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ユング「故郷スイスでは注目されず 」



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宝とは人間の魂



アンソニー・スティーヴンズ「ユング」講談社選書メチエ より

大いなる秘密は、私たちの人生における何か本質的なものとして具現化する。それで私たちは、年齢に敗れることなく、威厳意味をたずさえて前進することができ、終わりが近づけば「生命とともに死ぬ」覚悟ができる。なぜなら老年の目標は老衰ではなく叡知なのだから。


ユングが晩年に見せた、円熟生産的活発さとなったのは、二度目の「創造の病」だった。1944年のはじめ、六十八歳のユングは心筋梗塞で死の一歩手前までいった。彼は病院のベッドで臨死体験をし、地上から何千キロも離れた宇宙から地球を見下ろした。


彼は自分が世界から離れていくのを感じ、医師が彼を生き返らせたときには憤慨した。とはいえ、彼は完全に回復し、著作に没頭した。以後十七年間、著作が他の一切の活動に優先した。


病によって人格No.1からNo.2への移行が促進されたようだった。彼は二つの夢によってその確信を得た。彼は最初の夢の中で、蓮華座で深く瞑想に耽っているヨーガ行者を見た。


ユングは、その行者がユング自身の顔をしているのに気づき、びっくりして目が覚めた。「そうか、あの男が私を瞑想しているのだ。彼は夢を見ている。その夢が私なのだ」とユングがは考えた。


ずっと後でみたもう一つの夢では、彼は、旧式の幻灯機みたいな形をした未知の飛行物体の投影だった。彼はこれらの夢を、次のようなことを語ろうとしているのだと解釈した。


無意識こそが経験的人格の発生源であり、<自己(セルフ)>は三次元の現実に入ってくるために人間の姿をとるのだ、と。八十二歳になったユングはこう書いている。


結局のところ、私の人生の中で話に値する出来事は、不滅の世界がこのつかの間の世界に侵入したときの出来事だけである。そうした内的な出来事に比べると、旅や人々や周囲についての他の記憶はすべて色あせてしまった。


だが「もう一つの」現実との出会い、すなわち無意識との勝負は、私の記憶にしっかりと刻まれ、消えることはない。その領域にはいつでも富が溢れていたので、それと比べて、他のものはすべて重要性を失ってしまった。『自伝』

求められる「新しい解釈」


高橋和巳「人は変われる」三五館 より

私たちは30歳ぐらいになるまでに、大人としての世界と自分についての解釈を獲得し、安定した人生を送れるようになる。その解釈は私たちがこの社会で生きていくのに不可欠のものである。


だからこそ、私たちは生まれてから長い年月をかけてそれを育ててきたのである。しかし、40歳、50歳になったとき。その解釈は少々古くなり始めている。


この年代になったとき、私たちは自分の人生が後半部分に入ったことを自覚させられる。それは、体力の衰えや視力の低下といった身体の変化のためだけではない。もっとも大きな変化は、私たちの人生全体の時間に対する感覚が変わってくることである。


40歳ごろまでは自分の人生の時間は無限にあると思っていたが、後半を自覚したとき、私たちは自分の時間が死という事実で制限されていることに気づく。そして、その時間は毎日の日常生活の刻一刻の時間と連続しているのである。この単純な事実を自覚したとき、私たちのこころは死を見つめ始める。


心が死を見つめ始めたとき、こころは自然に、その事実を正確に理解し、解釈しようと動き始める


しかし、私たちがそれまで培ってきた古い解釈で死は理解できない。なぜなら、古い解釈は、社会に適応するために作り上げてきた「大人になるための解釈」であるからだ。


それは、社会で生きてゆくための解釈であり、より効率的に過ごすための解釈であった。そこでは、社会がいつまで続くのかや、自分がいつまで存在するかといったことは前提となってはいなかった。


そこでは、死は避けるべきものとしてだけ解釈された。「大人になるための解釈」を作り上げ、適応を果たして安定した私たちは、いま持っている解釈でも、とりあえずは事足りている。そのままでも、毎日を送るのに困りはしない


しかし、死という事実を含んだ人生の後半部分を真剣に考えようとするとき、とりあえずの毎日の生活だけに満足して、その先の自分の人生を考えないわけにはいかないであろう。


また、たとえ死を正面から考えようとしなくても、この生活の先には確実な死があると思うならば、いつのまにかその思いは、私たちの毎日の生き方に影響を与えているはずである。

「ありのままで」という欲求

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より

現代社会においては、持つ存在様式は人間性に根差していて、それゆえ事実上変えることは出来ないとされている


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同じ考え方を表現するのが、人々は根本的に怠惰であり、生まれつき受動的であり、物質的利益や、飢えや、罰の恐怖という刺激駆り立てられなければ、仕事もそれ以外の何事もすることを望まない、という定説である。この定説を疑う者はほとんどなく、これが私たちの教育と仕事のやり方を決定している


しかしこれは、社会的な取り決めが人間性の要求に従っていることを理由にしてその価値を証明しようとする願望の表れにほかならない。


過去及び現在の多くの違った社会の構成員にとっては、人間の生まれつきの利己心や怠惰という概念は、その反対の概念がが私たちにとって空想的に聞こえるのと同じほど、空想的に思われるだろう


実際には、持つ存在様式も、ある存在様式も、ともに人間性における可能性であり、生存を求める私たちの生物学的衝動は、持つ様式を促進する傾向を持つが、利己心と怠惰だけが人間の生来の性癖であるわけではない


私たち人間には、ありたいという生来の深く根差した欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき利己心の独房から逃れ出たいという欲求である。この所説の真実性を証明する証拠はあまりに多いので、それだけで容易に一冊の本が埋まるだろう。


能動性に対する誤解

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より

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現代の用法では、能動性はふつう、エネルギーの消費によって目に見える結果を生じる行動の特質と、定義される。それゆえ、たとえば土地を耕す農夫は能動的と呼ばれる。そのように、流れ作業で働く労働者も、顧客に買い物を進める外交員も、自分の、或いは他人の金を投資する投資家も、患者を治療する医者も、切手を売る局員も、書類を整理する官僚も、能動的と呼ばれる


忙しい人

現代的な意味での能動性は、ただ行動のみをさして、行動の背後の人物をさしてはいない。それは人々が奴隷のように外的な力に駆り立てられるために能動的である場合も、不安に駆り立てられる人物のごとく、内的強迫によって能動的である場合も、区別しない。


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能動性の現代的意味は、能動性単なる忙しさを区別しない。しかし、この二つの間には根本的な相違があって、それは能動性に関連した<疎外された>と<疎外されない>という用語に対応している。


疎外された能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。むしろ、私の能動性の結果を経験する。― しかも<向こう>にある何ものかとして、私と切り離され、私の上に、私に対立するものとして。


私は本当に働きかけはしない。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。私は能動性の結果から切り離されてしまったのだ。


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佐藤蓼丸

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