恐怖を考える:クリシュナムルティの授業から-3

昔、美濃の山奥に「覚(サトリ)」という妖怪が住んでいました。覚は人間の心を読むことができる怪物で、独りで山の奥へ出かける人間を見つけると、次々に心を読み、暴き立て、その人から恐怖を引き出すと、ついには捕えて食べてしまうということです。

 

ある日のこと、一人の樵(きこり)が、山のなかで木を切っていると、とつぜん覚が現れ「今、お前は怖いと思っただろう」と樵の心を言い当てました。樵は恐怖を覚られまいと必死に考えないようにしたが、その度ごとに覚は、「今、お前は私に食べられると思っただろう」「今、私から逃げようとしただろう」と心を暴きながら徐々に樵に迫った。

 

樵は心を読まれないために無心になろうと、斧を振るい薪を割った。すると、割られた薪の一片が偶然に覚のほうへ飛んで頭に命中した。覚は「何も考えないで攻撃ができる人間は恐ろしい」と山の奥へと逃げていった。覚の思い違いが覚の恐怖となったのです。(民間伝承)

 

恐怖を洞察する

蛇をを見て跳び上がったり、暴走する車をとっさに避けたり、崖の近くでむやみに走り回ったりしないようにするのは、身体の自然な反応であり恐怖とは異なる。危険から身を護ろうとする反応は肉体的な反射であり恐怖とは区別されなければならない。恐怖は思考に密接に結びつくもので、過去の失敗や未来への不安、他人からの罰、罪悪感などから生ずる思考的な働きである。

 

「あなたは映画を観に行きたい。その日はベナレスへ出かけたいのですが先生はだめだと言います。規則があるのです。でもあなたはその規則が嫌いです。あなたは出かけたいのです。そこで何かの口実を作り、行ってしまいます。そして帰ってきたとき、先生はあなたが出かけたことを知っていて、あなたのほうは罰を受けることにおびえます。

 

ですから罰を受けると思うときに恐怖が襲います。でももし先生が、なぜ街には出掛けるべきではないかという理由を穏やかに話し、不潔な食べ物を口にするなどの危険を説明してくれるなら、あなたは理解します。説明を受けた後は主体的に考えることができるので、知恵が働き、なぜ出かけるべきではないかという理由を自分で見出すことができます

 

恐怖心などないことを示すために、やりたいことは禁止されてもなんでもやるというのは知恵ではありません。勇ましさは恐怖の反対ではないのです。戦場においてはだれもがとても勇ましいですね。彼らは様々な理由から酒を飲んだり、度胸をつけるために、いろんなことをします。でもそういうことが恐怖から自由になることではないのです。」

➡J.クリシュナムルティ、有為エンジェル訳「恐怖なしに生きる」平河出版社より

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