自由という重荷

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

 

著者紹介― 1900年、ドイツのフランクフルトに生まれる。ハイデルベルグ、フランクフルトの大学で社会学、心理学を専攻し、1925年以後は精神分析学を社会現象に適用する新フロイト主義の立場に立ち、社会心理学に重要な位置を占めた。ナチに追われてアメリカに帰化し、メキシコ大学などの教授に歴任、1980年没。

 

もし私が、私のために存在しているのではないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば

― いつというときがあろうか

➡ 「タルムード」第一編「ミシュナ」より

 

現代における自由の意味

現代の政治的発展が、近代文化のもっとも偉大な業績― 個性と人格の独自性― にとって危険なものとなっているのをみて、私は大規模な研究の続行を中断し、現代の文化的社会的危機にたいして決定的な意味をもつ一つの側面、すなわち近代人にとっての自由の意味ということに集中しようと決心した」

 

「なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとする全ての行為の前提であるからである」➡ エーリッヒ・フロム

 

社会の基礎的な実体は個人であり、個人の欲望と恐怖、激情と理性、善への傾向と悪への傾向が社会を形成している。そのため社会過程を理解するためには、個人の心理過程がどのように形成されたかを理解する必要がある。

 

近代人は

個人に安定を与えると同時に彼を束縛していた、前個人的社会の絆からは自由になったが

個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない

 

⇒ 自由は近代人に独立と合理性を与えたが

⇒ 一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安で無力なものにした

⇒ この孤独は耐え難いものである。個人は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とに基づいた積極的自由の完全な実現に進むかの二者択一を迫られている。

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