内なる抑圧

「ヒットラーのような男たちは、ただ権謀術策だけで権力を獲得したのであり、すべての国民は、ただ欺かれ、脅かされたために、意思のない存在になっていたに過ぎないと思われていた。しかし何年かたってみると、このような議論が間違っていることが明らかになった。

私たちはドイツにおける数百万の人びとが、彼らの祖父たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由を捨ててしまったこと、自由を求める代わりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値があるものとは信じていなかったこと、などを認めざるをえないようになった」⇒ エーリッヒ・フロム

 

「我々のデモクラシーに対する容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちをしめた諸条件が、まさに我々自身の態度の中にも、我々自身の制度の中にも存在するということである。したがって戦場はここに、我々自身と我々の制度の中に存在している」⇒ ジョン・デューイ

 

自由とは何か

私たちが人道主義としての自由、または服従への憧れや、力への渇望ということに目を注ぐとき、次のような疑問が浮かんでくる。

自由とは何であろうか。自由を求める欲求は何か人間性に固有なものであろうか?

それは、特定の文化とは関係のない、普遍的なものだろうか?

あるいは、特定の社会において、個人主義の発達の過程において異なるものであろうか?

自由とは、単に外的な圧迫のないことであろうか?それとも何らかの条件が存在することであろうか?― もしそうだとすれば、それはなんであろうか?

人々を自由へと駆り立てるのは、どのような社会的要因だろうか?

いったい自由が人々にとって堪え難い重荷となり、それから逃れたいものとなるようなことが、ありうるのだろうか

多くの人々にとって自由は大切な目的でありながら、他の多くの人々にとって脅威となるのは、なぜであろうか

また、自由を得たいという内的な欲望のほかに服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうかもしそうでないとしたら、指導者への服従が、あれほどまでに多くの人びとを引き付けていることをどう説明したらよいであろうか

服従というのは、常に目に見える権威への服従であろうか?あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内部に潜む強制力とか、世論のような匿名の権威に対する服従が存在するのだろうか?服従することのうちに、合理的な説明のつかない満足が隠されているのだろうか?

人間のなかに、あくことのない力への渇望を生み出すものはなんであろうか?それは人間の生命力の反映なのだろうか?それとも人生を自発的な親しみをもって経験することのできない、根本的な弱さであろうか?どのような心理的条件がこれらの傾向を強めるのだろうか?そして、心理的条件はどのような社会的条件と結びつくのか?

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