自我のレベル:意識進化の段階-2

bandicam 2017-08-23 14-35-47-993

 

随意対不随意の対立

自我とは支配と操作の座であり、随意と意思された活動の場である。そのため自我は<随意なプロセス><意図されたプロセス>とだけ同一化する。

ところが身体は基本的に循環、消化、成長と発達、代謝などの不随意なプロセスが高度に自立化した集合体である

 

普通、「私は腕を動かす」とは言うが「私は心臓を鼓動させる」とは言わない。同様に「私は髪を成長させる」「私は血液を循環させる」とは言わない。言い換えれば、人間は随意的で統制可能な行為に信頼を置いているが、

その他すべての自立した不随意な行為(身体機能や自然)は非自己だから信頼できないと感じている

 

ある意味で自我は、自分自身が身体という手に負えない移り気の犠牲者であり、その罠に陥っていると感じている。このように、

肉体に束縛されていると感じている人が、死後、肉体のもろさに邪魔されず、魂が至上の権利を持ち、肉体を離れ空中に漂い、<白いサテンの寝間着>だけを羽織っているような状態を夢見るのは、それほど異常なことではないだろう。多くの人にとって肉体と罪が同義語となっていることも頷ける。

 

苦痛、苦しみ、<生きている神経>の敏感さは自我を恐怖させる。そのため、自我は苦痛の源から身を引き、身体を無感覚にして凍結し、その脆弱さをごまかそうとする。自我は、身体の不随意な感覚を支配することは出来ないが、身体全体を無感覚にして、身体感覚から影響を受けまいとする

 

これはオーロビンド・ゴーシュ(1872~1950、インド哲学者・神秘思想家)が「致命的ショック」と呼んだものである。死を免れない肉体の脆弱さから来るショックと委縮は、肉体を無感覚にし、自覚を歪曲する委縮である。

 

しかし、このような肉体の鈍化の達成は、大変な代償を伴う。身体は確かに苦痛の源であるが、同時に快楽の源でもある。自我が苦痛の源を殺せば、快楽の源も死ぬことになる。苦痛もない代わりに喜びもないのである。これはちょうど、凍傷にかかった部分が未感覚なため、凍傷に気が付かない状態にも似ている。

➽ ケン・ウィルバー「無境界」平河出版社より

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