無垢である勇気

あまり利口でない人たちは、一般に自分の及び得ない事柄についてはなんでもけなす。⇨ ラ・ロシュフーコー

 

映画「クロコダイル・ダンディー」(1986年)よりエンディング

 

人は皆、何かを恐れています。とくに若いときは誰しも、まちがえたり失敗したくはないものです。そこで、もし自分が規範とし、その指示に従えるような人物がいるなら、どうすればよいかと耳を傾けるだろうし、それによって(自分で判断しなくても)目標や目的に至るはずだと考えるのです。

私たちはたいてい敬われたいのです。だからこそ正しいことをしたいし、正しい行為を模範としたいのです。でも、そのことを深く突き詰めるなら、それが恐怖の兆候にほかならないことがわかるでしょう。失敗してみたらどうですか。発見してみたらどうでしょう。ところが恐れている人はいつも、

正しいことをしなくては。人から立派に見られなくては。あいつは何者だとか、とるにたりないやつだなんて世間からばかにされてはならないなどと考えるのです。そういう人は実際、根底から怯えきっているのです。⇨ クリシュナムルティ―

 

喜びを経験するためには、勢いに身をまかせて感情を表現することに対する不安から自由でなければならない。あるいは、言い換えるならば、子どものように楽天的で無邪気でなければならない。ナルシシストは楽天的でもなければ無邪気でもない。彼らは、パワーゲームを演じること、人を誘惑すること、人を操縦することを覚えてしまっている。彼らはつねに、

人が自分をどう見ているか、人が自分にどう反応するかを考えている。また彼らは、コントロールの喪失は狂気の不安を呼び起こすという理由で、自分がコントロール出来る枠内にとどまらなければならない

不幸なことに、われわれはあまりに早く無邪気さを失ってしまうし、きわめて不幸なことには、それを失ったことを自慢に思ったりする

われわれは無邪気でありたいとは思わない。なぜかというと、もしそうだとすれば、嘲られたり傷つけられたりするままになっていなければならないからである

だからわれわれは(嘲られたり傷つけられても、平然としていられる独立性を獲得するよりも)⇒  世間慣れした人間になりたいと願う。(あるいは権力を得たいと考える)。そうなれば、優越感を感じることが出来るからである。⇨ アレクサンダー・ローウェン

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