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嗜癖する社会から生存する社会へ

正しいのはいつも自分、だから警察官になった。自分の力で、何でも解決できると思ってる。⇨エレイン「刑事ジョン・ブック 目撃者」




アン・ウィルソン・シェフ「嗜癖する社会」誠信書房より

白人男性システム(嗜癖システム)とは何か

その1➡ 唯一のシステムである。
白人男性システム自体が「現実」であると定義されるため、それ以外のシステムにすむ者は「現実を理解していない」か「物事の道理を理解していない」と見なされる。そのため、黒人のシステム、チカーノのシステム、アジア系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、そして女性システム等の、他のシステムの思考や見解は一切理解されない見当違いで、非論理的として放棄される

 

その2➡ 議論の余地なくすぐれている。そして、このシステムに従わないものは議論の余地なく劣っている

 

その3➡ 全てを知り、理解している。この神話は、知識とは何か、学ぶ価値があるものは何かを決定する。白人男性システムの方法論とテクノロジーによって理解することができないものは、この世に存在しない

 

このシステムの弊害は、広大な領域の知識を締め出して、物の見方を狭めてしまう事である。これを信じる人は、脳と感覚のごく一部しか使わず、右脳あるいは、直観的で非線形的な思考は価値が無いと見なされる

 

白人男性システムは私たちを包み込んでいますが『家庭』のようなものではありません。このシステムの中で生きていくために、私たちは言語や価値や思考、そして世界観を、このシステムに適応させなければなりません。自らの現実を否定し、ほんの少し受け入れてもらうだけのために自分の固有のパワーの全てを引き渡さなければなりません。 ➡ アン・ウィルソン・シェフ

 

リビング・プロセス・システムへのシフト

新しいシステムは、自分自身の視点を信頼し始めた人々(自覚的・主体的に生きる人)のシステム。このシステムは多様で柔軟性に富みオープンなシステムの輪の中でとらえられるが、今まで存在しなかったような新しいシステムではなく、実際には多くの人々が、よく知ってはいるが今まで言明されることのなかった「家庭」に戻るような感情を表している。

アニマとアニムス


 

ジョン・A・サンフォード「見えざる異性」創元社 より

アニマは男性の情緒のみならず、思考にも干渉する。アニマに取りつかれた男性は、自分の意見だけを主張して、事実に対する配慮も、関係性や理論に対する配慮も欠落してしまう。彼の議論は、いらだたし気で情緒的に色づけされた、不合理な意見の海の中に沈み、理性的な話し合いなど到底不可能な状態になり果てる。

 

ユングは自伝「思い出、夢、思想」のなかで、無意識を活性化する、いわゆる「能動的想像」の技法を用いたときに、この破壊的なが語りかけてくるのを聞いた。

 

これらの空想を書きとめながら、ふと自問した。「私は一体何をしているのか?これは科学とはまったく関係のないことだ。それなら、いったいこれは何なのか?」そのとき、私のなかで、ある声が聞こえた。「それは芸術です」と。私はびっくりした。いま自分が書きとめていることが芸術に関係あるなどと、ついぞ考えたことがなかったからだ。それは、私の患者で、才能ある女性の、精神病質者の声だった。彼女がいつのまにか、私の心の中で生きていたのだ。

 

私はこの声に対して、断固として主張した。私の空想は芸術とは何の関係もない、と。すると、心のなかに強い抵抗を感じたが、もう声は聞こえてこなかった。そこでさらに書き続けた。すると、再び声が襲いかかって来て「それは芸術です」と同じ主張を繰り返した。今度は私は、彼女を捕まえて言ってやった。「いいや!これは芸術なんかではない!反対に、これこそ自然なんだ」と。私はさらに論戦するつもりで身構えた。

 

私は、女性が内側から干渉してきたことに大いに興味をそそられた。それになぜ、その声を女性のものと考えたのだろうか。後になって私は、男性の無意識のなかでは、内なる女性が一つの典型的な、元型的役割をしているのに気づくようになった。その内なる女性を、私は「アニマ」と呼んだ。

 

最初に私の関心を強く引いたのは、アニマのこの否定的な側面だった。私は彼女に少なからぬ畏怖を覚えた。まるで部屋の中に目に見えない存在を感じ取るかのようだった。アニマの言葉には狡猾さに満ち満ちているように思えた。もし私が、無意識からのこれらの空想を芸術と考えていたら、それは、ちょうど映画を見ているときのように、映像として知覚するだけで、それ以上に何かを確信させる力はもたなかっただろう。そして、アニマは容易に私にこんなふうに信じ込ませたかもしれないのだ。

 

私は理解されない芸術家であり、私のいわゆる芸術家的本性が、私に現実を無視する権利を与えてくれているのだ、と。もし私がアニマの声に従っていたら、アニマは多分あるとき再びこう言ったに違いない。「あなたがやっているそのくだらないこと、それが本当の芸術と言えるでしょうか?芸術とはまったく別のものです」と。このようにして、無意識の代弁者であるアニマの暗示は、男を完全に破壊することもできるのだ

権威と権力

ママが安心してると、私は死ぬほど退屈!⇨ サリー・ブラウン

 

 

■A・ローウェン「ナルシシズムという病」新曜社 -幼年期の屈辱と家族の権力闘争 より

子育てにおいて力に訴えることは新しいことではないけど、近年それはこれまでとは違った色調を帯びてきている。その理由は、家庭やコミュニティにおいて、ますます権威が崩壊しつつあることであり、これは第一次世界大戦の終わりから始まったプロセスである。

 

権威という言葉は本来、尊敬を受ける権威を意味する。

 

それが、コミュニティの決まり切った慣わしだから、という理由で親の権威が尊敬されているときには、権力の問題はそれほど生じないものだ。親は自分の個人的な感覚だけで意見を言うのではなく、コミュニティの声と一緒になってそうするのである。そのとき力はコミュニティから引き出され、コミュニティを代行する形で行使される。親は子供に対する自分の行動に責任を負っているため、自分の権力をそう簡単には誤用できないわけである。

 

権威の崩壊は西欧文化に広く広がっている。そしてそれは家庭だけに限られたものではない。その結果、力を頼むことがますます増えてきている。国家であれ家庭であれ、権力が究極の権威とされるところでは、体制が権威主義的なものになる

 

だが、力もしくは権力が常に最終的な判定を下してきたのではないか?問題を権力に絞れば、確かにその通りである。だが、権力を頼ることなしに紛争を解決することが可能であることが可能であることを、民主体制は証明してきた。また家族は何世代にもわたって、親の権力よりも社会的コンセンサスに基づく行動規範に従ってきた

 

親の権力の強調は、必然的に子供を反抗あるいは服従へ導く。服従は内面の反抗と敵対性を覆い隠す。服従する子供は関係が力によって支配されていることを学び、それが大人になってからの権力への渇望を準備する。子供たちは素早く親と同じ「パワーゲーム」を演じるようになるのだ。

 

親に対する力を獲得するための一番良い方法は、ご飯を食べない、成績が悪い、煙草を吸うなどの、何か親の心をかき乱すようなことをすることである。そうした「隠された」破壊行動に出会った場合、親はうろたえ「言うとおりにすれば、何でも買ってあげる」などと申し出る。だが屈服することは力の喪失を意味するから、反抗の恐れは常に存在し続ける。

 

親と子の対立は、一般に自分の心の内にある何らかのイメージに合わせて子供を作り上げようとする親の欲望と、そうした作為に対する子供の抵抗から生ずる。親が優越した力を利用するのは、この闘争でとられるいくつかの戦術の一つに過ぎない。

 

非常に幼い時には、子供は無力で完全に依存的である。どんな形であれ親が非難の気持ちを強く表現するとか、力による処罰を与えれば、子供を容易にコントロールすることができる

 

子供が大きくなると、支配を維持する手段として、次第に誘惑という方法がとられるようになる。子供が親の意向について行こうとする場合には、お前は特別だという約束や親密さが与えられるのだ

無力さへの恐れ-2

 

■A・ローウェン「ナルシシズムという病」新曜社 -幼年期の屈辱と家族の権力闘争 より

もちろん体罰が子供に屈辱を与える唯一の方法であるわけではない。往々にして子供は、自分が無価値で、不適格で、馬鹿だと感じさせられるようなやり方でけなされる。しかし、そのような叱責はどんな有益な目的も果たすことができない。私の考えでは、それは親の優越性を証明することを志向しているのである。

 

子供が知っている筈だと思う問いに間違ったり、答えられなかったときに、子供を笑いものにしたり、馬鹿にしたりする親がいる。子供が泣いたときには、それは「嘘泣き」というもんだなどと、皮肉めいたことを言いながら、子供の感情を偽のものとして片づけてしまうことがある。

 

子供の人間性や個性に対する敬意を卑しめ叩き潰し破壊し否定してゆく方法のリストは、長いものである。そして多くの親は、このような態度にはどこにも悪いところはないと考えている。それは子供を育ててゆく上で正しいこととして、まかり通っているのである。もちろん、子供が病院に送られるような身体的虐待にまで堕落するときには、私たちはみなショックを受けるのであるが。

 

必然的にこんな疑問がわいてくる。どうして親はそんなふうにふるまうのだろうか?という疑問がそれである。子供は、力づくや罰によってよりも、理解とやさしさによって効果的に物事を学ぶ。また、もし罰することが必要であるなら、子供に屈辱を与えないような方法でやることができる。私が思う答えの一つは、

 

自分の親から受けたような扱いを、親が子供にやってしまっているのではないか?ということである。また、子供は親にとって、自分の欲求不満や*ルサンチマンを発見できる、最も手ごろで最も利用しやすい対象であるということも、認識されなければならない

 

世間的に自分が無力であると感じている親は、自分の子供に対して独裁的になることで、こうした感情を補償することができる。だがこのような答えがどれほど妥当であるとしても、すべてがそれで片付くとは思えない。過去の時代と比べて、ナルシシズム障害が増加する原因となっているのは何なのだろうか

 

*「ルサンチマン」怨恨、復讐を意味する語。ニーチェは、強者の君主道徳と対比して、弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンによるものだとした。また 、シェーラーは、革命を志向する社会主義運動はルサンチマンに根をもつと説いた。 ⇨ コトバンク

無力さへの恐れ-1

「何の音だった?」あれは、悲鳴だった。子供の声のような悲鳴
「君はどうした?」私は階下に下り外へ出て、そっと納屋に近づき、恐る恐る中をのぞいたの
「そこで何を見たんだ?」子羊よ。悲鳴を上げてた
「子羊たちを殺してたのか?」悲鳴を上げてた
「それで逃げた?」いいえ、子羊を逃がそうとゲートを開けたわ。でも、子羊たちは全然逃げないの
「だが君は逃げ出した?」子羊を1頭抱えて必死で逃げたわ
「どこへ行った?」分からない。食料も水もなく、とても寒かった。凍えそうに。少なくとも1頭だけは助けたと思ったけど、とても重くてダメだった。ほんの数キロ逃げて、保安官に捕まったわ。怒った牧場主は、私を施設へ送ったの

「君が連れ出した子羊は?」殺されたわ
「今でも時々目が覚める?明け方に目覚めて子羊の悲鳴を聞く?」

⇨ レクター博士とFBI捜査官・クラリスの会話「羊たちの沈黙

 

 

■A・ローウェン「ナルシシズムという病」新曜社 -幼年期の屈辱と家族の権力闘争 より

私の所へ来るナルシシズム的な患者はみな、子供のころ、権力をコントロールの手段として用いる両親によって、深い屈辱感を味わされた経験を持っている。多くの場合、権力とは物理的な力である。両親は子供を無理やり服従させるために、自らの優越した物理的強さを用いるからである。

 

お尻に平手打ちをくらわせることは、そうした身体的虐待のごく一般的な形態であるが、叩くために無理やり服を脱がせてお尻をさらさせる場合には、子供に対してとくに屈辱感を与えることになろう。子供がヘアブラシやベルトで叩かれることも珍しくないが、それは不必要に残酷な扱いだと思う。

 

罰を与えるための道具を取ってこさせたり、逃げようとしたら罰を増やすと脅かされたりして、屈辱感が増大する場合もある。あたかも子供には痛さを表現する権利もないんだとばかり、子供が泣くとますます強く叩く親もいる

 

たいていの場合、罰は攻撃という性質をはるかに超えて、権力の証明とみなさざるを得ないようなものであった。「将来お前が私に歯向かうことがないように教えてやる」というわけである。ときには罰の中にサディスティックな要素を見つけることもあった。それは、実のところ子供に苦痛を与えることを親が楽しんでいることも、患者の話が表しているような場合である。

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中