まとまりのない生活

あの頃はみんな、少し頭がおかしかったのよ

⇨ ペネロープ・ガルシア「クリミナルマインド」

■19-2000:Gorillaz

 

技術の修練には規律が必要である。だが、現代人にとって規律を身につけるなど朝飯前だと人は言うだろう。現代人は規則正しく8時間働き、決められた仕事に従事しているではないか、と。しかし実際には、ひとたび仕事を離れると、現代人はほとんど自制心をもたない。

 

働いていないときは、だらだら怠けていたいと思っている。怠けたいという願望は、厳格な仕事に対する反動である。自分の意思ではなく、仕事のリズムによってエネルギーを使うことを強いられているため、彼は反逆する。そしてその反逆は自分を甘やかすという子どもっぽい形をとる。

 

それだけでなく、現代人は権威主義と闘ってきたので、あらゆる規則に対し不信感を持っている。権威が課す不合理な規律だけでなく、理に適った自律的な規律に対しても、不信の念を抱いている。しかし、そうした規律までもが失われれば、人生は混乱し、まとまりを失って破壊されるだろう。

 

集中が技術の修練に必要なことは、何かの技術を学ぼうとしたことのある人には周知の事実だろう。ところが現代社会では、集中は規律以上にまれにしか見られない。現代社会は、過去のどんな時代にも見られないような、まとまりを欠いた散漫な生活を助長している。

 

誰もが一度にたくさんのことをする。本を読み、音楽を聴き、おしゃべりをし、タバコを吸い、食事をして、酒を飲む。誰もみな大きな口を開けて、絵だろうと、酒だろうと、知識だろうと、なんでもかんでも必死に呑み込もうとしている。この集中の欠如を如実に示しているのが、一人でいられないという事実だ。ほとんどの人が、おしゃべりもせず、タバコも吸わず、本も読まず、酒も飲まずに、じっと座っていることが出来ない。

 

物事の達成には忍耐が必要ということも、やはり一度でも何かの技術を身につけようとしたことのある人なら知っているはずだ。とはいえ現代人にとって忍耐は、規律や集中力と同じく会得するのが難しい。現代の産業システムは全体が忍耐とは正反対のもの、すなわち速さを求めている。機械はすべて速さを第一条件にしている。同じ量の製品を半分の時間で作る機械は、古くて遅い機械の2倍良いとされる。

 

人間の価値は他の多くの価値と同じく、経済的価値によって決められる。機械にとって良いことは、人間にとってもよいだろうという理屈だ。そのため現代人は素早くやらないと、なんだか落ち着かない。何かを、つまり時間をムダにしているような気分になるのだ。ところがそうやって稼いだ時間で何をしていいか分からず、結局ムダに浪費してしまう。

⇨ エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店より

微弱なる侍の電流

勇気があるというのは、無条件に誰かを愛すること。見返りを求めたりしないで」。➡ マドンナ

 

映画「蜩ノ記」予告編

 

僕の年代で言うと

学校教育というのは間違った侍教育でした。

そうして士官学校などは人工的にというか

意識的にサムライを造ろうとしました。

全部間違いでした。

 

侍というのは自分に対する責任感だけですから。

国家をどうこうして国家を改変して

国家を自分の自由にして走り回って

そういうふうにするのが侍だというのではなくて

何か自分が悪いことしたと思ったら

理想的に言えばその場で腹を切ってる

(責任を担う能力がある)のが侍でしょ?

 

ですからそういうものはもう一度

回復することは難しいんですけど・・・。

しかし理想として日本人はそれを持ってないと

やっぱり格好悪いですよ

我々なにも規範というものがないんですから。

やたらと技術大国になって

やたらとお金を持ってる国になったんですから。

格好悪いですよね

それを持ってないと。ですから

 

みなさんそれぞれ持ってるんですよね。

そのそれぞれの侍で行かなければ

解釈は人によって違っても大体持ってますよ

その微弱なる(侍の)電流を。

微弱なる電流をもうちょっと強くした方が

いいんじゃないかと・・・。別にそれが

明治維新を起こしたりするような

変なエネルギーにならないようにね

自律的な意味での微弱なる電流を

持ってた方がいいんじゃないかと思いますですね。

➡ 司馬遼太郎「太郎の国の物語」侍の終焉より

善きサマリア人

無力な者や貧しい者やよそ者に対する愛こそが、兄弟愛の始まりである。身内を愛することは別に偉いことではない。動物だって子供を愛し、世話をする。自分の役に立たない者を愛するときに、はじめて愛は開花する。聖書において、人間がおもに愛するのは貧乏人、よそ者、寡婦、孤児、そして国の敵であるエジプト人やソドム人である

➡ エーリッヒ・フロム

 

映画「七人の侍」予告編

 

大変な話題でした、アメリカでは。

はじめて日本人(日米修好通商条約使節団)見るんですから。

未知の世界から来た人、違う文明をもった人。それを見るために新聞

も雑誌も大騒ぎでした。ワシントン市内郊外含めて、4分の3くらいが

留守だったそうですよ。それぐらいの人が沿道に出てきたわけです。

 

そのニューヨークの広小路、ブロードウェイで彼らが行進するのを盛

り上がって見ていたんですけど、ホイットマンも見ていたんですね。

彼は非常に感動して「ブロードウェイの行進」という、いい詩を書い

てますよ。

 

西の海を越えて 今ニッポンからやってきた

礼儀正しく 日に焼けた頬の 二本の刀を携えた使節たちが

覆いのない馬車に ゆったりと身を委ね

帽子は被らず 平然と何物にも動じる気配なく

今日 マンハッタンの町を 馬車に任せて進む

私たちの処へ 私の町へ 美しくそそり立つ

大理石と鉄の建物が向かい合う その間の空間を人々が歩く町に

今日私たちの真裏から 対極の人々が訪れた

 

いくつかの印象的な言葉を拾ってみますと

「感慨深げな黙想」「情熱を秘めている」大変な褒め方ですね。

「真摯な魂が目を輝かせている」とかですね、

「香りの高いゆったりとした流れるような衣服を着ている」とか、

 

ホイットマンは感動的に書いてくれているんですが、この感動的な光景というのは、もう帰らぬ一枚の絵であって、我々の民族も、もうそれを失うわけで。

 

当時、気品があって礼儀正しくて、挙措動作(きょそどうさ)が実にちゃんとしているのは、京都の公家社会から生まれたものではなくて江戸の山の手から生まれたと私は思ってるんですけど。高級な旗本、中級以上の旗本社会というのは実に立派なものでした。

 

ただ実質は別ですよ。頭の中身は大したことない人物でした。村垣という副使もですね、陳腐な陳腐な文章が書けるだけの人です。ただ、小栗だけは違ってました。当時、井伊直弼が大老で小栗はそ実質的な代理として存在してました。

 

正使でも村垣でも、別に能力を期待されたわけではなくて、江戸幕府というものは本人の能力にほとんど期待しないという。これが太平の世というものなんですが・・・。

 

勝海舟がアメリカから帰って、江戸城に呼ばれて、ずらっと老中が並んで海舟に、「かの国と我が国の違いは何か?」尋ねると海舟は、

(=゚ω゚)ノ  「アメリカという国は、重い位にいる人はみな、それ相応に賢いです。日本とは全然違います」と。

 

要するに<お前らはみな、ボンクラだ>というわけで、万座興ざめたそうですけど。海舟はこういうことを言って職から遠ざけられるのですけれども。

 

攘夷志士として海舟を殺そうとして、海舟に会った途端に転向して門人になってしまった坂本龍馬が海舟に、

(゚Д゚)ノ 「ワシントン初代大統領の、ご子孫はどうなさっておいでですか?」と聞くと海舟は、

 

( `ー´)ノ 「何処でどうしているか、そんなことは知らない。そんなことは、どうでもいいことなんだ」。

(゚Д゚)ノ 「では、大統領という人は平素どのようなことを考えているのでしょうか?」

 

( `ー´)ノ 「皆の給料が上手く払われているか、下働きの女性の給料がきちんと支払われているかというようなことを考えている」。

(゚Д゚)ノ 「・・・・・」。

 

というようなことを、まあ、龍馬もまだ若かったんで、話したらしいんです。坂本龍馬はこのときに革命家になったといってもいいでしょうね。

 

海舟という人はですね、幕府を愛していました。自分の「お里」ですから当然愛します。しかし同時に、門閥・身分制、封建制を憎むこと甚だしかったんです

➡ 司馬遼太郎「太郎の国の物語」ブロードウェイの行進より

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