暴力のスペクトル 1、遊びと防衛反応

エーリッヒ・フロム 「悪について」(紀伊国屋書店)より

 

最も正常であり病的でない暴力の形態は遊びの暴力(playful violence)である。暴力が破壊に向かわず、憎悪や破壊性にも動機づけられず、技量を示すために現れるような形態に、われわれは遊びの「激情」を見るのである。その例は、未開種族の戦争ごっこから、スポーツまで広範囲に見受けられる。こういう戦いの勝負では相手を殺すことが目的ではない。実際には無意識の攻撃性と破壊性が、勝負の背後に隠されていることが少なくないが、この形の「激情」の主な動機は技量を示すことであり破壊ではない。もちろん、殺したい気持ちなど全くないと言える場合は、こういった勝負の理想的な形に当てはまる。

 

遊びの暴力より実際的に意味を持つのは、防衛⇔反動的な暴力(reactive violence)である。防衛⇔反動的な暴力とは、自分ないし他人の生命、自由、対面、財産を守るために用いられる「激情」のことである。それは恐れに根差しているので、おそらくもっとも起こる可能性の多い暴力のタイプだろう。その恐れは現実であれ想像であれ、また意識的であれ無意識であれ、このタイプの「激情」は死ではなく生に役立ち、目的とするところは防衛であって破壊ではない。それは全く不合理な「激情」ではなく、ある程度合理的で意識的なものであり、目的と手段の釣り合いがとれている

 

しかしながら、脅迫されているという感情とその結果生じる防衛的「激情」は事実に基づくものではなくて、人間の心理の働きに基づいていることが多い。政治や宗教の指導者は支持者たちに敵が攻撃していると信じ込ませ、防衛的な敵意を主観的な反応に転嫁する。そのようなわけで戦争の正義・不正義の区別は実に疑わしくなる。双方ともに自分の立場は互いの攻撃から身を守るために正当であると巧妙に印象づけるからである。

 

防衛という名を借りない侵略戦争はほとんど例がない防衛を正しく主張したものは誰かという問題のほとんどは、勝者によって決められる。いかなる戦争も防衛の闘いを装うという傾向は、二つの事例を示している。第一に、国民の大多数に、自分たちの生命と財産を守るための闘いであると確信させなければ、殺したり死んだりは出来ないということ。第二に、自分たちは攻撃の危険にさらされているため、防衛のための闘いに参加するのだと思わせるのは、さほど困難ではないということである

このように思い込むのは、たいていは独立した理性と感情を欠いた大多数の人びとが政治の指導者に情緒的に依存しているからである。こうした依存心があれば、プロパガンダで提示されるどのようなことでも真実と受け取られ、脅威と称するものを信じることの結果は実際の脅威と同じ力を持つ。

人々は脅威を受けていると感じると、自分を守るために進んで殺したり破壊したりする。偏執病患者の被害妄想にも同じ無意識のメカニズムを見るが、それは集団ではなく個人であることが違うだけで、どちらの場合も主観的に本人が危険を感じ、攻撃的な反応を示すのである。

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