心身一如の意味:ケン・ウィルバー「無境界」-4

ー平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

 

自己と非自己の境界は

誰もが現実として受け入れている、もっともありふれた境界は体をとり囲む「皮膚の境界」である。皮膚の内側にあるものは全て「私」であり、皮膚の外側にあるものは全て「私」ではない。外側にあるものの中には、私の車、私の家、私の仕事など「私のもの」と呼べるものもあるが、「私」ではない。私は車でも仕事でもないのである。この皮膚の内側と外側という境界は最も根源的に受け入れられている、自己と非自己の境界の一つ。

身体の中の境界???

皮膚の境界はあまりにも明白で現実的であるために、自己と非自己の境界はこれ以外にないと考えられているが、多くの人が無意識に設けている境界が他に存在するとケン・ウィルバーは言う。たとえば、

 

あなたは自分が身体だと感じますか?それとも自分が身体を持っていると感じますか?」

 

と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家や他のものと同じように、自分は身体を持っていると感じていると言うのである。こういった状況では、身体は私であるというより「私のもの」として、自己・非自己の境界線の外側に置かれてしまっているのである。

哀れなロバ

ある人は、この身体の状況を「哀れなロバ」と呼んだ。そして、ほとんどの人がこの哀れなロバの上に座って、身体を乗り回している感覚を持っていることは否定できないだろう。この心身の間の境界線は誕生時には存在しなかった奇妙なものである。しかし、成長するにつれ身体に対して入り混じった複雑な感情を抱くようになる。

 

身体は一生を通じて快楽の源になるものである。エロティックな感覚から、ご馳走の微妙な味覚、日没の美しさを感じるのは、身体の諸感覚である。ところが、身体には不具になることへの恐れ、老いによる衰弱、ガンの苦しみなどの恐怖もすみついている。

 

子供にとって身体は唯一の快楽の源である。だが、同時に身体は両親とのいさかいや苦痛の第一の源でもある。身体は全く訳のわからない理由で、両親をピリピリさせたり悩ませる廃棄物を生産し続けているように子供には思える。おねしょ、涎、鼻水- まったくなんて騒ぎなんだ!

 

そのため大人になるころには、ほとんどの人がこの「哀れなロバ」を壁の外(境界の外側=非自己の側)に置いてしまう。心と身体の間に境界を設けて、前者にのみアイデンティティを持つ。そして自分は頭の中に住み、身体を監督し命令を与える。つまり、自分のアイデンティティを有機体全体ではなく「自我」と呼ばれる一局面に限定させて、それを自分だと思い込んでいるのである。

 

生物学的には、この魂と身体、自我と肉体の分裂や溝にはいかなる根拠もないが、心理学的には疫病的な作用を及ぼすと考えられている。そして、この心身二元論は、現代社会における基本的な原理になりシステムを支配しているのである。

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