主体か?客体か?

人々があらかじめ「自分のタイプ」について詳しく知っているのならば「タイプ論」の理解はそれほど難しくないとユングは言う。しかし、私たちは自分の人格について考えるとき、どうしても判断が曇りがちである。

 

個の主観的な判断の「曇り」が頻繁に起こるのは、はっきりしたタイプのいずれにも、そのタイプの一面性を補償しようとする特別な傾向、すなわち心の平衡を保とうとする意味で生物学的に合目的的な傾向が内在しているからである。➡ ユング

 

この補償作用によって、副次的な性格(サブタイプ)が発生するが、このサブタイプを判読するのが難しい。それがあまりに困難なので、どうしてもタイプそのものを否定して、ただ一人一人が異なっているだけだと信じがちである。

 

話を簡単にするために、各タイプをバラバラに記述するのが妥当と思われるかもしれないが、人間は誰でも内向と外向の二つのメカニズムを備えていて、ただどちらか相対的に優位な方がその人のタイプになるに過ぎないのである。

 

内向と外向

二つのタイプの問題は、昔から、深い洞察力をもつ思想家の関心を引いてきた。たとえばゲーテは彼の直観により、収縮(ジストレー)と拡散(ディアストレー)という包括的原理として呈示した。内向や外向に関する名称や概念は実にさまざまであるが、根本的な理解は常に共通である。

 

すなわち、一方には、関心の向きが客体へと向かう場合があり、他方には、関心の向きが客体から離れて主体へと、つまり主体自身の心理過程へと向かう場合があるという理解である

 

➡外向型の場合、客体は主体に対して磁石のような働きをし、主体を引き付け支配する。それどころか、客体は主体者自身を疎外して、主体の性質を客体と同化することによって変えてしまうのである。つまり、客体が主体がより高い意味を持ち、自らの運命に関しては客体が絶対的な力を持つと考えるようになる。

 

これに対して、⇒内向型の場合、主体がいつも関心の的である。それはまるで、究極的にはすべての生命エネルギーが主体を探し求めており、そのために、客体が何らかの意味で強い影響力をもつことを常に妨げているように見える。外向型とは逆に、主体自身が磁石となり、客体のエネルギーすべて引き付けようとしているような印象を受ける。

 

⇒この立場はいかなる時も、自我や心理的な事柄を客観的事柄より上に置こうとする、あるいは客体に対抗しようと努めるものである。この態度が高じると、客体が常に低い価値基準に置かれ、副次的な意味しか持たなくなる。客体は主観的な内容をあらわす記号あるいは、理念が具象化したものにすぎない。大事なのは「理念」であり、客体が感情の対象となった場合でも、重要なのは主体の感情体験であり、客体の個性ではないのである。

 

➡これに対して、外向的立場は主体を客体より下に置き、客体に高い評価を与える。主体はつねに副次的な意味しかもたない。つまり主観的な事柄はしばしば単に客観的な出来事を妨害する余計な添え物としか思われないのである。

 

こうした二つの立場から生まれる心理が、二つの異なった方向に分裂せざるを得ないのは明らかである。一方は何事も自分の見解を視点として見るが、他方は客観的な出来事を視点として見るのである

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