是非に及ばず

死にたくない!死ぬには若すぎる!死ぬには、いい性格すぎる!

死ぬには『ぼく』すぎる!➡ スヌーピー

 

死の幻想

過去と未来に境界がなく、今現在、同時に存在すると考えると、誕生と死には境界がなく、今現在のこの瞬間に共存していることが分かる。だが、人は排他的に自らの有機体と同一化することにより、誕生と死を分け、その一半(いっぱん)だけを受け入れる。つまり、誕生のみを受け入れて死を拒絶するのである。これにより、死はもっとも恐怖されるものとなる。事実、人はこの現在の瞬間に死の匂いを嗅がないための方法として、未来を要求する。死の恐怖は巧妙に機能して未来に手を伸ばし、未来に向かって進もうとする動機となる。このように人が生み出す時間に対する幻想は、同様に人間が生み出す死の幻想を和らげようとする試みだといえる。

 

「(人間が恐れる)死などというものは、幻想以外存在しない。人が生涯の間抱き(恐れ)続けるのは、その幻想の印象である

➡ ハズラト・カーン(スーフィー教の神秘主義者)

 

永遠の意味

時のない永遠の今は、過去も未来も知らない一つの自覚である。永遠の今には、未来もなく、境界もなく、その先にも、前にも後ろにも何もない。だが、これは死の状態そのものである。死を受け入れるということは、未来を所有せず、何の不安もなく生きることである。つまり、エマーソンのいうように、時間を超えた現在にいきることなのだ。

過去に何があり、未来に何があるかは些細なことだ。私たちの内側に何があるかに比べれば」➡ ラルフ・エマーソン

 

やせ細る現在

私たちは死を回避しようとして想像上の未来を利用する。「なりたい自分」とは未来に出会いたい自分、未来に生きている自分のイメージである。今ではなく、別の今、そしてまた別の今。明日、明日、明日。このようにして、私たちのやせ細った現在が過ぎてゆくのは、私たち自身がその終了を要求しているからである。そうすれば、また別の未来の瞬間へ移ることができるから。

 

過去に執着する人

もう一方、現代人は自我に固執するあまり、頭の中にある記憶の痕跡が、均衡を崩すほど大きな意味を持ち、頭から離れなくなってしまう。そして、あたかも本物であるかのように、つまり、本物の自己の本当の記憶を報告しているかのように、記憶に執着する。つまり、後ろにある過去が「本物」であると信じることで、前にある未来も「本物」であると思い込もうとするのだ。⇒ 昨日、自分が存在していたのだから、おそらく、明日も存在している。という確証を得ようとして、過去の記憶にしがみつくのだ。このようにして現在を過ぎ去った時の甘酸っぱい嘆きと、来るべき時のほろ苦い希望によって束縛し、記憶と期待のなかにのみ生きるのである。自らを死から守るために現在の周囲に何かを欲しがり、過去と未来によってそれを境界づけるのである。

ー平河出版社、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸訳「無境界」自己成長のセラピー論より

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