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誠実と協調性の遺伝子

知るぽると(日本銀行情報サービス局内)脳科学者・中野信子「脳のことをちょっと意識すると毎日が変わってきます」より

日本人の性格はかなり特徴的で、際立っているのは誠実性と協調性です。つまり、そういう人たちが、子孫を残しやすかったということ。開放性・外向性の高い人たちは、長い歴史の中で、然るべき理由によって数が減ったと考えられます。

 

日本が島国であること、地震などの災害が多いこと、そして稲作文化の国であるという環境が大きく影響しているのではないかと中野さんは言います。自分1人が生き延びることよりも、配偶者を得て安定的に遺伝子を伝えていくには、誠実性・協調性の優れた人のほうが有利であったのではないかと。

 

1人勝ち上がることを運がいいと思うのか、自分の子孫を残していくことを運がいいと思うのか。人々の幸福度についての国別ランキングを見ると、日本はいつも低く出ますね。これは、欧米の尺度で幸福度を測っているからなのです。それは自分の成功、アチーブメントです。日本はどうかというと、あまりここには重きを置かず、自分が誰かにどれだけ必要とされているか、愛されているか、認められているか、そういうところを幸福度の重要な柱として捉えます

 

こうした性格の違いは、脳の違い、遺伝的バックグラウンドにも原因があると言います。例えば脳内のドーパミンという物質を代謝する酵素の違いにより、ドーパミンが長く脳内に残るか、早く代謝されてしまうかの差が出ます。後者が多い日本人には、あまり自分で意思決定せず人に合わせるタイプが多く、その割合はなんと73%だそうです

 

■ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

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タイプ6は、ひとたび個人や集団に身を委ねると、自分で責任を引き受けることを恐れ始める。彼らは、集団の基準に忠実に従うことで安全を感じたいと思い、行動する前には他の人の承認、特に権威の象徴の承認を得たいと思う。タイプ6は自立していないし、そうしたいとも思わない。彼らは、その権威の象徴(人物であることが多い)が人間であれ、一連の基準や信仰であれ、権威によって設定される境界線を欲しがる

 

彼らが身を委ねるべき「人々に対する健全な忠誠」は、依存へと堕落してしまっている。通常のタイプ6は、何をすべきか命令されると気分が楽だと感じ、他のどの性格のタイプよりも、人生のあらゆる重要な物事に対し彼らに指針を与えてくれ、すべてを包み込む権威に従順であることで、安全を感じようとする

 

彼らは権威に疑問をもつことはない。なぜなら、人は誰でも個人の責任を果たすべきであるという重圧を、感じなくてすむからであり、通常のタイプ6にとって、これはむしろ喜ばしいことなのである

「集団主義」の遺伝子

われわれにとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、分かり切ったレッテルを貼る人々である。⇨ バートランド・ラッセル


■ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

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しかし、これには二つの重大な欠点がある。第一は、通常のタイプ6は、命令されたからその通りにするという傾向をもつ。盲目的な服従は、個人にとっても、集団自体にとっても最大の利益にはならない

              第二に

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他の人々が、自分と同じように真剣に規則や権威の象徴に従わなければ、彼らは気に入らない。他の人々が同じくらい従順、あるいは忠実でなければ、彼らを怒らせるだけではないーーーーそれは彼らを脅かす

 

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タイプ6は、タイプ6固有の連続性に従って、全く異なる<段階>から<段階>へ移動することを覚えておく必要がある。この段階では、人々が自分をどのように感じているか知ろうと、権威を含めた他の人たちを試す。(それは同時に、自分の本当の気持ちと、自分がどう感じているかを知ることの手段でもある)そのため、

 

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また、彼らは自分の欲求と接触していないため、自分自身の判断で物事を行ったり、自分で決定することができない。彼らはいたずらに騒ぎまわり決心することができず、自分が本当にやりたいことがわからないため、念を持つことができな

 

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母性社会の病理

エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊国屋書店 より

最深層の母親固着は「近親相姦的固着」の段階⇨ 共生関係で結びついている人は、寄主(宿主)なしには生きていけない。そして、その関係が脅かされると、彼は極度に不安を感じたり、怯えたりする(統合失調症の場合、その関係が分離すると突如として分裂的崩壊が起こる)

 

「その人なしでは生きられない」ということの意味は、その寄主といつも一緒にいなければならないということではない。稀にしか会わなくても、その寄主が死んでいてもかまわない(その共生は「先祖崇拝」という形をとって合理化されることもある)。

 

その結合は、感情的・幻想的なものである。共生関係で結合している人にとって、自分と寄主に当たる人とに明確な一線を画することは、不可能でないにしても非常に難しい

 

彼は相手と一体であり、彼女の一部であり、彼女と混合しているような気がするのである。共生の形態が極端になればなるほど、本来分離したものであるということを、認識することが難しくなる。共生的関係の形態は、共生的人間が自分のほうが宿主より優れていると感じることもあれば、劣っていると感じる場合もあり、さらに平等だと感じている場合もある。しかし、彼らは分離しては生きられない

 

この共生的結合は、母親と胎児の結合を想像すれば、最もよく理解できる。極端に退行した形態では、無意識の欲望は、実際に子宮へ戻ろうとする欲望である。往々にしてこの願望は、海で溺死したいという願望(または恐れ)とか、大地に飲み込まれてしまう恐怖のような、象徴的形態をとって表現される。それは完全に個としての存在を喪失し、再び自然と合一したいという欲望である。

 

その結果、この深い退行的欲望は生の願望と葛藤するようになってくる。子宮の中に存在することは、生を離れて存在することである

 

近親相姦的絆は、母の愛に対する願望よりも、母の破壊性に対する怖れよりも、フロイトが考えた「エディプス的絆」よりもはるかに強く、かつ根源的なものなのである

 

近親相姦的固着

 

エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊国屋書店 より

近親相姦的な固着の病理は、明らかに退行段階のものである。もっとも良性の症例では、女性に依存しすぎるとか、女性恐怖のきらいがあるとかのほかは、それほど口にするような病理はまずない。

 

退行の程度が深くなるにつれて、その依存や恐れはともに強度になる。最も原初的な段階では、依存や恐れの両者が正気の生活と葛藤するようになる。もし私が「へその緒」を切断することに失敗し、そして確実性と保護の偶像を強く崇拝するならば、その偶像は必然的に神聖なものとならざるを得ない。それは他人が批判するべきものではないのだ。

 

もし「母親」が間違いを犯しえないものならば、その人が「母親」と衝突し「母親」に非難されている場合、どうして別の人を客観的に判断することができようか

 

判断力を損ねるこの種の形態は、固着の対象が母親ではなく、家族や国家や民族である場合には、はるかに曖昧で危険なものになってくる。なぜなら、これらの固着が美徳と考えられていて、強力な民族的、宗教的固着からは、偏見や歪曲を伴った判断が生じやすいからである。⇨(それらの判断は偏見にもとづくにもかかわらず、同じ固着を持つ人が共有しているという理由から、真実であると思いこまれている) 

 

理性の歪曲について、近親相姦的固着の第二の病理学的特徴は、完全な人間的存在としての他人を体験することがないということである。同じ血や土地を共有する人々だけが人間と感じられ「異邦人」は野蛮人である。同じ血で結合した集団であるという「具体的現実」でしかヒューマニティを経験しないので、個人としてのアイデンティティが未発達になる。⇨(近親相姦的固着は、退行の程度にしたがって、それだけ「愛する能力」を傷つけたり、破壊したりする

 

第三の病理的特徴として見られるのは、独立性や誠実との葛藤である。母や種族と結びついている人は、自分自身であること自己の信念を持つこと無防備に身を委ねることに自由ではない。

 

彼らは世界に対して胸襟を開くことも、抱擁することもできない。常に民族的・国家的・宗教的な母親固着という牢獄につながれている

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人間は近親相姦的固着のすべての形態から自分自身を開放するにつれて、ただ生まれたものにすぎぬものから前進し、自分自身となる自由をそれだけ持つのである。⇨ エーリッヒ・フロム

集団ナルチシズムの処方箋

 

エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊国屋書店 より

人間の歴史には、絶えず増大する社会化の方向が見られる。同じ血縁を持つ小集団は、共通の言語、共通の社会秩序、共通の信仰を持ったより大きな集団に抱合されてゆく。国家や宗教が「自分たちは特別な存在である」と教え、人々がそれに従うような集団ナルチシズムは、個人の強烈なナルチシズムと同様に悪性である

 

しかし現実には、より大きな集団を形成しようとするときは、血の結合以外に多くの他民族や異民族の人々と協力する必要があり、それは集団内のナルチスティックな傾向と逆向きの作用をする。すなわち、

 

集団(国民・国家・宗教)が、物的・知的・芸術的な分野で何か成就することをナルチスティックな誇りの対象とする場合には、これらの分野における仕事の過程そのものが、ナルチスティックな傾向を弱化するように作用するのである

 

集団ナルチシズムが成長した間に、ヒューマニズムもまた発展した。18~19世紀には--スピノザ、ライプニッツ、ルソー、ヘルダー、カントよりゲーテ、マルクスに至るーー 人類は一つであり、個々の人間は自己の内部に全人類を担っており、自らの特権を生来の優越性にあるとするような特権階級は存在しない --という思想が発達した。

 

さらには、ナルチシズムを浸蝕する科学的思考が進化した。科学的方法は客観性とリアリズムを必要とし、世界をあるがままに見て、自己の欲求や恐怖によって歪曲されないことを要求する。また、事実に対して謙虚であり、全知全能の希望を捨てることを要求する。批判的考察、実験、証明の必要、さらには疑問をもつ態度など、これらは科学的探究に特有のものであって、ナルチスティックな志向とは正反対のオリエンテーションである。

 

しかし、高等教育を受けたほとんどの人にとって、科学的方法は大した意味を持たなかったように思われる。高等教育は、ある程度ナルチシズムを緩和し、是正する役割を果たしたが、「教育を受けた」人々のほとんどが、現代の集団ナルチシズムへの熱狂的参加を阻止し得なかった

 

反対に科学は「技術」という新しいナルチシズムを生み出した。科学技術は現代の魔法となり、コンピューター、テレビ、原子力、宇宙旅行などの、新たな夢の創造者となったが、同時に地球環境と生命を破壊する力の所有者ともなった。このナルチスティックな驕り昂ぶりは、人間の自己慢心の新たな対象となった。

 

倫理的・精神的見地からナルチシズムを考えれば、次の一言に集約することができる。すなわち⇨ 「自己のナルチシズムを克服することが人間の目的である」。おそらくこの原理が仏教以上に徹底して表現されているものはないだろう。仏教の教義では、要するに人間は妄想から覚めて、自己の真実、すなわち病気、老齢、死についての現実や、身分不相応な欲望は充足し得ないという事実を認識して、はじめてその苦悩から自己を解放しうるということになる。

 

人間は破壊不可能とも思われる自我の妄想を取払い、あらゆる欲望の対象から身を引くことができれば、その時こそ世界が開かれ、世界と完全に関係をもつことが可能になる。心理学的には、悟りを得る過程とは世界と関わることによって、ナルチシズムを生命に置き換えることなのである

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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