりして、孤独を紛らわそうとする。

 

現代人は、オルダス・ハクスリーが「素晴らしき世界」で描いているような人間像に近い。旨いものをたっぷりと食べ、きれいな服を着て、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく、ハクスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに導かれて生きている。

 

個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に伸ばすな」あるいは最高のスローガン「昨日は誰もが幸福だ」。

 

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込むみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ大きな酒瓶大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。今や私たちのキャラクターは、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。

 

必然的に、愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。ロボットは愛することが出来ない。現代人は「商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む。愛の、特にこのような疎外された構造を持つ結婚の、もっとも重要な現れのひとつが「チーム」という観点である。幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は滞りなく役目を果たす労働者という考えと大して違わない

 

そうしたチームは「適当に独立して」おり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。同じようにカウンセラーは言う。夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理を誉めなくてはいけない。一方妻の方は、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときは優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときは心を込めて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。

 

こうした関係を続けていると、二人の間がぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言い合うだけの関係にとどまる。

 

愛と結婚に関するこうした考え方では、耐え難い孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは愛のなかに、ついに孤独感からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の表現だと誤解されている

 

第一次大戦後の数年間は、性的満足が愛情関係の土台であるという考えが流行した。不幸な結婚の原因は「性的適応」がなされなかったことであり、この誤りを「治療」するために多くの本が出版された。正しい「技術」を身につけることにより、幸福と愛が生まれると暗黙のうちに、あるいは公然と約束したのである。

 

こうした発想の底にあるのは、愛は性的欲求から生まれる子どもであり、二人の人間が「技術」を身につけさえすれば、自然に二人は愛し合うようになる、という考え方だ。こうした考えは、当時の一般的な幻想、すなわち、正しい技術を用いさえすれば、工業生産のみならず人間全般の問題も解決できる、という思い込みと一致していた。彼らは「逆は必ずしも真ならず」ということを考えなかったのである。

 

このような「精神的流行」は当時の人々がフロイトの影響下にあったことを物語っている。フロイトは、愛は基本的に性的現象であり、性器的な愛がもっとも強い満足を与えるから、性的な愛が幸福の原型だと確信できた人は、性的な関係を求め、性的な愛を人生の中心に据えるようになると考えた。

 

フロイトは兄弟愛(人類愛)についても、性的本能の「目的を抑制された」衝動が変化したものだと考えた。フロイトの理論ではどんな形の愛であっても、本来は純粋に「性愛」であり、それは無意識の中にあって、永遠に「官能的な愛」なのである。

 

神秘体験の本質にある、一人あるいは複数の人間との強力な融合体験とか一体感について、フロイトはどちらかというと、病的な現象⇨ 幼児期の「無限のナルシシズム」状態への退行と解釈している。フロイトにとっては、共依存的な愛と成熟した愛との間に違いはない。恋に落ちるということは、ほとんど異常であり、必ず現実が見えなくなり、強迫的であり、幼児期の愛の対象が転移したというものだ。

 

成熟の最高の達成としての愛は、フロイトにとっては研究の対象にならなかった。彼にとって、そのようなものは存在しないと考えられていたからだ。

⇨ エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊國屋書店より

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