主観と客観の対極図

科学者としての私は、迷信を拒絶します。しかし、釣り人としての私はゲンを担ぎます」。➡ ジェレミー・ウェイド、アニマルプラネット<怪物魚を追え!>より

 

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

「主観的」という言葉には時に非難の意味が込められたり、「主観的に過ぎない」という形で、客体の絶対的優位性を認めようとしない人を狙う武器として用いられるが、このことは、

私たちの時代が、外向的な評価に偏っていることを示している。

 

主観的要因は、客体の作用と融合して新しい心的状況を作り出してゆく心理的な働きである。主観的要因は人類の黎明期から、あらゆる民族においてほとんど変わることはなく、この意味において

 

主観的要因は、外的な客体と同様に確固とした基盤を持つ現実である。もしそうでなければ、永続的で本質的に変わらない現実があるなどということは言えなくなるし、過去から伝承されたものを理解することも不可能である

 

主観的要因は海の面積や地球の半径と同様の確固とした事実であり、絶対に無視のできないものである。しかしながら、客体や客観的事実には減衰や偶然性がつきものであり、いつまでも同一の状態に留まっていることがないように、主観的要因も、移ろいやすい個人的な偶然性に影響される。したがって、

主観的要因の価値も相対的なものでしかない。すなわち、

意識の中で内向的な立場が過度に発達すると、主観的要因を適切に扱えなくなり、意識が不自然に主体化される。こうした状態は「主観的に過ぎない」。という正当な批判を免れることが出来ない。こうして、不当に抑圧された外向的な構えの反撃を受け、「意識の非主体化」➡ 「自己否定的」な事態を生じる。

 

内向的な構えの健全な状態は、心理的適応という人間として不可避の条件であり、それゆえ<自己愛的><自己中心的>などの評価は適当ではない。なぜならこのような表現は、内向的な人が、いつも自分だけを愛しているという偏見を生むからである。ところが、外向型の人の内向型の人に関する判断を見ると、そうした見方に出会うことが多い。

 

そうであっても、このような誤りを、外向型の人々個人に帰することは出来ない。むしろそれは、現在一般に通用している外向的な見方のせいである。

さらに内向型は、(同調圧力により)自分に逆らってまで、外向的な見方を是認させられたうえ、「自分自身に忠実でない」などという、もっともらしい非難まで浴びせられることになる。そして外向型の人間に、同様な非難が向かうことはまずない。

 

内向的な傾向は、原則として遺伝的に与えられた生物学的特質である。そのため、この心的構造は主体の自我(顕在意識)と同一視してはならない。そもそも自我が発達する以前から存在する、心的構造である。この奥底に存在する主体、<自己>は、自我よりもはるかに広大である。

<自己>が無意識を内包しているのに対し、自我は本質的には(顕在)意識の中心点でしかない

 

もし自我が自己と同じものだとすれば、夢の中での自分が現実とは全く異なる姿形であらわれたり、自分の人生と全く異なる経験をしたりすることの説明がつかない。

 

こうして、周りの偏見のせいだけではなく自分自身の性向のために、自分の自我と自己を混同し、自我を心的過程の中心に祭り上げてしまう。そのようにして、意識は<病的な主体化>に陥り、客体と隔絶する。客体との断絶は、まさに内向型の人にありがちな特徴である。

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