精神の現実性

ユングは心を病んだ少女の話をし彼女は月にいた」と言いました。彼がそれを理に適ったことのように言うので、私が怒って「月にいたわけないでしょう!」というと彼はいたよ」と言いました。私は「そんなことはあり得ない月には人が住めないのだから、彼女がそこにいたはずはない」と言いました。彼はただ私を見て彼女はいた」といいました。私が彼が正気でないか、それとも私が愚かなのかと悩みました。そして不意に分かり始めたのです。

 

精神に起こることはそれを経験する人にとっては現実なのだということを、彼は言いたかったのだと。私は精神の現実性を理解したのです。➡ 夢の賢者ユングより

 

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

この心的構造は、ゼーモンがムネメと名づけ、私が集合的無意識と名づけたのと同じものである。個々の自己は、あらゆる生物にあまねく内在し、各生物に応じて異なる性質を持つ心的過程の一部・一片、代表である。これは生得的にあらゆる存在に繰り返し与えられる。

 

昔から行動に対する生得的な様式は<本能>と呼ばれてきたが、客体に対する心的理解の様式ないし形式を私は<元型>と呼ぶように提唱してきた。

 

元型はシンボルであり、いかなる意識的な概念も存在しないとき(睡眠中の夢や瞑想、あるいは、何らかの理由で意識が判断をやめてしまった場合)に機能する。集合的無意識の内容は、はっきりした好みや見解となって意識の中に入ってくる。

 

元型は心の無意識的な構造に由来し、客体の作用を通じて誘発される。この主観的な好みや見解は客体の影響力よりも強力である。すなわち心的な価値が高いために、あらゆる印象を凌駕する。

このため内向型の人は、客体がつねに決定的でなければならないということに納得がいかない。逆に外向的な人は、主観的な立場が客観的状況に優先しなければならないということに合点がいかない

 

外向型の人は内向型の人を、どうしても思い込みの強いエゴイストで、断定的な人間であると仮定しがちである。内向型の人がこうした<外向的な偏見>をもたれるのは、彼が断定的な言い方で、他人の意見をはじめから締め出そうとしている、あるいは、断固として主観的判断を、あらゆる客観的事実の上に置くかのような印象を与えるからである。

 

このような偏見に対し、内向型の人はほとんど正しい反論ができない。というのは、自らの主観的判断や知覚に無意識的ではあるが、普遍妥当な生の法則とも呼べる前提が含まれていることに気づいていないからである。時流に流されて彼は探求の目を外に向け、自らの意識の背後に何があるか探ろうとしない。

 

何らかの神経症に罹っている場合、自我が自己と無意識裡に同一化し、自己の評価が貶められ、自我が無限に膨張してしまう。そうなると、主観的要因の持つ世界観(普遍妥当な生の法則)が自我の中に押し込められ、偏った自我により、飽くことのない権力欲求や子供じみた自己中心性が生み出されるようになる。

内向型の意識の構え

私たちの世界は、人間の精神という細い糸にぶら下がっています。道を誤れば、どうなると思います?」

➡ ヒストリーチャンネル<夢の賢者ユング>より

 

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

内向型は、自らを方向付けるさい、外向型のように客体や客観的事実を基準にするのではなく、➡ 主観的要因を基準にする。

 

このタイプが自らを方向付けるさいには、感覚的刺激を受け取る主観的要素としての知覚や認識という要因を基準にする。外向型が常に主として客体から受けるものに依存するのに対し、内向型の人は外的な印象が主体の中に布置するものを拠り所にしている。

 

しかもその場所に自我は関わることが出来ない。しかし、これらのことは外向型の人が内向型の人に対して抱くような、自己愛的・自己中心的なものではない。なぜなら、知覚や認識は、全てが客観的なものではなく、主観的な制約を確かに受けているからである。

世界はそれ自体で存在するのではなく、「私の目に映るもの」としても存在している。いやそれどころか、私たちは、本質において

主体に同化できない世界を判断するために有効に働く判断基準などというものを持っていないのである。もし主観的要因を見逃すならば、

世紀の変わり目に醜い姿を見せた、あの虚ろで味気ない実証主義に陥り、同時に

粗暴な感情や鈍感で尊大な暴力性の先駆形態である、知的傲慢にも陥ってしまう

 

主体は人間であり、認識作用には主体がある。もし「私は認識する」と言う者がなければ、そもそも認識などというものは存在しない。主体的認識がなければ世界は存在しない。今現在の客観的事実にだけ囚われていると、世界は硬直化し、変革の可能性を奪われて滅びる。

これと同じことは、あらゆる心的機能についても当てはまる。すなわち、心的機能には主体があり、これは客体と同じくらい不可欠である

外向的直観型の無意識

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

 

新しい仕事を始める仲間に勇気を与え、鼓舞することにおいて、(たとえ明日にはそれを捨ててしまうにしても)誰にも負けない能力を持ち、彼の直観が強いほど、彼は直覚された可能性と融合する。彼は可能性に命を吹き込み具体化する。それは、わざとらしい芝居などではなく彼の運命なのである。

 

しかし、こうしたあり方は自らの生を、いとも簡単に浪費する危険を孕んでいる。彼は確かに人間や事物に命を吹き込むが、そのとき生き生きするのは彼自身ではなく、相手の方だからである。もし彼がその場所にとどまるなら、自らの成果を手に入れることが出来るが、彼はすぐ新しい可能性に惹きつけられて、今植えたばかりの畑を見捨て、全ての収穫を別の人間に譲ってしまうのである。

 

このようにして、結局彼の手元には何も残らないのであるが、そこまでくると、無意識の側も彼に反抗を示すようになる。直観型の無意識は、思考と感情が抑圧され、無意識の中では感覚型と同じように幼児的・太古的な思考内容や感情を呈する。それらは時に、投影の形をとってあらわれ、感覚型と同じように馬鹿げたものではあるが、感覚型に特有な神秘性には欠けているようである。すなわち、

性的、経済的、一応は現実的な憶測、あるいは病気の予感のような、具体的で現実的に思える事柄に関係している。この「ズレ」は抑圧された現実感覚に由来し、例えば、直観型の男性(女性)が、突然ふさわしくない異性に入れ込むといった形をとるが、それはその相手により、未熟な感覚圏を揺り動かされた結果なのである。こうして、まったく見込みのない客体に縛り付けられるが、これはこのタイプの無意識の大きな特徴でもある。

彼は感覚型と同様、自由で気ままな状態を望んでいる。というのは彼は決断の際に、合理的な判断には全く従わず、もっぱら偶然的な可能性の知覚だけを頼りにするからである。彼は理性の束縛から逃れようとして神経症を患い、無意識的な強迫・詭弁・屁理屈に陥り、客体の感受に強迫的に拘束される。

意識的に彼は、感受された対象を超然とした態度で、まるで眼中に無いように扱う。ただしそれは、心に求めず超然としていようと考えた上のことではなく、彼の視線は誰の目にも明らかな現実に向かわず、ただその上を通り過ぎてゆくのである。

 

こうして彼は、いずれ客体の復讐に会う。それも心気症を伴う強迫観念・恐怖症・ありとあらゆる馬鹿げた身体感覚という形をとる。

外向的直観型

自由は決して圧制者の方から自発的に与えられることはない。虐げられている者が要求しなければならないのだ」。➡ キング牧師

 

核兵器廃絶は良くて非現実的、最悪の場合は危険を伴う空想だと批判する人もいる。冷戦による『長い平和』は、核抑止が大戦争を回避してきた証拠だという。しかし私は核兵器の使用を任されていた者として、この意見には断固反対する。核抑止とは難しく、もろいものだ」。➡ ミハイル・ゴルバチョフ

 

ウガンダで人殺しをやったなんて報告は嘘である。私は国民に大いに人気がある。1972年9月に殺されたものもいたが、彼らは反逆者なのだ」。➡ イディ・アミン

 

一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れに勝る」。➡ ナポレオン・ボナパルト

 

タイプ8(統率者)の状態

良い状態=単刀直入、権威がある、誠実、精力的、気取らない、人をかばう、自信がある。

悪い状態人を操る、反抗的、鈍感、放漫、自己中心的、懐疑的、強引。

タイプ8の成長のベクトル⇒タイプ2(人を助ける人、外向的感情型)の肯定的な面に向かう。

・他の人々に打ち解け、自分の弱さをさらけ出すことが出来る。

・他人の幸せに、より多くの関心を示すようになる。

・情け深くなり、優しく穏やかで繊細な面を表に出す。

タイプ8の衰退のベクトル⇒タイプ5(考える人、内向的思考タイプ)の否定的な面に向かう。

・引きこもり、不活発になる。

・自分の感情に触れないようにする。

・周囲の人が自分に反抗するのではないかと怯える

・挫折し、意気消沈する。

・罪悪感を感じ、自分自身を攻撃する。

■(典型的な)外向的直観型の説明

外向的直観型は、「直観」が客体を基にして自らを方向付けるため、客体に対して強く依存するが、依存の仕方が感覚型のそれとは異なる。直観型が向かうのは、皆に認められるような現実的価値ではなく、つねに可能性が存在する方向(未来)である。彼はこれから芽を出すものや、将来の見込みに対して優れた嗅覚を持っている

 

彼は昔から存在し、既に安定した評価を持つものには目もくれない。彼はつねに可能性を追い求めているために、安定した状況では息が詰まってしまうのである。しかし彼は、新しい対象や方向を手に入れるまでは懸命に、時には異常なほど熱狂するが、

いざ目的を達成してしまうと、嘘のように愛着をなくしてしまい、見ないような素振りで冷たく見捨ててしまう

 

たとえその状況が合理的で目的に適っていようと、そして誰もが、そこに安住する方が良いと考えるような状況であっても、かつては自由・解放と思っていた状況そのものが、ある日を境に牢獄に見えだして、彼はそれに逆らうような行動をとり始める。理性も感情も、彼を思いとどまらせることが出来ない。状況によって、新しい可能性がそれまでの信念に背くような場合でも、彼はしり込みしない。彼は、信念を持つために必要不可欠な、

思考と感情が未分化であり、直観の力に対して継続的に抵抗することが出来ないからである。そうであっても直観の優位を補償できるのは、思考と感情しかない。というのは、直観型の人に、

まったく欠けている「判断」を与えてくれるのは、この二つの機能だからである。直観型の道徳性は知的でも感情的でもない彼独自の道徳、すなわち直観を信頼しその力に進んで身を委ねることである。そのため、

平凡な人間の小さな幸福などは、自分自身のそれと同様論ずるには値しないし、周囲の信念や生活習慣をほとんど顧みることがない。そのため彼らは、しばしば非道徳的で思いやりの欠けた、怖いもの知らずの人間と見なされる。

 

彼らの直観は外的な客体に入り、現実的可能性を嗅ぎ取るものであるため、自分の能力を多方面に伸ばせるような職業に就きたがる。商人、実業家、投機家、ブローカー政治家などの多くはこのタイプに属している

伝統的に、このタイプの女性の直観は職業よりもむしろ社交の場で発揮される。こうした女性はあらゆる社会的可能性を利用して、将来性のある男性を瞬時に見出すが、新しい可能性を見つけるや否や、それまでの関係を簡単に投げ捨ててしまう。しかし、

このようなタイプが国民経済や、文化を振興する者として、重要であることは容易に理解できる。この人が利己的な人間でなければ、発起人、少なくとも事柄の開始を促進する者として、多大な利益を上げることが出来る。彼らは将来性のあるすべての少数者の味方である。彼が事業などより人間に関心がある場合は、人々の内に能力や可能性を見出して「人を育てる」人間になることもできる。

 

 

 

 

 

外向的感覚型の無意識

<C・G・ユング著「タイプ論」みすず書房より>

いかなる状況でも直接触れることができる現実があれば彼はホッとする。そしてこの点に関して、彼は奇妙なほど疑いを持たない。心因性の症状があっても彼はそれを天気のせいにする。それに異を唱えたとしても、彼には病的な空想と思われてしまう。彼の愛が客体の感性的刺激に基づくことは疑う余地がない。正常である限り彼は与えられた現実に「常に、目に見えるほどに」順応している。

 

彼は理念的な理想を持たないので、現実に対して冷淡な態度をとることはない。彼の理想は事実に即すことであり、このことは彼のあらゆる外見に表れている。彼は分相応のよい身なりをするし、彼の許へ行けばうまい食事と飲み物にありつけてくつろげる。少なくとも彼のように洗練された人であれば、周囲に多少の要求をしても仕方ないと思わせるものを持っている

 

ところがこの傾向が度を超すと、彼の個性が感覚の陰に隠れてしまい、周囲にとって好ましくない存在になる。彼は野卑な音楽家、あたりかまわぬ過飾の耽美主義者となり、彼にとって無くてはならないはずの客体は非常な暴行を受け消費され、価値を剥奪される。この場合の客体は、もはや感覚をもたらすきっかけに使われるものにすぎなくなる。

客体との結びつきが極端にまで進むと、無意識の側が補償的な役割を捨てて公然と反抗を始める。なかでも彼の抑圧された未熟な「直観」が、客体への「投影」という形をとって動き始める。

すなわちきわめて珍妙な憶測が生まれ、性的な対象に対しては嫉妬や不安感情、より深刻な場合はあらゆる恐怖症、強迫症状が現れる。こうした病的内容は、彼の未熟な精神世界を反映して、著しく「非現実的」な性格をもち、道徳的で宗教的な色彩を帯びていることがよくある。

ごまかしの屁理屈小心な道徳心、そして煩雑な儀式に頼る「呪術的」な宗教心が現れてくるが、これらはすべて抑圧された未分化な機能に由来するものである。このような機能は意識に対し鋭く対立し、病的で馬鹿げた前提に基づくために、極端に原始的な現れ方をする。すなわち、

詭弁詮索好きになり、道徳心は味気ないお説教これ見よがしの偽善となり、宗教は迷信になり、人間の高貴な才能である「直観力」はあれこれ詮索することにのみ使われ、広い世界を知ることではなく、あまりにも狭い人間的小事に向けるようになる。

独特な強迫的心理は、感覚に特化した構えが、道徳的な歯止めを持たないことに対する無意識的な反作用である。そして、意識化されていない分だけ分別に欠け、現れてくるものを無差別に受け入れる傾向を持つ。このタイプは、法則や制限が絶対的に欠けているというものでもないが、意識的判断による本質的な制限というものが、確かに欠落している。

合理的判断とは一種の意識的な強制を意味するものであり、合理的タイプ(思考、感情)は自らにこれを進んで課しているが、感覚型の場合、この強制は無意識の中から襲ってくる。さらに合理的タイプに見られる客体との結びつきは、判断が存在することによって、感覚型が’客体に対して持つような無制約的な関係にはならない

それゆえ、感覚型の構えが異常に一面化すると、客体に依存している分に比例して、無意識の手中に陥る危険性がある。そのため、感覚型がいったん神経症になると、理性に訴えかける方法で治療することが困難になる。医師の働きかけに答えるための機能が充分発達していないので、彼にあることを意識させるためには、感情を揺さぶる強制手段が必要となることもしばしばである。

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