虚ろな世代

魂はどうなるのですか?」

魂って・・・お前何言ってんの」。

■Brave New World Trailer

 

現代文明は、人々が孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人々は、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかれない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することが出来ないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐそれを他人と交換したりして、孤独を紛らわそうとする。

 

現代人は、オルダス・ハクスリーが「素晴らしき世界」で描いているような人間像に近い。旨いものをたっぷりと食べ、きれいな服を着て、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく、ハクスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに導かれて生きている。

 

個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に伸ばすな」あるいは最高のスローガン「昨日は誰もが幸福だ」。

 

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込むみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ大きな酒瓶大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。今や私たちのキャラクターは、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。

 

必然的に、愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。ロボットは愛することが出来ない。現代人は「商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む。愛の、特にこのような疎外された構造を持つ結婚の、もっとも重要な現れのひとつが「チーム」という観点である。幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は滞りなく役目を果たす労働者という考えと大して違わない

 

そうしたチームは「適当に独立して」おり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。同じようにカウンセラーは言う。夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理を誉めなくてはいけない。一方妻の方は、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときは優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときは心を込めて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。

 

こうした関係を続けていると、二人の間がぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言い合うだけの関係にとどまる。

 

愛と結婚に関するこうした考え方では、耐え難い孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは愛のなかに、ついに孤独感からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の表現だと誤解されている

 

第一次大戦後の数年間は、性的満足が愛情関係の土台であるという考えが流行した。不幸な結婚の原因は「性的適応」がなされなかったことであり、この誤りを「治療」するために多くの本が出版された。正しい「技術」を身につけることにより、幸福と愛が生まれると暗黙のうちに、あるいは公然と約束したのである。

 

こうした発想の底にあるのは、愛は性的欲求から生まれる子どもであり、二人の人間が「技術」を身につけさえすれば、自然に二人は愛し合うようになる、という考え方だ。こうした考えは、当時の一般的な幻想、すなわち、正しい技術を用いさえすれば、工業生産のみならず人間全般の問題も解決できる、という思い込みと一致していた。彼らは「逆は必ずしも真ならず」ということを考えなかったのである。

 

このような「精神的流行」は当時の人々がフロイトの影響下にあったことを物語っている。フロイトは、愛は基本的に性的現象であり、性器的な愛がもっとも強い満足を与えるから、性的な愛が幸福の原型だと確信できた人は、性的な関係を求め、性的な愛を人生の中心に据えるようになると考えた。

 

フロイトは兄弟愛(人類愛)についても、性的本能の「目的を抑制された」衝動が変化したものだと考えた。フロイトの理論ではどんな形の愛であっても、本来は純粋に「性愛」であり、それは無意識の中にあって、永遠に「官能的な愛」なのである。

 

神秘体験の本質にある、一人あるいは複数の人間との強力な融合体験とか一体感について、フロイトはどちらかというと、病的な現象⇨ 幼児期の「無限のナルシシズム」状態への退行と解釈している。フロイトにとっては、共依存的な愛と成熟した愛との間に違いはない。恋に落ちるということは、ほとんど異常であり、必ず現実が見えなくなり、強迫的であり、幼児期の愛の対象が転移したというものだ。

 

成熟の最高の達成としての愛は、フロイトにとっては研究の対象にならなかった。彼にとって、そのようなものは存在しないと考えられていたからだ。

⇨ エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊國屋書店より

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