永遠のケンタウロス:ケン・ウィルバー「無境界」-3

子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。➡ 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

 

心の回復から身体の回復へ

通常の精神療法では、「ゲド戦記」でゲドが影を自身に取り込むことにより「影との闘い」に勝利したように、投影された影を自分のものとして自覚することにより、貧困な仮面(ペルソナ)から健全な自我へとアイデンティティを拡大することにより終了する。ケン・ウィルバーはこのことを、「閉塞状態の狭い部屋から、一戸建てへ移るようなもの」と表現している。しかし、心のレベルは次の段階を用意している。それは、「心地よい家から、さらに広い邸宅」へ移るようなものだという。

ケンタウロスの自覚

ケンタウロスは上半身が人間で下半身が馬の、神話に登場する生物で、物語や映画では好意的に描かれることが多い。(ナルニア国物語ではアスランの味方で、逆に頭が牛のミノタウロスは白い魔女の味方だったと思う)

 

「身体を取り戻す」というセラピーメソッドは数多いが、多くの人はこれに触れると、最初、困惑と倦怠がいりまじった奇妙な表情をするという。これは、自我と肉体の境界が深く無意識の底に埋もれているからだ。心と身体の境界は不変でリアルなものと思い込んでいるために、それを消すことはおろか、それに干渉できるということが不思議なのである。

ケンタウロスの喪失

心を失っている人の数は少ないが、我々の大半は「とっくに身体を喪失している」私たちは騎手が馬に乗るように、「自分の身体の上に座っている」だから、必要に応じて自分の身体を責めたり誉めたりし、えさを与え、手入れをし、養うのである。身体に対して何の相談もせずに、行動に駆り立てたかと思うと、今度はそれに逆らって抑圧する。自分の身体(馬)の行儀がいいと、それが「当たり前」だと感じ、手に負えなくなると鞭打って従属させようとする

 

身体はわたしに付き従っているとしか思えない。もはや身体と一体で世界にアプローチはせず、身体に乗ってアプローチする。自分は上にいて身体は下にあり、下にあるものに関しては基本的に不安を抱いている。自分の意識はほとんど頭の意識だけでー 頭は私で、私が身体を所有している。身体は自己からの所有物、すなわち『自分のもの』ではあるが、『自分』ではないものに格下げされている

ー平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

 

神になろうとすれば、嗜癖を招き、過度のストレスがもたらされる。支配の及ばない事柄をコントロールしようとすれば、身体は酷使され、緊張し、やがて文字通りの死に至る

ーアン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会、誠信書房」より

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