普遍妥当な第二の人格
私が言っているのは実際に無垢な状態でいる、ということです。それは恐怖を持たないという意味であり、その結果、精神は時の推移を経ずに、一瞬にして完璧に成熟するのです。精神は言葉という障害物がないとき、解釈や正当化や非難がないとき注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光です。そしてそのような光である精神だけが恐怖を持たないのです。⇨ クリシュナムルティ
高橋和巳「人は変われる」三五館 より
西田哲学を学び、10万頁もの遺稿を残した大辻桃源は「人間には二人の自分がいる、表面の自分と本当の自分である」と説き、心の奥底にある、変わらぬ主観性をうまく表現している。
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人間には二つの面があると思うんです。心理的に見て表面の自分、チョロチョロしている自分と、奥深く存在している、なかなか出てこない自分。この滅多に顔を出さない、お宮の中に納まってる自分が、いつでもちゃんと厳然として、お不動さんみたいに目を怒らせておらんと人間は間違うと思います。
なるべく早く、今申しました稽古(本当の自分に出会うための「自己教育」)を始める。そう致しましたら、30代から40代には、お宮に鎮まっておる自分が、毎日顔を出すようになって、間違いを起こそうとしても起こせなくなるんです。つまり、心が澄み切ってきて、無駄なエネルギーの消耗がなくなるんです。
しかし、そういうものがあることを、皆さんは信じていない。確認しておられない。微かにでもそういうものがある。間違いのない、地球が崩れても、この自分は崩れないという、本当の自分があると嘘にせよ考えるだけでも、人間はしっかりしてくると思います。
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桃源の言っている本当の自分とは、何事があっても厳として動かない、変わらぬ主観性のことである。彼がこのように言い切れるのは、毎日の生活の中で、それを感じ取っているからに違いない。また、本当の自分はお宮の中にいるというのは、本当の自分は普遍的な存在なのだが、ほとんどの人は気づいていないということである。
そして、微かにでもそういう自分があると考えるだけでも、人間はしっかりしてくるということの意味は、心の奥深くになる「主観性」というものは、トレーニングが必要だとしても、誰にでも感じることができるということである。