社会は狂っているのか、いないのか。

ナルシシズムとは個人と社会における非現実性の程度を示すものである。

成功した人間になれるかどうかを、愛し愛されたいという欲求よりも上位におく行動パターンには、どこか狂ったところがある

自分の存在基盤を、身体の感覚や感情に求めるのではなく、人からどう見られているかということで判断する人は、どこか狂ったところがある

より高い生活水準という名目のために、大気や水や大地を汚染する文化には、どこか狂ったところがある。だがいったい、文化とは狂いうるものなのだろうか?

 

精神医学における狂気とは、自分が属す文化の現実にふれることのない人間のしるしだとされている。そうした基準からみて、仮に文化の中に狂気など存在しないということであれば、成功したナルシシストは狂気からほど遠くにいるということになる。しかし、現代の大都市に見られるような人々の熱狂性、

もっと多くのお金を儲けようとして、もっと大きな権力を手に入れようとして、前に進もうとして、がんばっている人たちは、どこか狂ったところがありはしないだろうか

熱狂は狂気のしるしなのではないだろうか

 

ナルシシズムの底に潜む狂気を理解するためには、専門性にとらわれない視野を持つ必要がある。たとえば「都会の騒音は人を狂わせる」などというとき、私たちは現実的で、人間的な、意味のある言葉として話す。だれかを「少々狂っている」と評するとき、私たちは精神医学の文献では見ることができないような真理を表現している。

 

人々が普通の、日常的な言葉で表現するような経験をも取り込むことができるように、精神医学がその概念や理解を拡大することができるなら、それは精神医学にとって大いに得るところがあるだろう。

 

ナルシスティックな状況について理解するには、問題をつくりだす文化の諸力と、個人がなぜ、その状況に加担してゆくのかという心理的要因の両方を考える必要がある

 

患者はみな自分を理解してくれる人を必死に求めている。彼らは子どものころ両親に理解されていなかった。彼らは感情をもった人間として見られておらず、同時に人間性にたいする敬意をこめてあつかわれてもいなかった。彼らの苦しみを見抜くこと、恐れに気づくこと、人を狂わせもするような家庭環境の中で、自己の正気を保つための闘いがいかに激しいものであるかを知ることでしか、彼らの障害から脱出しようとする努力に、有効な援助を与えることは出来ないのである。

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理

(新曜社)より

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