魂の殺人

彼の説明によれば、父親の冷たさと敵対性はほとんど母親を狂わせるばかりであったという。それはまるで悪夢のようだった。しかしエリックは、だからといって苦しんでいるわけではまったくないと断言した。

 

感情がないということをぼくは苦にしていません。バッチリうまくやっているんですから」。

私はただこう答えることができただけである。「死んだ人間には苦しみがないし、なにものも死者を苦しめることはできない。あなたはただたんに自分を殺してしまっただけなんですよ」。このように言えば彼も痛みを覚えるだろうと思ったからである。彼の答えは私を仰天させた

ぼくは自分が死んでいることを知っています」。彼はこう言ったのである。エリックは次のように説明した。

 

「まだ幼かったころ、ぼくは死を考えることを恐れていました。そこでぼくはこう思ったんです。もしぼくがもう死んでしまっているのなら、ぼくにはもう恐れるものはないって。だからぼくは、自分が死んだんだと考えることにしたのです」。

 

エリックは自分を「モノ」として見ている。彼は自分のイメージを表現するときに「モノ」という言葉さえ使う。ほかのひとびとの反応から自分が代償的な満足をひきだしていることを彼は認めてはいるけれども、彼の目的は、ひとつの道具として、彼らのために何かよいことをすることであった。

 

彼は自分がどこかおかしいということは知っていた。しかし彼は、そのことに関わり合いのある感情を否定していた。彼は自分が変わらなければならないことを知ってはいるのだが、同時に自分自身を守ってくれる強力な防護壁も発達させてきていた。そのような防護壁は、その仕組みを十分に理解し、そして患者の協力を得るのでないかぎりは、こわすことができない。エリックはなぜ、感情にたいしてそんなにも強力な防護壁を築き上げたのか?彼はなぜ、自分自身を埋葬してしまったのか?彼は本当は何を恐れていたのだろうか

 

その答えは狂気である、と私は考える。自分は死を恐れているとエリックは主張したが、それは確かにそうだろうとは思う。だが、死に対する彼の恐怖は意識的なものであるけれども、狂気に対する恐怖は無意識的なものであるから、その方が一層深い。

 

彼は(無意識にではあるが)次のように信じていた。どんな感情であれ、それが意識に上ることを許せばダム(正気の防護壁)にひびが入ってしまう。そうなれば自分は感情の奔流に押し流され、押しつぶされて、狂ってしまうだろう。

 

彼の無意識の内では、感情が狂気やヒステリーの母親と同じものとされていた。⇔ エリックは父親に同一化し、意思や理性や論理を正気や力と同一視していたのである

 

私は彼に、感情そのものは狂わないこと、それはいつでも妥当なものであることを説明した。しかしながら人が自分の感情を受け入れることができないとき、感情が思考と矛盾するように思われるときには、その人は分裂した自分(狂った自分)を経験するだろうと話した。

 

自分の感情を否定することは意味がない。感情を否定できるのは、自分が生きているという感覚を覚える身体から、意識を切り離すことによってのみである。そのとき人は「あたかも・・・・・であるかのごとく」という形でに行動するように努力し続けなければならない。それは人を疲弊させ、何ら得ることのない営みである。このように考えてみたらどうだろうか?

 

公判中に逃走し、自首する勇気もないけれど、隠れていることの緊張にも耐えられない逃亡犯がいる。この人間の態度が事実上狂ったものであり、自首することによってのみ心の平安が訪れるということをエリックが理解し、認めることができるなら、彼は狂ってはいないだろうと

➡ A・ローウェン「ナルシシズムという病い」文化・心理の病理(新曜社)より

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