FC2ブログ

生命からの逃走(ネクロフィラス)

スタジオジブリ「ゲド戦記」©二馬力・GNDHDDT

59-435

死は恐ろしーい。こわい、こわい

クモ!お前はぼくと同じだ。光から目を背け、闇だけを見ている。

他の人が「他者」であることを忘れ、自分が生かされていることを忘れているんだ。死を拒んで、生を手放そうとしているんだ。

目を覚ませ!クモ。怖いのはみんな同じなんだ

いやだ。なくなるのはいやだ。じゃまする奴は、消えてしまえ

 

ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則Ⅱ」祥伝社より

人類の文明の初期段階にあっては、優れた罠や道具をつくり、多くの動物を捕えようとする。あたかも生命を奪うことで、自分たちの不死が保証されるかのように。人間の人生の大半は、周りの生き物を、自分たちの体の中に取り込むことで占められている。それは、ただ食物を得るためだけではなく、死を忘れ、死を乗り越えるためなのである。だからこそ、人間の文化は最も原始的な、日々の食料を得るためだけの段階から、今日の段階まで発達してきたわけである。

 

しかし、死は避けがたいゆえに死にたくない。古代の狩猟者以来、人類は身を潜めて待つ法、自然の動きを知る法、季節の変化と動物の動きを予測する法を学んできた。どの時代の文明も、自然を捉えるために、人間を操り進歩させた。そして、すべての自然観の中に「死を超越したい」という激しい焦りがにじみ出ている

 

猟師は、獲物が無尽蔵であることを望む。だから古代の宇宙論では、自然が豊穣な姿で捉えられていた。事実、旧石器時代の猟人は、孕んでいたり、槍で突かれた動物の群れを壁画に残し、新石器時代の先祖は、多産をもたらす女神を生み出した。神の想像した秩序により、世界は隅々まで多種多様な動物で満ちていると考えた、ギリシャ人やキリスト教徒にとっても、自然は豊潤なものでなくてはならなかった。

 

このように、人間はいつまでも、「強くて無尽蔵な自然」というイメージを捨てることができなかった。捨てれば、自分たちの飽くことなき欲望は満たされない。満たすべき自然がなくなるなどとはとても考えられない。自然にも終わりや、限界があるなどという考え方は、人間自身の終末とか無常感を連想させるだけであり、こんなことは最初から意識すまいというのが、長年、人間のとってきた態度なのであった。

 

ナショナルジオグラフィックch「地球が壊れる前に」より

12-646

バッフアローの頭蓋骨(の山)監督これ見て!「どうした?」

毛皮をとる猟師頭蓋骨まで売ってたのか・・・

「そうさ、商売にしてたんだ」何なんだ

「酷いことやってたもんだ」どうかしてる

「この動物が絶滅するってことに、考えが及ばなかったんだろう」。正気じゃない映画のなかでも、こういう場面、描いてほしいな・・・

記事分類
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
リンク
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
はてなブックマーク
このエントリーをはてなブックマークに追加
BlogPeople
投票ボタン ☟
*
ブログ村投票
プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中