時間という幻想

われわれは知らず知らずのうちに、自分が知っていたり知ることができる対象の集合体と同一化してしまっている。この知ることのできる対象の集合体は、真の知者でも真の自己でもありえないのだ。われわれは、これらの対象が真の「自己」を構成するすると思い込み、身体、頭、人格と同一化し、単なる幻想にすぎないものを防衛、防御し、生きながらえさせるために自らの一生を費やしてしまう

ー平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

 

やせ細る現在(いま)

人間が、時間にまつわる問題に束縛されていると感じるのは幻想にすぎないと、ケン・ウィルバーはいう。一般的に私たちが「感じている」過去とか未来というものは存在せず、唯一体験できるのは「永遠の現在」だというのである。だが、一般にほとんどの人が、現在の瞬間を永遠の瞬間とは感じていなく、一、二秒しか続かないやせ細った時間を現在と考えている。

 

キリスト教神秘主義者はこれを「今の流れ(過ぎゆく現在)」と呼ぶ。別のいい方をすると、現在の瞬間を「境界づけられた限られたもの」➡ 過去と未来に挟まれていると感じるのである。事実と記憶/象徴の混同をとおして、われわれは時のない現在に一つの境界を設け、それを分断して過去対未来という対立に仕立て上げ、現在を過去から「過ぎゆく現在」をとおって未来へ向かう一つの動きととらえる。永遠の領域に境界をもちこみ、自らを閉じこめてしまうのである

 

過ぎてゆく時間を、一方が過去、もう一つを未来と境界づけると、過去は、自分の後ろに存在する現実的な実体のように思えてくる。後ろを振り返ると、まるで過去がそこにあるかのように感じるのである。多くの人は後ろにあるだけでなく、文章を読むとき左から右へ読むせいか、自分の左に過去があるようにも感じている。

 

過行く現在の向こうには未来がある。未来は予想が難しいため、過去よりは少し不確かではあるが、それでもやはり極めて現実的で実体のあるものに思える。そして、未来もまた時間に境界をもちこみ、現在を狭めてしまうのだ。予測したことを現実の未来と思い込むことで、未来が現在の前にあると錯覚しているのである。

 

現在は過去と未来によってサンドイッチのようになり、限定され、取り囲まれ、制限される。現在は開かれた瞬間ではなく、押しつぶされた瞬間 ➡ただ通り過ぎゆく瞬間なのだ。過去と未来があまりにも強固な現実に思えるので、サンドイッチの中身である現在は薄く薄くスライスされ、私たちのリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまう

 

だが記憶としての過去も、予測としての未来も、つねに現在の体験であり実体はいつも現在にあると分かれば、前後に設けられた境界は吹き飛び、私たちの前後に何かがあるという重荷が、即座に完全に消え去る。現在はもはや縁取りされたものではなく、拡大されてあらゆる時間を満たすようになる

 

この現在は、リアリティの単なるスライスではない。その逆に、この現在の中には、世界のあらゆる時間と空間とともに、すべてのコスモスがあるのである。

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