FC2ブログ

日本的ナルシシズム

■NHKスペシャル「太郎の国の物語」侍の終焉+■ETV特集・シリーズ・司馬遼太郎の遺産、第3回:この国の行く末~「二十一世紀に生きる君たちへ」(1996年4月3日放送)より抜粋

 

現代ビジネス/2019年5月16日:なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか(堀有伸・精神科医) より

日本的ナルシシズム

しかし震災後8年が経過し、関係者がさまざまな努力を積み重ねてきた甲斐があり、この妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安は、かなり改善してきた印象も持っています。そこで、今回の論考で重視したいのは、クライン派の理論における乳幼児的な二つの不安の残りの一つ、抑うつポジションにおける抑うつ的な不安です。

 

妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安に巻き込まれた乳幼児は、やがて自分が破壊的な言動を行ったことが母親に与えたダメ-ジの大きさに気がつきます。その時には、自分が大切なものを失ってしまったことについての罪悪感や後悔、悲しみを経験します。

 

同時に、自分が攻撃性を向けた母親が生き残ってくれたことの喜びと感謝、自分の攻撃性の影響に限度があることへの安堵が生じます。この段階を超えて先に進むことで、一貫した責任を負うことができるような成人の心の成立に近づくことができます。

 

原発事故における被害について、先に述べたような数字を用いての現実的な評価を行えないのは、日本社会が無意識の心理において、この抑うつ的な不安を乗り越えることができていないからではないでしょうか。抑うつ的な不安は、成人では、自分の失敗によって「貧乏になってしまった」「富を失ってしまった」という情緒的な感覚とも親和性が高いものです。20年ほど前ならば、日本が経済大国であることを疑う人はいなかったでしょう。

 

しかしその後、原発事故などを通じて、その地位は大きく揺らがされることになりました。経済力が失われたこと・失われつつあることを直視することが引き起こす不安に耐えられず、そのために現実的な対応ができなくなっている心理状態として、近年の日本人の心理状況を解釈することができるかもしれません。

 

そのような不安を回避するために弱い人間がすがってしまう心理的なズルが、「躁的防衛」と呼ばれる心の動きです。自分が引き起こしてしまった損害について、それを償えない、治せないという絶望的な悲哀の感情を持ちこたえることができない時に起ります。自分が傷つけた対象についての価値下げが行われます。

 

自分が相手より優位に立っているかのように思ったり、実際にそのように振る舞うことで、失敗を認めて落ち込んだり、大事なものを失った悲しみにとらわれることから自分を守ろうとします

 

そしてこの躁的防衛ばかりをくり返し抑うつ的な不安を味わえなくなっている現代日本社会の心理状況のことを「日本的ナルシシズム」と名指して考察の対象といたしました。

 

先に進むためには、「日本的ナルシシズム」に耽溺していたい誘惑を超え、抑うつ不安を自分の心の中に抱えて味わい、それを一つの個としての心の全体性の中に統合していくプロセスが必要なのです

原発事故後の日本社会

■ETV特集 シリーズ「司馬遼太郎の遺産」 第3回 「この国の行く末~現代日本への遺言~」より「二十一世紀に生きる君たちへ」(1996年4月3日放送)より抜粋:山折哲雄×田中直毅(対談)

 

現代ビジネス/2019年5月16日:なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか(堀有伸・精神科医) より

戦後と原発事故後の日本社会

私は、全体主義的な社会から民主主義的な社会への移行のためには、深層心理における「他者との融合的な関わり方」が解消されて、一貫した個人としての責任を担える、独立した主体としての意識のあり方が確立されることが不可欠だったと考えます

 

精神分析の用語を使うならば、社会のメンバーのために、自我機能を適切に機能させるための仕組みが確立されていることが、民主主義的な社会を作るための前提です。しかし、戦後の日本では、そのような心理構造の奥深くに達すような改変が必要であることは多くの場合に理解されず、心理的な「他者との融合的な関わり方」を重視したままで、その融合的な場で「民主主義」や「基本的な人権」の題目が語られるという奇妙な事態が生じました。

 

語られる言葉は反権威のような内容でリベラル風の雰囲気であるものの、その内部運営のあり方は全く民主的ではなく、権威主義的だったりカリスマ的な指導者への心理的な融合を求めたりするような組織や集団が、戦後の日本には頻繁に出現しました。ただしこれは日本において深刻であるものの、いわゆる先進的な西欧の諸国でも認められる状況のようです。この事態への不満が、近年の世界的な潮流における保守派の勢力拡大の一因だと感じています。

 

「他者との融合的な関わり方」を求める傾向が強いことは、乳幼児的な「母子一体感」の境地が成人になっても色濃く残っていることを意味しています。私の考察が依拠しているクライン派の精神分析理論では、分離を試みることで二種類の乳幼児的な不安が刺激されることに耐えられなくなってしまうことを指摘しています。

 

一つは、妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安です。大雑把には、加害や復讐といったテーマを巡る被害感情や強い敵意や攻撃性が刺激されるような心理状態です。自力で生存する力を持たず、生存を全面的に母親的な存在に依存する乳幼児は、「母の不在」という事態に強烈な欲求不満を覚えます。そこで生じる強い母への怒りや攻撃性は、乳幼児の心を圧倒するほどに強まります。今度は、強まり過ぎた自分の敵対的な感情も、不安の原因となります。無意識的な空想では、「自分が誰かを攻撃する」のは容易に「自分が誰かに攻撃される」に反転します

 

これは、自分が抱えていた強い攻撃性を他者に投影できることを意味するので、少し気持ちは楽になる部分もあるのですが、今度は敵意を帯びた他者に囲まれて迫害されるのではないかという不安にさいなまれるようになります。原発事故後の日本社会はある側面で、無意識的なこの妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安が高まっていたとも言えます。そこでは、日本社会についての理想化とこきおろしの意識の分裂も生じました。

 

集団がこのような心理状態の中にある時に、そこに属するメンバーの緊張感と警戒心は高まり、交感神経優位の「戦うか逃げ出すか」といった行動の選択が優勢になります。放射線についての議論が感情的なものになっている時には、この妄想分裂ポジションへの心理的退行が起きていることが多いようです。

思考停止の理由

■ETV特集 シリーズ「司馬遼太郎の遺産」 第1回 「歴史からの視線~日本人は何ものか~」(1996年4月1日放送 44分)より抜粋


 

■現代ビジネス/2019年5月16日:なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか(堀有伸・精神科医) より

 

本来ならば、ここで原発についての現実的な議論に進みたいところです。しかし私にはそこを科学的に論じるための専門的な知識や経験はありません。

 

その代わりに、他の部分では妥当性のある行動を取ることもできる日本人が、なぜここで全くの思考停止に陥ってしまうのかを、深層心理にまでさかのぼって考察したいと思います。そうするのは、自分の持てる能力を用いて、日本社会が危機的な状況を乗り越えることに貢献したいと願っているからです。

 

原子力発電は国策として行われてきました。そして、日本人にとっての「国」、つまり日本をめぐる表象群は、他国以上に強烈な無意識のコンプレックスを形成しています。国策の是非を論じることは、このコンプレックスが刺激されることであり、その際には意識的な統制を失った言動が現れやすくなります。

 

それを避けるために、なるべくこの主題に触れないようにして自分の心を守ろうとする反応が出現することも、珍しくはありません。この無意識のコンプレックスに私は「日本的ナルシシズム」と名前をつけ、考察を積み重ねてきました。その根本は、重要な他者への「融合的な関わり方」です。

 

日本の組織では、独立した個人が、それぞれの個性基本的人権尊重しながら構築していく関係性が組織運営の基盤にはなっていません でした。その代わりに、組織への心理的な融合が強く求められたのです。

 

組織への批判的な発言を行うことは、組織の活動に「水を差す」行為であると忌避されます。明確に言葉で表現されたルールや契約はその価値を軽んじられやすく、その代わりに、全体の空気や相手の意向を忖度して行動する技術の洗練が求められるようになっていきます。

 

そしてやがて、組織内部の感情的な一体感を、理論的な考察よりも重視する人間でなければ、組織における重要な地位を与えられないようになります。このようにして、ほとんどの日本の重要な組織が外部の世界の変化に対応できなくなり、多くのものが失われたのが平成の日本社会だったのかもしれません

日本人の道徳と共同体

 

★現代ビジネス/2019年5月16日:なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか(堀有伸・精神科医) より

精神科医の仕事をしていると、先に述べたような抑うつ的な不安、つまり重要な存在を失ったことによる悲しみや怒り、罪悪感を受け止めてくれる場が失われていることを痛感します。つまり、そういう心情を吐露しようとしても、多くの場合に無視される訳です。情緒的な一体感に水を差すものは忌避されます

 

それとは逆に、明るく前向きな姿勢を示すことが好まれ、注目を集めます。これが、「日本的ナルシシズム」が存続し、次第に強化されていくメカニズムです。「明るく華やかで前向きに」している限りでは人が集まってきますが、ちょっとでも弱みを見せれば、孤立しかねなません。

 

なぜ日本人にとっての自我の確立は難しく、周囲との融合的なかかわり方ばかりが維持・継続されてしまうのでしょうか。それは日本社会に生きる上で、近しい人々とのズルズルベッタリした関係を断ち切って自己主張をすることは理解されがたく、それとは反対に、融合的なかかわりに留まることで周囲からの報酬を何らかの形で与えられる可能性が高かったからだと考えます。

 

前者は激しく価値下げされますが、後者は理想化されます

 

■「他の人から注目される行為は、増えていく」逆に「他の人から無視される行為は減っていく」という原則⇨ 現在の日本人は全体として、「自己主張を行う人間は無視し、報酬を与えないように気をつける」「自分を抑えて空気を読んで黙々と行動する人間を丁重に扱う」という道徳を共有し、それをお互いに強化するような共同体になっているのではないか、と考えるようになりました。(「問題行動をくり返す人の治療に役立つ『シンプルな方法』」という小論)

 

★現代ビジネス/2018年2月27日:自分に不都合な現実をみとめない人々(堀有伸・精神科医) より

筆者が「日本的ナルシシズム」という言葉を強調するようになったきっかけがある。

 

それは、うつ病などの症状が出現しているのにもかかわらず、決して自分の心身の異常という現実をみとめようとせず、逆にそれを指摘する筆者のことを、激しく軽蔑して攻撃するような姿勢をみせた患者や会社にくり返し出会ったことだ。結果としてうつ病が慢性化して難治化することがあり、時には自殺などの事故の可能性を高めてしまう。

 

そのようなパーソナリティーの成立には、東京電力のような日本型企業における、1940年体制のシステムで価値が高いとされた健康や献身・忠実などの価値観への過剰な同一化と、そうでない弱さ・不健康といった人間的な側面についての否認と憎悪が大きな影響を与えている。

 

その価値観を奉じる企業に同一化しなければ、その組織内で生き残ることができないのだとしたら、それに適応せざるを得ないだろう。そして、それに過剰適応した者が、有利な結果を得やすい日本社会の状況が、数十年間持続していた結果として、2011年の原子力発電所事故が発生したと考えている。

悪の凡庸さ

エーリッヒ・フロム「生きるということ」1977年第一刷発行/紀伊国屋書店

アイヒマンは官僚の極端な一例であった。アイヒマンが数十万のユダヤ人を殺したのは、彼らを憎んだからではなかった。彼は誰も憎まず誰も愛さなかった。アイヒマンは「義務を果たした」のだ。彼はユダヤ人を殺したとき、義務に忠実であった。彼はただユダヤ人のドイツ国外追放の促進のみを命じられたときにも、同じように義務に忠実であった。彼にとって大切なことは、ただ規則を守ることだけであった。彼は規則に背いたときにのみ、罪悪感を覚えた

メニンロード

彼の陳述によれば、彼が罪悪感を覚えたのは二つの点だけであった。すなわち、子供のころずる休みをしたことと、空襲のときに避難命令に背いたことだった。

このことはアイヒマンやほかの多くの官僚にサディズムの要素、すなわちほかの生き物を支配する満足感がなかったことを、含意しているわけではない。しかしこのサディズムの傾向は、官僚の持つ一義的要素である人間的反応の欠如と規制の崇拝に比べると、二義的であるにすぎない。

私はすべての官僚がアイヒマンであるとは言っていない。第一に、官僚制の中に地位を占める人間の多くは、性格学的な意味では官僚ではない。第二に、多くの場合、官僚的態度がその人物のすべてを支配し、彼もしくは彼女の人間的な面を殺してしまうまでには、至っていない。しかし官僚の中には多くのアイヒマンがいる

針金

そしてただ一つの違いは、彼らが数千人の人々を殺さなくてもよかったということである。しかし、病院の管理者が、規則では医者が患者を送り込むことになっているからといって、危篤の病人を拒んだとすれば、その管理者の行為はアイヒマンのしたこととまったく変わらない。また官僚制の規則を破るくらいなら、保護すべき人を飢え死にさせようと決心する福祉相談員も同じである

官僚的態度は管理者にのみ存在するものではない。それは医者、看護士、教師、大学教授、妻との関係における多くの夫、また子供との関係における多くの親にも存在する。

記事分類
令和元年6月時事解説
第43回NSP時局ならびに日本再生戦略講演会
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
リンク
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
BlogPeople
投票ボタン ☟
*
ブログ村投票
プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中