具体的な人間の不在
エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社
これらすべての方法は本質的に非合理的である。それらは商品の性質には関係なく、阿片や完全な催眠術のように、買い手の批判力を窒息させ殺している。
彼らは、丁度、映画のように、空想的な性質によってある満足を人間に与えるが、それと同時に、人間の卑小さ無力さの感情も高めるのである。実際、批判的な思考能力を鈍化させるこのような方法は、我々のデモクラシーにとって、
多くの明らさまな攻撃よりもはるかに危険であり、発売禁上になるようなエロ文学よりもはるかに非道徳的―― 人間の統一性という観点からして―― である。
消費者運動が消費者の批判力や品位や意味の感情を回復しようとし、労働組合運動と同じ方向に働きつつある。しかし、これまでのところでは、その範囲はつつましい第一歩という程度に留まっている。
経済的領域に妥当することはまた政治的領域にも当てはまる。デモクラシーの初期の時代には、個人があることの決定のために、あるいはある仕事の候補者を決めるために、具体的積極的に選挙に参加するような、いろいろな取り決めがあった。決議事項は候補者と同様、彼にもよく知られていた。選挙はしばしば町の全員の集っている所で行われ、個人も実際に数に入るような具体的な性質をもっていた。
いまでは、選挙人は巨大な政党に立ち向うことになり、政党はちょうど産業の巨大な組織と同じように、遠いところにあるが、しかも押しつけがましいものとなっている。結果は複雑であるが、さらにそれを隠蔽しようとするあらゆる手段のために、ますます複雑となっている。
選挙人は選挙の頃になると、候補者について何か知るようにはなるであろう。しかしラジオ時代では候補者を直に見るようなことはなく、「自分の」候補者を吟味する最後の手段も失われている。
実際には彼は政党の幹部によって、二、三人の候補者の選択を求められる。しかしこれらの候補者は「自分の」選んだものではなく、お互いにほとんど知ることもない。 ここでもまた、他の場合と同じように、抽象的な関係だけである。
デパートの客
エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社
百貨店の場合、その関係はなんと異なっていることであろうか。買手はまずその巨大な建物と数の多い使用人、豊富に陳列された商品によって圧倒される。これらすべてによって、彼は自分がどんなに小さな、取るに足らぬ存在であるかを感ずる。
百貨店にとっては、人間としての彼はなんの重要な意味ももたず、「一人」 の買手として意味をもっているだけである。百貨店は彼を失うことを欲しない。なぜならば、一人の買手であっても、それを失うことは店になにかよくな いことがあるからであり、同じように他の買手をも失うことを意味するであろうから。
しかし、客は抽象的な買手として意味があるので、具体的な買手としてはまったく意味をもっていない。彼が入ってくるのを喜ぶような者もおらず、彼の望みにとくに関心を配ってくれる者もいない。買うという行為は、郵便局で切手を買うのと同じことになっている。
この状態はさらに近代の広告方法によっていっそう強められる。昔の商人の商いの話は本質的に合理的であった。彼は自分の商品をよく知っており、買い手の望みもよく知っていて、その知識に基づいて売ろうとした。
確かに彼のしゃべることは完全には客観的ではなく、できるだけの勧誘もしたであろう。しかもなお、効果を上げるためには、むしろ合理的な、物の分かった話し方でなければならなかった。巨大な近代広告は、これと異なっている。
それは理性にではなく感情に訴える。催眠術の暗示のように、その目的物をまず感情に印象付け、それから知的に説明する。このような広告方法はあらゆる手段で買い手に印象付けようとする。
すなわち同じことを何度も繰り返したり、社交界の夫人や有名な拳闘家に、ある商標の煙草をくわえさせて、権威あるイメージを起こさせようとしたり、美しい少女の性的な刺激によって買い手を惹きつけ、同時に彼の批判力を麻痺させようとしたり、「体臭」や「口臭」などをとりあげて、恐怖心を起こさせたり、さらにシャツや石鹼を買うことで、何か全生涯が突然に変化するような空想を刺激したりしている。
自己の重要さと品位との感情
エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社
大企業の広大さとその優越した力から生まれる心理的な影響は、労働者の上にも及ぼされる。昔の小企業では、労働者は親方を個人的に知っており、その企業全体とも馴染みが深く、それを見渡すことができた。彼は市場の法則によって雇われたり追い出されたりしたが、しかしその親方やその企業とは、ある具体的な関係をもっており、そのため、自分がどのような地盤に立っているかを知っていると感じていた。
何千人という労働者を雇う工場では、人間はまったく異なった状態におかれる。親方は一つの抽象的な像となる―― 彼は全然親方を見ないのである。「経営 」は彼が間接的にしか携わり得ない匿名の力であり、それに対しては、彼は個人としてはほとんど無意味である。このような大企業の中では、労働者は自分の特殊な仕事に関係した小さな部分しか見渡すことはできないのである。
この状態 はある程度、労働組合によってバランスがとれてきた。労働組合は、単に労働者の経済状態を改善したば かりでなく、労働者に重要な心理的影響をもたら した。すなわち彼の立ち向う巨人と比較して、彼にも力と意味とがあるという感情をあたえた。
しかし不幸にも、多くの組合はそれ自身巨大な組織に発展し、個々の成員の創意を入れるような余地は、ほとんど無くなってしまった。
個々の労働者は、その維持費を払い、ときには選挙をするが、ここでもまた彼は大きな機械の小さな歯車となっている。(本来)組合は、各々の成員の積極的な協同によって支えられる機関となり、各成員がその組織の生活に積極的に参加し、その組織の成り行きに責任を感ずるようになることが、もっとも重要である。
現代における個人の無意味さは、単に商人や雇人や筋肉労働者の役割についてだけではなく、買手としての役割についてもいえる。この数十年間に買手の役割にも非常な変化が起った。
独立した商人の小売店にやってくる客は、必ず個人的な注意をもって迎えられた。すなわち、彼の買物は店の主人にとって大事なものであったし、彼は重要な人のように迎えられ、彼の望みはいちいち相談され、買うという行為そのものが、彼に自己の重要さと品位との感情を与えていた。
安定と独立の喪失
エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社
全体として、昔の商人の役割は、単に独立的であるというだけではなく、熟練や個性的な奉仕や、また知識や活動性を要求していた。ところが、ガソリン・スタンドの所有主の状態は、まったくこれと異なっている。彼の売るのは一つの決まった商品で、油とガソリンである。彼は製油会社との契約に制限されている。彼はガソリンや油をいっぱいにするという同一の行為を、繰り返し繰り返し機械的に反覆する。
熟練や創意や個人的活動の入り込む余地は、昔の食料品屋よりも遥かに少ない。
彼の利潤は二つの要素で決っている。即ち、ガソリンや油に対して支払わなければならない価格と、ガソリン・スタンドに止まる自動車運転手の数によって。
この二つの要素はともに、彼の到底支配しえないものである。彼はただ卸屋と客との間の代理人の仕事をしているだけである。彼が事業に雇われているのか、あるいは「独立した」商人であるのかは、心理的にはほとんど問題にならない。彼はただ分配という巨大な機械の中の一つの歯車に過ぎない。
ホワイト・カラー労働者、その数は大企業の拡大とともに増えたのであるが、そのような人間によって成立した新しい中産階級についても、彼らの状態が昔の小規模な独立した商人の状態と非常に異なっていることは、明らかである。 人は言うかもわからない、彼らは形式的にはもはや独立していないが、実際には、成功のもとになる創意や知識を発展させる機会は、かつての仕立屋や食料品屋と同じくらい、あるいはより一層多くもっているのではないかと。
これはある意味では正しいが、しかし、どこまで正しいかは疑間である。ともかく心理的には、ホワイト・カラー労働者の状態は昔と違っている。彼は巨大な経済的機械の一部で、高度に特殊化した仕事に携わり、同じような地位にいる他の何百という人々と激しく競争し、もし落伍すれば容赦なく追い出される。
要するに、たとえ時には彼の成功の機会はより一層大きくなっているとしても、彼は昔の商人のもっていた安定と独立とをまったく失っている。そして彼は機械の大なり小なりの歯車に成り下がっている。その機械は彼に一定のテンポを強制するが、彼はその機械を支配できない。その機械と比べれば、彼はまったくとるに足りないものである。