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タイプ6自身の両価性


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

その結果、タイプ6は、一つの感情状態から他の状態へと揺れる。彼らは次々と状態を変えるため、これが自分のものであると呼べるような感情の安定や対人関係での安全はほとんどないように見える。これが、タイプ6を「行動に関して最も大きな困難」を持つ性格のタイプと確認することが非常に適切であるとする理由である。


彼らは自分の外に権威からの行動の指示を期待するだけでなく、彼らが実際にとる行動が、しばしば優柔不断で回りくどいからである。


彼らの絶えず揺れる性格を理解せずに、タイプ6を理解することは出来ない。彼らの自己感覚を維持するためには、彼らの心理の「両面」が互いに作用し合う必要がある。タイプ6は自分の一方の面を強調して、もう一方の面を無視することは出来ない。たとえば、自分の依存的な面を抑圧することによって自立的になることは出来ない。善かれ悪しかれ、彼らは自分自身の両面の結合物である。


健全であるときは、彼らの両面は互いに手を携えてともに働く。しかし、両面の間に緊張が高まると、不安も増大する。そして、そこに彼らの抱える問題の多くの原因が存在する


その精神は絶えず変化するため、この性格のタイプを単純な言い方で記述することは難しい。タイプ6を「両向性格」外向的感情と内向的感情の結合物と考えると役立つであろう。これが、彼らは不安がかき立てられた場合は特に、それを埋め合わせるために正反対のことをして自分が行ってしまったことに反応する理由である


そのあとで彼らはこの新しい状態に反応し、続いてすぐ次の状態に反応しと、無限に繰り返すもし、矛盾の塊である人を理解するのが困難であるときは、おそらくタイプ6を相手にしているのである


また、タイプ6は、感情的であるのに、最も親しい人に対してさえも自分の感情を直接に示さないことを理解することも重要である。自分と他人の両方に対する両価性は、彼らに混成的な信号を送らせる原因となっている。また、これを別の言い方で表現してみれば、タイプ6は自分の感情、とくに不安に反応し、自分の感情よりも反応の方を伝える。非常に健全であるとき以外は、他の人々は、彼らの頭の中に実際に何があるのか確信できることはめったにない。


こういう理由で、自立と感情の安定、とくに不安からの解放が、彼らにとって非常に重要である。従順になりすぎると彼らの自尊心は傷つく:じゃけんに扱われている人のように他人に対して劣等感を感じる。一方、自立を求めて攻撃的になりすぎると、彼らに安全を与えてくれる当のその人を遠ざけて、何か恐ろしいやり方で罰せられるのではないか、と彼らは恐れる。


タイプ6が直面する挑戦は、自分の性格の両価性をともに維持し、相争う両面の間の緊張を徐々に和らげる手段を見つけることである。互いに引き立て合う一つの単位健全な人間としての自分自身を形づくるまで。

矛盾に満ちたタイプ


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

タイプ6は矛盾に満ちている。彼らは感情的には他人に依存するが、自分自身をあまり見せない。他人の近くにいたいが、彼らが信頼できる人かどうかをまず確かめようと試す。権威を崇拝し、しかし、それを恐れる


従順であり、しかし従順でない。攻撃を恐れるが、ときには自分自身きわめて攻撃的である。彼らは安全を求めていながら、不安を感じる。人から好かれ、慕われるが、卑劣で、嫌悪されることもある。伝統的価値を信じるが、それらの価値を覆しもする。罰を逃れたいが、自ら招いてもしまう


タイプ6は、不安が一つの心理状態から別の心理状態へと彼らを跳ね飛ばさせるので、矛盾に満ちている。そして不安に反応して、タイプ6は自分の不安を鎮めてくれるような権威に頼る


タイプ6は、反応的で、一つの状態から他の状態、たいていは事実上の反対の状態に非常に素早く揺れ動くので、九つのタイプの中で最も当惑させる人々の部類に入る。タイプ6はあまりにもしばしば前言をひるがえすので、不可解で人を失望させることがある:彼らは愛らしくて人に慕われるが、続けてすぐに気難しく非協調的になる:彼らは果断で自己主張的であるが、続けてすぐほとんど次の瞬間には優柔不断で煮え切らない。自分にとって重要な人からの承認を求めるが、下位にい続けることは拒否する。従順であり、続けてすぐにあからさまに反抗的になり、権威が行うように命じたことからそれてゆく。


その結果、タイプ6は最も矛盾した性格のタイプであるため、理解するのが最も難しい人々の一つとなる


タイプ6を理解する鍵は、彼らは両価的(アンビヴァレント)であるということである。彼らの性格の二つの異なった側面が、攻撃的傾向と依存的傾向の間で揺れている


彼らは自分が強いとも弱いとも、依存的とも自立的とも、受動的とも攻撃的とも感じる。ジキル博士とハイド氏の場合のように、タイプ6の刻々と変わる状態を予想するのはむずかしい。それぞれの<段階>で、彼らは、すぐに通り過ぎてしまい、その後に続くであろう性格とは、本質的に異なる性格をみせる。


事態をいっそう複雑にするのであるが、タイプ6は他人に対してだけではなく、自分自身に対しても両価的である。彼らは自分自身が好きであり、続けてすぐに、他人より劣っていると感じて自分自身をけなす。彼らは自信を持っていて、続けてすぐに、だれか他人の助けがなければまるで何も出来ないとでもいうように絶望して見える。彼らは弱腰で臆病だと感じ、それから突然に、怒りに満ちて人を攻撃する。


彼らの中では依存衝動と攻撃衝動の二重の組み合わせが働いて、さまざまに複雑な結び付きとして絶え間なく互いに影響し合う。なぜなら、タイプ6は外的な権威だけでなく、超自我という内的な権威に対しても、両価的に反応するからである

エトスは変更可能か?

www.ne.jp/asahi/ts/hp/file6_limits/text/026_two_ethics2.html

Toshikazu Sakurai「千年のうち  In Millennium」余命一年から千年を考える「エトスは変更可能か?」 より


1980年代の話です。当時、マスコミでも有名で、友人同士だった山本七平と小室直樹という、二人の評論家がパーティで会話していました。そのとき、民族のエトスが変わったことがあるかどうか、話題となりました。


マックス・ウェーバーによる、プロテスタンティズムのエトスの導入による、資本主義の精神の成立はきわめて稀な出来事とされており、それを踏まえての会話です。通常では、民族のエトスは不変で、千年以上にわたって変化しなくても当然とされています


エトス・・心の中にあって規範となり、民族の行動様式を裏側でささえる思想の体系は、どの人間の心の中にもそれぞれあって、たとえ文字をもたない民族にも、「表現されていない精神世界」として存在しています。


基本的に日本人は、このエトスの根本的変更を経験したことはないということです


そして日本人は、民族固有のエトスを自ら体系だてて文字として整理・記録したことがなく、いわば「不文律のエトス」に拘束されて、自己を客観的に見ることも、検討することもできない束縛された状態である。(だから自滅をくりかえす)というのが山本七平の中心テーマでした。私の第一研究「日本教の構造」(未完)は、それを解消する目的ではじめたのです。


山本七平も小室直樹も、エトスの変更はきわめて困難という点で一致しているのですが、山本は「もし(変更が)あったとしたら、申命記革命の時でしょうな」と発言し、小室直樹も同意したそうです。(このエピソードは、まだどこにも発表されたことはありません。山本七平を囲む会の山田氏が「二人の知の巨人の会話」をかたわらに立って注視されていたときの出来事で、それを私は山田氏から1990年代に聞かせていただきました)


申命記革命とは、日本人にはほぼ知られていない、世界史的事件です。紀元前621年にエルサレムの神殿を修理したさい、大祭司のヒルキヤが、これまで知られていなかったモーセの残した記録が見つかったと、時のユダヤの王・ヨシアに報告(という建前)をしました。


王は「これを知らなかったから我々は道を誤ったのだ」と嘆き、これを民族の規範の絶対根幹として全国民に知らせて徹底し、すべての社会体制・民衆の日常生活のすみずみまでも、この文書「申命記」を加えた「モーセ五書」に忠実なものにするべく、改革を断行しました。
(旧約聖書列王記下22 ユダヤ古代史 X 4-2)


いわば、現在のユダヤ人の直接的起源を作り出した出来事です。おそらくそれまで長らく中東世界を支配していたアッシリアが滅亡期をむかえ、属国だったユダ王国が民族の独立を宣言するため、また戦乱の連続で部族制度が崩壊した一方、自立して力をつけた「アムハーレツ(地の民)」階級が、民族秩序、アイデンティティの再構築を支持したのでしょう。


民族の過去の大英雄の遺文という権威によって、すべての国民を納得させるためにプロジェクトを組んで、秘密裏に編纂された(であろう)新しい文書が現れたのです。それが、それまで地上にあったのとは別の、新たな国家・民族を生み出したとしたら、確かにエトスの変更にあたることでしょう。


山本七平と小室直樹の、短い会話は、重要な意味をもっています。ウェーバーの主張のとおり、プロテスタンティズムによるエトスの変更は、偶然の産物で、再現は不可能です。他民族への応用もできません。これで生み出された資本主義は、やがて化石燃料とむすびついて、暴走しました。しいて言うなら、世界は、開放系の臨時経済に変容し、やがては全体を破局・衰退に導く時限爆弾をしかけてしまいました。


また母体となったプロテスタンティズムも、資本主義の離陸後、速やかに作動精神を失いました。資本主義は、後ろから支える精神的支柱をうしなったゾンビ的な行動様式となっているのです。資本主義は二重に変質したのです。


現代世界は、有効に機能するエトスを失っています。そのための、対処の方法、意図的に新たな世界を作り出す方法を、申命期革命は示唆しているのです。2016/03/04  T.Sakurai

アリストテレスとプラトン

C・G・ユング「タイプ論」みすず書房 より

このことはいろいろな形で人間観察家や思想家の注意をひいてきたし、たとえばゲーテの直観によって収縮(ジストレー)と拡散(ディアストレー)という包括原理として呈示された。


内向や外向のメカニズムを表す名称や概念は実にさまざまであるし、個々の観察者の立場に合うようにそのつど変えられている。しかし表現はさまざまであっても、根本的な理解がつねに共通であることは明瞭である。すなわち、一方には、関心の向きが客体へと向かう場合があり、他方には、関心の向きが客体から離れて主体へと、つまり主体自身の心理過程へと向かう場合があるという理解である。


前者の場合、客体は主体の諸傾向に対して磁石のような働きをし、主体の諸傾向を引き付け、主体を高度に制約する。それどころか、客体は主体を主体自身にとってさえ余所余所しいものにしてしまい、主体の性質を客体に適応させることによって変えてしまうのである。


これが高じると、客体が主体よりも高い意味を持っていて、究極的には主体に対して決定的な意味を持っていると誤解させたり、また主体が全面的に客体の手に委ねられることは絶対的な決定であり、人生や運命に対し絶対的な意味を持つと思われるほどになる。


これに対して、後者の場合には主体がいつも関心の的である。それはまるで、すべての生命エネルギーが主体を探していて、客体が何らかの意味で強い影響力を持つことを妨げているように見える。エネルギーは客体から流れ去り、主体は、客体を自らの方向に引き付けようとする磁石であるかのようにも見える。


■すなわちこの立場は、いかなる時でも自我や主観的心理的な事項を、客体や客観的な事柄よりも上に置こうとする。あるいは少なくとも対抗しようと努めるものである。したがって、この構えは客体よりも主体により高い価値を与える。そのため客体は常により低い価値水準に置かれ、副次的な意味しか持たない。


いやそれどころか場合によっては、客体はある主観的な内容の外面的客観的な印としてしか、たとえばある理念が具象化されたものとしてしか存在しない。つまりこの場合大事なのは理念なのである。あるいは客体が感情の対象となっても、その場合大切なのは感情体験であって、客体の現実的な個性ではない。(プラトン的構え)


これに対して、外向的立場は主体を客体よりも下に置き、客体に高い価値を与える。主体は常に副次的な意味しか持たない。つまり主観的な事柄はしばしば、単に客観的な出来事を妨害する余計な添え物としか思われないのである。(アリストテレス的構え)


こうした対照的な二つの立場から生まれる心理が完全に異なる二つの方向に分裂せざるを得ないのは明らかである。一方は何事も自分の見解を視点として見るが、他方は客観的な出来事を視点として見るのである


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地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
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