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普遍妥当な第二の人格

私が言っているのは実際に無垢な状態でいる、ということです。それは恐怖を持たないという意味であり、その結果、精神は時の推移を経ずに、一瞬にして完璧に成熟するのです。精神は言葉という障害物がないとき、解釈や正当化や非難がないとき注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光です。そしてそのような光である精神だけが恐怖を持たないのです。⇨ クリシュナムルティ



高橋和巳「人は変われる」三五館 より

西田哲学を学び、10万頁もの遺稿を残した大辻桃源は「人間には二人の自分がいる、表面の自分と本当の自分である」と説き、心の奥底にある、変わらぬ主観性をうまく表現している。

人間には二つの面があると思うんです。心理的に見て表面の自分、チョロチョロしている自分と、奥深く存在している、なかなか出てこない自分。この滅多に顔を出さない、お宮の中に納まってる自分が、いつでもちゃんと厳然として、お不動さんみたいに目を怒らせておらんと人間は間違うと思います

 

なるべく早く、今申しました稽古(本当の自分に出会うための「自己教育」)を始める。そう致しましたら、30代から40代には、お宮に鎮まっておる自分が、毎日顔を出すようになって、間違いを起こそうとしても起こせなくなるんです。つまり、心が澄み切ってきて、無駄なエネルギーの消耗がなくなるんです。

 

しかし、そういうものがあることを、皆さんは信じていない確認しておられない。微かにでもそういうものがある。間違いのない、地球が崩れても、この自分は崩れないという、本当の自分があると嘘にせよ考えるだけでも、人間はしっかりしてくると思います

桃源の言っている本当の自分とは、何事があっても厳として動かない、変わらぬ主観性のことである。彼がこのように言い切れるのは、毎日の生活の中で、それを感じ取っているからに違いない。また、本当の自分はお宮の中にいるというのは、本当の自分は普遍的な存在なのだが、ほとんどの人は気づいていないということである。

 

そして、微かにでもそういう自分があると考えるだけでも、人間はしっかりしてくるということの意味は、心の奥深くになる「主観性」というものは、トレーニングが必要だとしても、誰にでも感じることができるということである。


西洋文明の残骸



フリチョフ・カプラ「新ターニングポイント」工学社 より

新しい自然観の予言

19世紀に展開された電気ならびに磁気に関する現象の発見と研究は新しい自然観を予告するものだった。マイケル・ファラディとクラーク・マクスウェルは力という概念を、それよりずっと繊細な力の場という概念で置き換えてニュートン物理学をはじめて超えるとともに、場にはそれ自身のリアリティがあって、それは物質的なものを引き合いに出さずに研究できることを明らかにした。この理論は電気力学と呼ばれ、そこから、光は実は急速に振動する電磁場で、波の形をとって空間を移動しているものであるとの認識が生まれた。

 

19世紀、物理学者は蒸気機関などの熱機関の研究を通して「複雑さの科学」--熱力学ーーの系統的記述を完成させていった。

◎熱力学の第一法則=エネルギー保存の法則。ある過程に関係したエネルギーの総量は常に保存される、というものである。エネルギーはきわめて複雑にその姿を変えるが、決して失われることはない、というわけである。

 

◎熱力学の第二法則=エネルギーの散逸に関する法則。第二法則によれば、自然現象にはある種の向き時間の矢)がある。たとえば力学的エネルギーは散逸して熱になるが、それを完全に元に戻すことは出来ない。熱湯と水を混ぜ合わせればぬるま湯になり、両者は決して分離しない。同様に、白い砂と黒い砂を混ぜれば灰色の砂になり、よく振って混ぜ合わせれば、それだけ灰色が一様になる。しかしこの二種類の砂が自然に分離するような事態は、決して起こらない

 

孤立した物理的な系はいかなるものも、無秩序を増大させる方向へ自発的に進行する。この物理的な系の進化の方向を表現するため、ルドルフ・クラウジウスはエントロピーという新しい量を導入した。第二法則によれば、孤立した系では、エントロピー(すなわち無秩序)は増加し続け、最終的には系が「熱力学的死」として知られる最大エントロピーの状態に達する。この状態に入ると、すべての活動は止み、物質は均一に分布し、同一温度になる。

 

19世紀の終わりに、宇宙を小さなビリヤード・ボールが動き回る機械論的システムと見るニュートン力学は、既にほころびを生じ始めていた。20世紀最初の30年、相対性理論と量子論という物理学におけるふたつの発展が、デカルト的世界観とニュートン力学の主要な概念を、ことごとく粉砕した絶対的な空間と時間硬い基本的な粒子根源的な自然現象自然の客観的模写ーーこうした概念はどれも、物理学がまさに入ろうとしていた新しい領域へ拡張することはできなかった

 

なぜなら、古典力学に従えば、宇宙はそのような最大エントロピーの状態へ向かいつつあると定義され、やがて活力を失い、ゆっくり停止するということになるからである。


フロイトとユング:外向型と内向型

新たに知るより、考え方を変える方が重要だ。➡デヴィッド・ボーム

 

ナショナルジオグラフィックch「ジーニアス・世紀の天才アインシュタイン」より

10-411

君のお父さんだって人間なんだぞ、間違いを犯すことだってある。精神医学を学んでいるなら、君が分析してみろ。自分自身になんて言う

自分の父親が、偉大で血も涙もない人間なら、自分なんか存在価値がない。

君はお父さんのことを、典型的な怪物に仕立て上げた。だがそれは本当に正しいのか

41-223

フロイト博士を心から崇拝してるんだろ

そうだ、彼がペテン師なんて言わないでくれ!人間の心理を誰よりも理解しているはずだ。

私もそう思っていた。実際に彼は父親のような人だった。だがあの頃、私は若くて自分のエゴが邪魔をした。口をきかなくなってから随分とたつよ。かなりひどいことを言ってしまった。許しを請うほど謙虚になれなかった。許されるだろうか?私は彼を許せるだろうか

 

アンソニー・スティーヴンス「ユング」講談社選書メチエ より

彼が発見したのは「こつ」つまりオデュッセウス、ヘラクレス、オルフェウスのように、意識を充分に保ったまま地下世界へ降りて行く「こつ」であった。そうやって地下世界へ降りて行ったときに出会った二つの人格は、サロメと名乗る若くて美しい女性と、白い顎髭とカワセミの羽をもったフィレモンという名の老人だった。

 

ユングは彼らを二つの元型ーー永遠の女性と老賢者ーーの具象化と見なすようになった。そうした人物像との会話を通じて、彼は決定的な洞察を得たーー心の中で起こることは意識が作り出したものではなく、それらは自分たち自身の生命をもっているのだ、と。

 

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フィレモンは、私自身ではない一つの力を表していた。空想の中で私は彼と会話した。彼は、私が意識的に考えたのではないことを述べた話しているのは彼であって私ではないことを、はっきり見てとった。彼はこういった。

 

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お前は自分の考えを、まるで自分で作りだしたかのように扱うが、私から見れば考えというものは、森の中の動物や、部屋の中にいる人間や、空中にいる鳥のようなものだ』と。そして、こう言い添えた。

 

部屋の中に人々がいるのを見たとき、おまえは自分がその人たちを作ったとか、自分のおかげで彼らが存在しているなどとは考えないだろう心の客観性や心の現実性を教えてくれたのは、彼だ。➡

(ユング自伝)より

アニマとアニムス


 

ジョン・A・サンフォード「見えざる異性」創元社 より

アニマは男性の情緒のみならず、思考にも干渉する。アニマに取りつかれた男性は、自分の意見だけを主張して、事実に対する配慮も、関係性や理論に対する配慮も欠落してしまう。彼の議論は、いらだたし気で情緒的に色づけされた、不合理な意見の海の中に沈み、理性的な話し合いなど到底不可能な状態になり果てる。

 

ユングは自伝「思い出、夢、思想」のなかで、無意識を活性化する、いわゆる「能動的想像」の技法を用いたときに、この破壊的なが語りかけてくるのを聞いた。

 

これらの空想を書きとめながら、ふと自問した。「私は一体何をしているのか?これは科学とはまったく関係のないことだ。それなら、いったいこれは何なのか?」そのとき、私のなかで、ある声が聞こえた。「それは芸術です」と。私はびっくりした。いま自分が書きとめていることが芸術に関係あるなどと、ついぞ考えたことがなかったからだ。それは、私の患者で、才能ある女性の、精神病質者の声だった。彼女がいつのまにか、私の心の中で生きていたのだ。

 

私はこの声に対して、断固として主張した。私の空想は芸術とは何の関係もない、と。すると、心のなかに強い抵抗を感じたが、もう声は聞こえてこなかった。そこでさらに書き続けた。すると、再び声が襲いかかって来て「それは芸術です」と同じ主張を繰り返した。今度は私は、彼女を捕まえて言ってやった。「いいや!これは芸術なんかではない!反対に、これこそ自然なんだ」と。私はさらに論戦するつもりで身構えた。

 

私は、女性が内側から干渉してきたことに大いに興味をそそられた。それになぜ、その声を女性のものと考えたのだろうか。後になって私は、男性の無意識のなかでは、内なる女性が一つの典型的な、元型的役割をしているのに気づくようになった。その内なる女性を、私は「アニマ」と呼んだ。

 

最初に私の関心を強く引いたのは、アニマのこの否定的な側面だった。私は彼女に少なからぬ畏怖を覚えた。まるで部屋の中に目に見えない存在を感じ取るかのようだった。アニマの言葉には狡猾さに満ち満ちているように思えた。もし私が、無意識からのこれらの空想を芸術と考えていたら、それは、ちょうど映画を見ているときのように、映像として知覚するだけで、それ以上に何かを確信させる力はもたなかっただろう。そして、アニマは容易に私にこんなふうに信じ込ませたかもしれないのだ。

 

私は理解されない芸術家であり、私のいわゆる芸術家的本性が、私に現実を無視する権利を与えてくれているのだ、と。もし私がアニマの声に従っていたら、アニマは多分あるとき再びこう言ったに違いない。「あなたがやっているそのくだらないこと、それが本当の芸術と言えるでしょうか?芸術とはまったく別のものです」と。このようにして、無意識の代弁者であるアニマの暗示は、男を完全に破壊することもできるのだ

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地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
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