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思考停止の理由

現状維持バイアス



幸福と不幸



次の記事からが、通常の記事になります。

タイプ6と依存性人格障害

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

不健全なタイプ6(内向的感情型)は受動攻撃性人格障害と依存性人格障害にそれぞれ部分的に相当する。


MSDマニュアル・プロフェッショナル版 より

■依存性パーソナリティ障害

依存性パーソナリティ障害は,世話をしてもらいという広汎で過度の要求を特徴とし,服従的まとわりつく行動を生じる。診断は臨床基準による。治療は精神療法,場合により抗うつ薬による。


依存性パーソナリティ障害の原因に関する情報は限定的である。文化的因子,幼児期の否定的な体験,および不安と関連する生物学的脆弱性が依存性パーソナリティ障害の発症に寄与していると考えられている。服従性,自信のなさ,控えめな行動などの家族特性も寄与している可能性がある。


依存性パーソナリティ障害患者は自分で自分の面倒をみることができると考えていない。患者は服従することで他者に自分の世話をしてもらおうとする


この障害の患者は典型的に,通常の判断を下す際に大量の安心および助言を必要とする。患者はしばしば他者,しばしば1人の人間に,自分の生活の多くの側面について責任を負ってもらう。例えば,患者は配偶者に依存し,何を着て,どのような種類の仕事を探し,誰と付き合うべきかを教えてもらう。


このような患者は自分が劣っていると考え,自分の能力を卑下する;患者はあらゆる批判や否認を自分の無能力の証拠と受け取り,さらに自信を失う


患者は,支持や承認を失うことを恐れるため,他者との意見の相違を表明することが困難である。他者の支援を失うリスクを冒すくらいなら間違っていることがわかっていることに同意する場合もある。怒りが適切な場合でも,患者は支援を失うことを恐れて友人や同僚に怒りを向けない


このような患者は自分が1人では何もできないと確信しているため,新しい課題を始めたり,独立して働いたりすることに困難があり,責任を負う必要のある課題を避ける。患者は,常に支援と安心を必要とする無能力な存在として振る舞う。能力のある人物が患者を監督したり,承認したりして安心した場合,患者は適切に機能することが多い。しかしながら,患者は見捨てられることを恐れてあまりに能力があるようにみられることを望まない。その結果,患者の経歴が損なわれることがある。患者は自立した生活を営む技能を学ばない傾向があるため,依存性を永続させる。


このような患者は世話と支援を得るために多大な労力を払う(例,不快な課題をこなす,不当な要望の言いなり になる,身体的,性的,または情緒的虐待に耐える)。患者は自分で自分の面倒をみることができないと恐れるため,1人でいることに極度の不快感を感じたり,恐れたりする


この障害の患者は依存対象のごく少人数の人としか社会的に交流しない傾向がある。親密な関係が終わると,患者はすぐに代わりとなる人を見つけようとする。患者には世話をしてもらうのに必死であるため,代わりとなる人を選ぶにあたり,見境がない


患者は,理由がない場合でも,依存している相手に見捨てられることを恐れている。

外向型のもつ危険

ユング「タイプ論」みすず書房/10章-タイプの一般的な説明<外向型・意識の一般的な構え>より

外向型にとっての「正常」な状態とは、一面では、既成の状態に対して、たいした軋轢もなく順応しており、しかも客観的に存在している可能性を成し遂げる以外には何の要求もしない状態のことである。


すなわち、たとえば現在この場で見込みのありそうな職業に就くとか、まさに周囲の人々が今必要としていたり彼に期待していることを実行したり、そうしたものを作り上げるとか、見通しが立たないような・あるいはどうかすると周囲の予想を上回ってしまいそうな変革は一切やらない。といった具合である。


しかし他面では、外向型の人の「正常さ」は、自分には主観的な欲求や必然性もあるのだという事実をほとんどまったく勘定に入れなくなるという結果をもたらす。これがつまり彼の弱点である。というのはこのタイプは外の方を向きすぎる傾向を持っているため、主観的な事象の中でも最も明瞭に感知できるもの・すなわち身体の健康・ですら、ともすると少しも客観的でないとか少しも「外的」でないとして十分考慮されず、その結果生理的な健康状態にとって欠くことのできない基本的な欲求がもはや満たされなくなってしまうからである。そうなると心はおろか身体まで病んでしまう。


主体が完全に、いわゆる客観的な要求の犠牲になってしまうこともありうる。たとえばともかく注文があるのだからとか、ともかく目の前にある可能性は実行してみなければいけないといった理由から、商売をどんどん拡張していくことによって主体が犠牲にされてしまうのである。


外向型の人がもっている危険は、客体の中に引きずり込まれてしまい、その中で自分自身をまったく見失ってしまうことである。この結果生じる機能的(神経的)障害ないし現実の身体的障害は補償的な意味をもっている。というのはこのため主体は心ならずも自重せざるを得なくなるからである。


症候は機能的なものである場合には、心理状態を独特な方法で象徴的に表わすことがある。たとえばある歌手の名声が急に高まったため、自分では応じきれないエネルギー支出を迫られる危機に瀕したときに、神経性の故障のために突然高い声が出なくなったりする。


私見によると、外向型に最もよく見られる神経症はヒステリーである。典型的なヒステリーの特徴は、つねに周りの人々との過剰な関係であり、また周囲の状況に猿真似とも言えるほどに迎合しようとするのも特有の特徴である。


ヒステリーの根本的特徴の一つは、つねに他人の関心を集めよう、周囲に感銘を与えようとする傾向である。これと対になっているのが周知のように暗示を受けやすいこと、すなわち他人によって影響されやすいことである。


また外向型の特徴はヒステリー患者の話好きとしても表れており、これは時としてまったくの作り事を話すまでになる。いわゆるヒステリー性格は当初は正常な構えが誇張されたものであるが、しかし無意識の側の補償的な反作用、すなわち過度に外向している心的エネルギーが身体的疾患のため無理やり内向させられることにより複雑になる。この無意識の反作用によって生じる症候は、むしろ内向的な性格をもっている。このうち特によく見られるのは、空想活動が病的に高まった状態である。

他人に対する強い感情

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

タイプ2(外向的感情型)は、他人に対して強い感情を抱いているが、自分自身の感情に関わる潜在的な問題をもっている。相手に対していかに肯定的な感情を抱いているかということを大げさに表現する一方で、否定的な感情にはまったく目をつぶる傾向がある


彼らは、自分自身を愛情深く、人の面倒をみる人間であると見ているが、彼らが他人を愛するのは、ほとんどすべての場合、ただ単にお返しとして相手にも自分を愛させるためである。彼らの愛は無償ではない。お返しの期待がくっついている。


しかし、健全なタイプ2は全性格のタイプの中で最も思いやりがあり、誠実に人を愛する人々である。彼らは強い感情の持ち主であり、親身になって他人を気遣うので、わざわざ他人を助けてやり、本当にいいことをし、本当の必要に応える。


しかし、不健全になると、タイプ2は自分自身に攻撃的感情があるということと、その感情の及ぶ広がりについて思い違いをし、自分がどれほど人を操り放漫になり得るかということを認めない。


不健全なタイプ2は、完全に無私無欲であるといいながら、実は極めて利己的なので、すべての性格のタイプの中で最も油断がならない人々である。彼らは、他人に対して酷い仕打ちをしておきながら、自分は完璧なほど善良であると信じている


問題の核心は、通常のタイプ2でさえも、様々な動機と、矛盾した感情と、自分として満たしたい個人的必要をもつ人間としての、ありのままの姿として自分自身を見ることができないという点である。


逆に、だんだん自己欺瞞的になるにつれ、自分を最も好意的に見て、否定的性質は無視する。タイプ2を理解するうえで難しいのは、彼らが自分の欲しいものを手に入れようと没頭する際の人を操るやり方である。タイプ2が堕落すればするほど、彼らに対する私たちの認識を、「自分は極めて高潔な人間である」という彼ら自身の認識と調和させることがより難しくなっていく。


彼らは常に自分自身を免罪し、私たちにも同じことをするように要求する



■タイプ2の著名人
ガンジーの名言

「空気を読む」理由

ユング「タイプ論」みすず書房/10章-タイプの一般的な説明<外向型・感情>より

外向的な構えにおける感情は客観的な既成事実に従って自らを方向づける、すなわち客体が感情のあり方を決める上で欠くことのできない要因になっている。感情は客観的価値と一致しているのである。つねに感情を主観的な事柄としか思わない人には外向的感情型の本質はなかなか理解されない、というのは外向的感情は主観的要因からできるだけ解放されており、そのために客体の影響に完全に従っているからである。


たとえ外見的には個々の客体のもろもろの性質とは無関係であることがはっきりしている場合でも、やはり伝統的価値やその種の普遍妥当の価値に囚われているのである。たとえば私が「美しい」とか「よい」といった述語を用いなければと感じる場合、それは私が主観的な感情からその客体を「美しい」とか「よい」と思うからではなく、「美しい」とか「よい」と言う方がその場にふさわしいからなのであり、しかもこのその場にふさわしいとは、反対の判断を下すと皆の感情の場を何らかの形で乱すことになるという意味である


このようにその場にふさわしい感情判断をするといっても、それはけっして偽ったり嘘をついているのではなく、一種の順応行為なのである。こうしてたとえばある絵画を「美しい」と言うときも、それはサロンに掛けられている有名な画家のサインの入った絵画は一般に「美しい」はずであるからとか、「嫌い」という述語を述べると幸せな気分になっている持ち主の家族の感情を損なうかもしれないとか、訪問者の側に心地よい雰囲気をかもし出そうとする意図があり、そのために是非ともあらゆることを心地よいと感じなければならないから、といった理由によるものである。


こうした感情は客観的な決定因子を基準にして方向づけられている。これはそれ自体としては正真正銘の感情であり、目に見える感情機能をすべて表している。ちょうど外向的思考が主観の影響を可能な限り排除するように、外向的感情も一定の分化過程を経てあらゆる主観的な不随物を取り除かなければならない。この感情の働きによってなされる評価は客観的評価にそのまま合致しているか、少なくとも何らかの伝統的普遍的な既存の価値基準に合致している


いったいどうしてこれまでに大勢の人々が劇場や演奏会や教会に行き、しかもいかにも杓子定規にそれらを受け容れようとする気持ちをもって行くのかというと、それは大部分この種の感情によるものである。流行や、これよりはるかに価値のある、社会的・人道的・その他の・文化事業が積極的に幅広く支持されるのも、このせいである。


こうした事柄においては外向的感情が創造的要因であることは明らかである。この感情なくしては、たとえば気持ちのよいなごやかな交際など考えられない。この意味において外向的感情は外向的思考と同様に合理的に働く有益な力である。


ところがこの有益な作用も、客体が過度の影響力を獲得すると、そのとたんに失われてしまう。というのはこうした場合過度に外向的になった感情が人格を客体の中へあまりにも極端に引きずり込む、すなわち客体がその人物を同化し、そのため感情の主要な魅力をなす個性が消えうせてしまうからである


こうした感情は隠された意図をつい漏らしてしまったり、いずれにせよそうした疑いを公正な観察者に抱かせてしまう。それはもはや純粋な感情が常に備えている、あの気持ちのよいすがすがしい印象を与えず、たとえ利己的な意図がまったく意識されていない場合でも、そこには気取り芝居気が漂っている。しかしそれはもはや心に訴えかけるものではなく、せいぜい五感ないし、より悪い場合は悟性に訴えるものでしかない。


しかしそれだけのことでそれ以上の効果をもたらすものではない。感情が不毛化してしまうのである。この過程がさらに進むと、感情は分裂して異様なほど矛盾に満ちたものとなってしまう。すなわち感情が客体の一つ一つに感情的な判断を下して自分のものにし、互いに内的に矛盾する様々な関係を結んでしまうのである。


ただしごくわずかでも主体が存在しているかぎり、このようなことは絶対に不可能であり、そのため真に人間的な立場は残る隈なく抑圧されてしまう。主体が個々の感情過程に吸収されてしまい、その結果あたかもそこにあるのはもはや感情の過程だけで、感情の主体は存在しないかのような印象を観察者に与えるのである。感情はこうした状態になるとそもそもそれが持っていた人間的な温かみを完全に失い、気取り気まぐれ信頼できない・といった印象を、よりひどい場合にはヒステリーという印象を与えてしまう。

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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
私たちは体においてよりも、心において不健康である。⇨ ラ・ロシュフコー