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無視された人々

オーウェン・ジョーンズ「チャヴ・弱者を敵視する社会」海と月社

より ⇩

労働者階級が「チャヴ」というクズだけを残して衰退したという考え方は、政治家にとって都合のいい作り話だ。しかし、労働者階級が過去30年間で一変したことは否定できない。かつてのそれは、職場周辺のコミュニティで繁栄することが多かった。構成員はほとんど男性で、父親や祖父の代から生涯一貫してひとつの仕事を続け、そうした仕事の多くはみなから尊敬され、給料もよかった。労働者はたいてい組合に所属し職場で実際に影響力を持っていた。

 

現在の労働者階級は、ひとつだけ、かつての労働者階級と似ている。それは、他者のために働く人々であり、自分の仕事を左右できないという点だ。仕事は総じて昔より清潔で、あまり体力を要さないが、重いものを持ち上げないぶん、タイピングが速いことが重視される。

 

彼らは事務所や店、コールセンターで、おおむね昔より低賃金で不安定な仕事をしている。金融危機の前ですら賃金は上がらず、むしろ多くの場合下がった。多数の労働者が職を転々とし、その回数は増す一方なので、コミュニティへの帰属意識、一体感、仕事に対する誇りはなくなった。雇用条件はたいてい悪く、とりわけ臨時雇いになると、実質的に権利は全くない

 

労働者全体が組合に属しておらず、交渉力は過去に例がないほど弱くなっている

 

1950年代には、ポケットに組合員証を入れ、青い制服を着た男性の工場労働者が、まさに労働者階級の象徴だった

 

これに対して、現代を象徴する労働者階級、低賃金のパートタイムで働く女性の在庫補充係は、テレビ画面や政治家の演説からも、新聞の投書欄からも、ほとんど姿を消してしまった。保守党党首デイビット・キャメロンは、2010年の総選挙期間中に「無視された多くの人々」について語った。このレッテル以上に、イギリスの労働者階級を的確に表しているものがあるだろうか。

 

現代のイギリスには階級は存在しないとふるまうことには、油断のならない側面がある。いまわが国では、「メリトクラシー」や「才能と実行力があればだれでも成功できる」という考えに、どこかの政治家や評論家が敬意を捧げない日はまずない。悲しむべき皮肉だが、社会制度が中流階級にいっそう有利なように作られたことで、階級のない社会という幻想がすっかり定着してしまったのだ。

 

しかし現実には、イギリスはこれまで以上に階級化されている

新自由主義の破綻



中村讓(日本教職員組合委員長・生活研理事)「明日への視角:新自由主義経済政策の破綻と教育」生活経済政策2009年4月号 より

 

新自由主義経済政策が世界的に破綻した。新自由主義は「競争と効率と成果」を第一価値としている。禁欲を美徳とするピューリタニズムが内包されていないこの資本主義的価値観は、規制が緩和されるやいなや暴走し、社会の全てを市場化しようとした。

 

まさしく「聖域なき構造改革」として、それは社会的合意とケアを必要とする医療、年金、介護などの福祉、そして教育にまで及んだ。結果、社会的セーフティネットである公共サービスが弱体化し、今日、社会問題化した「貧困と格差」はこうして生まれた。実体経済から遊離した虚構のマネーゲームの破綻から私が考えさせられるのは、二つのことである。

 

一つはハゲタカを飛ばしていたのは世界各国の有名大学、例えばオックスフォード大、ケンブリッジ大、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学などの修士課程や博士課程修了という最優秀な学歴を持ち、さらにハーバード大学のMBA(経営学修士)の資格を持った者たちの集まりだったことである

 

ハーバード大学は東海岸の名門大学であり神学に基礎を置いて開校したというのもなんとも皮肉な話だが、偏差値信仰の強い日本の「学歴と教育」のあり方として考えさせられる。

 

もう一つは、想像力の問題である。如何にして利益をあげるかに持てる能力を全開させ、実体経済との乖離、実際の人々の生活に思いを馳せなかったのか、気づきはあっても無視したのか。確率2分の1で失敗した場合にどのような事態を引き起こすか、そうした想像力はなかったのか、あったのかという問題である。高い給与が保障され、エリート意識をくすぐられ、競争に煽られれば自社の利益以外は見えなくなったのか。

 

学歴を第一とする「古い成功モデル」に代わる「新しい成功モデル」は、人間の息遣いが分かる生活観を内包させたものであって欲しい。経国済民--国を治め人民の生活苦を救うことが経済である。その政策と仕事に携わる者には「自己責任」ばかりではなく、社会的責任も意識してもらいたい

新自由主義の呪縛

 

1986年、イタリアでマクドナルドの第1号店ができた時、各地でさまざまな反対運動が沸き起こった。これがスローフード運動誕生のきっかけになったことは有名だが、反対理由のひとつは、マクドナルド側が日曜日にも営業しようとしたことだった

 

カトリック教徒にとって日曜日は安息日、労働を休んで神に祈りをささげる日である。現在、確かに日曜ミサの出席者は少なくなっているが、それでも日曜日になると、男も女も大人も子供もおしゃれをして、教会のある広場には出かけていき、社交を楽しんでいる。テレビやラジオでミサの中継を聞いている人も多い。イタリアでは日曜日から宗教的なニュアンスが消えてしまったわけではないのである

⇨ 国立民族博物館:労働と宗教(5)-日曜日は安息日?より

 

■新自由主義をとった国はみんなダメになっている:ひょう吉の疑問(ブログ・新聞・テレビ報道は何かおかしい。「授業でいえない世界史」連載中)2009-01-10より

 

サッチャー、レーガン、それに追随した日本。新自由主義をとった国はみんなダメになっている。イギリスは90年代には労働党のブレアへと梶を切ったが(サッチャーは保守党)、アメリカと日本はレーガン路線を継承し、止めどなく新自由主義を推し進めた。

 

その政策の誤りが昨年10月のサブプライムローンに端を発するアメリカ発の金融危機ではっきりした。構造改革の誤りもはっきりした。おかげでアメリカも日本もガタガタである。ところがスウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国は元気である。これらの国は、日本が新自由主義だと騒いでいるときにも、はっきりとそれとは一線を画し、独自の路線をとってきた。

 

これらの国の経済が平坦であったわけではない。旧ソ連に近いこれらの国は、90年代のソ連の崩壊の際にはソ連への輸出が落ち込み、経済的に手痛い打撃を受けた。日本がバブル崩壊で経済不況にあえいでいたのと同じである。にもかかわらず新自由主義をとらなかった。もちろんそこには旧ソ連の影響のもと、社会主義の影響が強かったこともある。

 

しかしもう一つ考えなければならないことは、宗教の違いである。アメリカ・イギリスはプロテスタントの中でもピューリタン(カルヴァン派)の国である。それに対して北欧は同じプロテスタントでもルター派である。その大きな違いは職業(労働)に対する考え方の違い である。カルヴァン派は富の追求や利潤追求を肯定した特異な宗教である。

 

カルヴァン⇨ロック⇨スミス、という流れの中で古典派経済学は成立した。新自由主義はその古典派経済学の焼き直しである。ルター派にはそういう考え方は発生しない。北欧諸国は、むしろカルヴァン派の先鋭化しすぎた職業労働観に対して、その矛盾点をずっと感じていたのではないか。そういう意味ではアメリカ流の新しいものに何にでも飛びつく日本型資本主義と好対照をなしている。

勤勉・禁欲・倹約の「影」

下層中産階級にはその歴史を通じて、特徴的ないくつかの特性があった。すなわち、強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。彼らの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。⇨ エーリッヒ・フロム


 

■「勝ち組」に異常にこだわる人の深層心理

カルヴァンの考えはルターと同様に福音主義であった。しかし、彼は「救済」について一歩進め、➡ 人が救済されるのは、予め神によって定められた予定であって(予定説)、人は自分の救済については、ただひたすら自分が救済される側にあると信じることができるだけだ、とした。そして「救済」についての確証は、➡ 各人が社会生活によって「成功」することであると説き、社会的成功は勤勉・禁欲・倹約によって得られる、とした。(水村光男「この一冊で世界の歴史がわかる!」三笠書房 より)

 

カルヴァンが死んだとき、カルヴァン主義はルター派より、すでにはるかに広まっていた。臆病で病的なカルヴァンは<神の唯一の栄光>の名において、人間の導き手の使命を果たしていた。このことは、彼がしばしば非難された頑固一徹であることを証明していた。

 

カルヴァンは人間の本性について根源的なペシミズムを示している。まず人間は、もともと自由であったが、神と一体になって初めて永遠の生命を獲得することができた。しかし神に従わない人間は反逆者、つまり「誘惑者(サタン)」の犠牲になった。それを乗り越えるために何も企てることはできない唯一、神が発する恩寵が、その隷属状態から解放させるのだ。

 

この神の至高性を肯定するカルヴァンは、それゆえ絶対的な救霊予定説を表明するようになった。この説は彼の後期の著作に表れ、現在のカルヴァン主義者は保留なしには同意していない。(ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」より

 

宗教改革におけるカルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって


人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。


このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれてきた。⇨ 世界史の窓「世界史用語解説・授業と学習の窓」予定説 より


進化論の確証バイアス

ダーウィンは、自分の姿を自然という鏡に映して見ている一人のブルジョアにすぎない。⇨ オットー・ランク(精神分析医)


ダーウィンも、他の科学者と同じように、当時の社会のイメージで自然を分析した。⇨ ジョン・C・グリーン(歴史学者)

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■ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則Ⅱ」祥伝社 より


自然観とは、一般に信じられているものとは逆に、他の生物との関係や死の運命を認めたくないという、人間の強烈な願望を反映したものである。

 

私たちは物心がつく前から、ダーウィンの教えの中で育ってきた。この世の中はすべて競争であり、戦いを勝ち取りながら生きてゆくのだと教え込まれてきた。「食うか食われるか」の世界にいる以上、他人より優れていなければ生き残れないのだと、言われ続けてきた。「弱肉強食」「適者生存」という目標を立て、それに向かって突き進むことは善であり、自分の利益の追求が、社会にとってもプラスをもたらすのだと言い聞かされてきた

 

そしてチャンスは誰にでも訪れるのだが、それを利用できる「適者」だけが成功するのだと教えられてきた。そうした「常識」はすべて進化論から「派生」したものであり、以後これらは人間社会の真実とされてきたのである。

 

なぜここまで来てしまったのだろうか。この問題を理解するためには、歴史をさかのぼり、ダーウィンが進化論を思いつくに至るプロセス、さらに、ダーウィンに閃いたとされるインスピレーションが、その時代の思想家にもみられたこと、また、ダーウィンの発見したことは自然の原理ではなく、実は産業革命を迎えたイギリス工業化社会の理念と同じであったということを検証する必要がある。

 

ダーウィンはこれを自然界に重ね合わせて、拡大解釈して見せたにすぎず、それゆえ、産業革命とその時代の終焉は、ダーウィニズムの終焉にもつながるのである。それとともに、今や私たちの生き方も自然観も、完全に変化しようとしている

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貧富の格差の拡大する社会は、病んでいる。少数の富裕者が蓄財に励み、貧困者はほとんど消費できない。「自由貿易」による国際間競争のため、企業はコスト、特に人件費を削減する。賃金の低下により消費が鈍化し、「消費の歯車」が停止して、資本主義は滅びる。⇨ ラビ・バトラ(経済学者)

 

企業の存在理由は主に、投資家への利益還元です。それは、四半期ベースという短期的な視野で、少数の金持ちをさらに肥やすということだ。だが、そうである理由はない。⇨ ジョン・パーキンス(もと経済ヒットマン)

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

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