人間ー狼か羊か

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

人間は狼か羊かという疑問は、欧米の神学及び哲学の思想上の一つの根源的問題、すなわち人間は根源的に悪で堕落しているのか、それとも善であり完全になり得るのかという疑問の特異化にすぎない。

 

旧約聖書では、人間は根源的に堕落しているという立場をとらない。アダムとイブが神の命令に背いたことは罪と呼ばれない。この違背が人間を堕落させたとは、どこにも書かれていない。この最初の違背行為こそ、人間が自由を獲得するための第一歩であり、違背は神の御業であったとさえ思われる

 

なぜなら、人間は楽園を追放されたからこそ、自己の歴史をつくり、人間的能力を発達させ、未だ個として自覚のなかった土着的な結びつきに代わり、発達した個人として、人間と自然との新たな調和に到達しうるのである

 

予言者のメシアに関する教えは、たしかに人間は根源的に堕落しているのではなく、主の恩寵による奇跡をまたずに救われうることをほのめかしている。しかし、それは善に向かう可能性が当然勝利を収めるという意味ではない。人間はひとたび悪事を働けば、ますます悪事を重ねるようになる。かくしてファラオ(旧約聖書でイスラエル人を迫害した王の意)は悪事をしつづけたが故に心が硬化し、変心も懺悔も不可能なほどに硬化したと、旧約聖書では善行と同じくらい悪行の例を挙げ、ダビデのような気高い人物でさえ、悪行をした者のリストから除外されてはいない。

 

旧約聖書の見解では、人間には二つの能力(善をなす能力と悪をはたらく能力)があり、善と悪、祝福と呪い、生と死を選択せねばならない。神でさえこの選択には干渉しない。主はその使途である予言者を送り、善を実現させる規律を教え、悪を明らかにし、警告し、選択の助言をする。しかしそれがすむと、人間はそれぞれ善と悪の闘いに取り残され、その決定は人間ひとりですることになる

 

キリスト教の発展は別であった。キリスト教会の発達過程では、アダムの違背は罪と考えられた。事実、それは重罪であり、そのためアダムは堕落し、彼の子孫も堕落した。人間は自分の力で堕落から逃れることは出来ない。そのため主の恩寵による行い、つまり罪人のために死んだキリストの出現により救済され、キリストを信じる人々に救いの手をのべることができた。

 

しかし、原罪の意義について教団内で反対がなかったわけではない。教団内部のルネサンスのヒューマニストたちは、直接攻撃や否定することはできなかったが、その教義を弱めようとしていた。ルネサンスと啓蒙主義後期の思想家たちは、人間に内在する悪は環境の結果にすぎないから、人間に選択の必要はないと主張し、悪を生む環境を変えれば、善が自動的に現れると考えた。この見解はマルクスとその後継者に影響を与えた。人間の善に対する信頼は、ルネサンスと共に始まる驚異的な政治経済の発展により得られた自信の結果である

 

逆に第一次世界大戦始まり、ヒットラーとスターリン、コヴェントリー(第二次世界大戦、爆撃により壊滅)と広島・長崎を経て、世界の滅亡を準備しつつある現在までの先進国の精神的破壊は、ふたたび悪に向かう人間の性向を強調する昔の状態を現出した。この新たな強調は、人間に内在する悪の可能性を軽視しがちなことへの健全な解毒剤となった。だが、余りにも多くの場合、時には彼らの立場を誤解したり歪曲することにより、人間によせる信頼を失っていない人々を嘲笑する結果になりがちである

コメントの投稿

非公開コメント

(=゚ω゚)ノ
blogramのブログランキング
音楽を別ブログにまとめました
♬ (^^♪
過去記事
カテゴリ
はてなブックマーク
このエントリーをはてなブックマークに追加
( `ー´)ノ
おきてがみ
(=゚ω゚)ノ
ブログ村投票
プロフィール

スエスオ

Author:スエスオ
オリジナルのエッセイ・ブログを目指して鋭意更新中

ブログランキング.net