欠乏の原理

私たちは心で感じ、心で考える。アメリカ人は頭で感じ、頭で考える。白人は冷酷に見える。目はじっと見つめるような表情。いつも何かを探している。だが何を探すのだ。白人はいつも何かを欲しがる。いつも不安で落ち着かない。何を欲しがっているのか、我々にはわからない。どうかしてると思う

➡マウンテンレイク(アメリカン・インディアンのシャーマン)

 

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社

より

愛は特定の対象によって「惹き起こされる」ものではない。それは人間の内に潜む不可知で、「対象」はそれを現実化するものである。憎悪が破壊を求める激しい欲望であるなら、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。

 

愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的つながりである。それは原則として、自分を含めたすべての人間や、事物に向けられるように準備されている排他的な愛というのはそれ自体一つの矛盾である

 

ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間の内のモヤモヤした愛が、対象に集中し現実化したものにすぎない。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着である。愛に含まれる根本的な肯定が恋人に向けられるとき、それは恋人を、本質的に人間的な性質の具現したものと見ているのである。

 

原則的に、私自身もまた、私の愛の対象である。自分自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる不可知な原理が存在することに根差している。そして、他人しか愛することができない人間は、まったく愛することができないのである

 

利己主義と自愛は同じものではなく、まったく逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。利己主義は継続する不充足感であり、底知れぬ落とし穴である。実現不可能の欲求をどこまでも追及させ、人間を疲弊させる。

 

利己的な人間は、いつでも不安げに自分のことばかり考えている割に、決して満足できない。常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われているのではないかという恐怖に、かりたてられている彼らは自分より多く持っている人間に燃えるような羨望を抱いている。彼らは、自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪を抱えている。

 

利己主義は自愛の欠如に根差している。自分自身を好まない人間や自分自身をよしとしない人間は、常に自分自身に不安を抱いている。彼らは純粋な行為と肯定の基盤の上のみに存在する内面的な安定をもっていない。自分自身に気を使い、あらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見開いている。

 

これと同じことは、いわゆるナルシシストにもあてはまる。彼らは自分自身のために何かを得ようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに集中する人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、彼らのナルシシズムは、利己主義者と同じように、自愛が根本的に欠けていることを無理に償おうとする結果なのである

コメントの投稿

非公開コメント

(=゚ω゚)ノ
blogramのブログランキング
音楽を別ブログにまとめました
♬ (^^♪
過去記事
カテゴリ
はてなブックマーク
このエントリーをはてなブックマークに追加
( `ー´)ノ
おきてがみ
(=゚ω゚)ノ
ブログ村投票
プロフィール

スエスオ

Author:スエスオ
オリジナルのエッセイ・ブログを目指して鋭意更新中

ブログランキング.net