外向的感覚型の無意識

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

いかなる状況でも直接触れることができる現実があれば彼はホッとする。そしてこの点に関して、彼は奇妙なほど疑いを持たない。心因性の症状があっても彼はそれを天気のせいにする。それに異を唱えたとしても、彼には病的な空想と思われてしまう。彼の愛が客体の感性的刺激に基づくことは疑う余地がない。正常である限り彼は与えられた現実に「常に、目に見えるほどに」順応している。

 

彼は理念的な理想を持たないので、現実に対して冷淡な態度をとることはない。彼の理想は事実に即すことであり、このことは彼のあらゆる外見に表れている。彼は分相応のよい身なりをするし、彼の許へ行けばうまい食事と飲み物にありつけてくつろげる。少なくとも彼のように洗練された人であれば、周囲に多少の要求をしても仕方ないと思わせるものを持っている

 

ところがこの傾向が度を超すと、彼の個性が感覚の陰に隠れてしまい、周囲にとって好ましくない存在になる。彼は野卑な音楽家、あたりかまわぬ過飾の耽美主義者となり、彼にとって無くてはならないはずの客体は非常な暴行を受け消費され、価値を剥奪される。この場合の客体は、もはや感覚をもたらすきっかけに使われるものにすぎなくなる。

客体との結びつきが極端にまで進むと、無意識の側が補償的な役割を捨てて公然と反抗を始める。なかでも彼の抑圧された未熟な「直観」が、客体への「投影」という形をとって動き始める。

すなわちきわめて珍妙な憶測が生まれ、性的な対象に対しては嫉妬や不安感情、より深刻な場合はあらゆる恐怖症、強迫症状が現れる。こうした病的内容は、彼の未熟な精神世界を反映して、著しく「非現実的」な性格をもち、道徳的で宗教的な色彩を帯びていることがよくある。

ごまかしの屁理屈小心な道徳心、そして煩雑な儀式に頼る「呪術的」な宗教心が現れてくるが、これらはすべて抑圧された未分化な機能に由来するものである。このような機能は意識に対し鋭く対立し、病的で馬鹿げた前提に基づくために、極端に原始的な現れ方をする。すなわち、

詭弁詮索好きになり、道徳心は味気ないお説教これ見よがしの偽善となり、宗教は迷信になり、人間の高貴な才能である「直観力」はあれこれ詮索することにのみ使われ、広い世界を知ることではなく、あまりにも狭い人間的小事に向けるようになる。

独特な強迫的心理は、感覚に特化した構えが、道徳的な歯止めを持たないことに対する無意識的な反作用である。そして、意識化されていない分だけ分別に欠け、現れてくるものを無差別に受け入れる傾向を持つ。このタイプは、法則や制限が絶対的に欠けているというものでもないが、意識的判断による本質的な制限というものが、確かに欠落している。

合理的判断とは一種の意識的な強制を意味するものであり、合理的タイプ(思考、感情)は自らにこれを進んで課しているが、感覚型の場合、この強制は無意識の中から襲ってくる。さらに合理的タイプに見られる客体との結びつきは、判断が存在することによって、感覚型が’客体に対して持つような無制約的な関係にはならない

それゆえ、感覚型の構えが異常に一面化すると、客体に依存している分に比例して、無意識の手中に陥る危険性がある。そのため、感覚型がいったん神経症になると、理性に訴えかける方法で治療することが困難になる。医師の働きかけに答えるための機能が充分発達していないので、彼にあることを意識させるためには、感情を揺さぶる強制手段が必要となることもしばしばである。

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