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差別の装置としての学校

怪物は一定の外的状況に対して、その反応を予期することのできない人間のことである。怪物は単なる悪党ではない。むしろ善人ではない。両方の面を具えているというよりも、見る人によって、どちらともとれるようでなければならない。もっとわかりやすくいえば、要するに怪物とは「一筋縄ではない」人間のことである。怪物とは、平凡人の頭では簡単に因数分解できそうもないようなメンタリティをもった人物のことである。したがって、善人とか悪人とかいう道徳的な基準によったものではない。⇨ 大宅壮一「昭和怪物伝」

 

講座・差別の社会学2「日本社会の差別構造」弘文堂:共生へのユートピアとその挫折(学校改革運動の「近代」と「反近代」佐藤学より

 

共生と差別の装置

学校は、*二つの対立するイメージが交錯しあう場所である。一方で学校は、階級、階層、民族、性などの差異を払拭して、人々が同一の文化を共有し一堂に会する空間であり、共生のユートピアとして組織された場所である。しかしもう一方で、学校は、個々人の競争と選別を組織し、階級、階層、民族、性などの差異を再生産する序列化と排除と差別の装置でもある。

 

*二つの対立するイメージ

「学事奨励に関する被仰出書」(1872年・太政官布告)

身分、階級、階層、民族、性、年齢の差異を超越した「人民一班(華士族、農工商、婦女子)」の教育の実現。その一方で、        

➡「身を立つるの財本(もとで)」-教育を個人の投資として規定し、立身出世の競争と差別の装置としての学校の設立を言明。

 

「学制(1872年・文部省)」➡29もの科目と試験によって落第と進級を振り分ける方式で生徒を組織。

「小学校令(1900年)」➡落第と進級による学級の編成を学年制に再編。授業料の国庫負担により義務教育を財政的に基礎づける一方、貧困な児童と障害を抱えた児童には「就学猶予」と「就学免除」という転倒した措置を講じて差別と排除を公定した

 

太政官」という前近代の装置によって宣告された共生のユートピアと、「文部省」という官僚組織によって公定された排除と差別の機能、この二つが相克する近代の学校は、以後、いくつもの幻想と神話とルサンチマンが交錯する舞台となる

 

この共生のユートピア幻想と差別と排除のルサンチマンの両者を一身に背負い、壮大な教育改革を構想し実践した人物がいる。*平凡社の創始者、下中弥三郎である。

*『平凡パンチ』や『an・an』等を出版していた「平凡出版」とは異なる。(Wikipedia)

 

--下中弥三郎(1878~1961)

・最初の教員労働組合である「啓明会」を組織(1919年)。

・「学習権」を宣言ー大学までの完全無償化と入学試験の廃止、文部省の官僚的統制の廃止と教育員会制度の樹立を主張(1920年)、「無産者」の開放を実現する「万人労働の教育」(1925年)という脱学校のユートピアを提唱。

排除からの出発

講座・差別の社会学2「日本社会の差別構造」弘文堂:共生へのユートピアとその挫折(学校改革運動の「近代」と「反近代」佐藤学より

 

下中の共生ユートピアは、学校から排除された体験を基礎にしている。寺子屋と立杭焼と農業で生計を立てる農家に生まれた下中は、二歳で父が死去、八歳で祖父も死亡し家と田畑を失う。小学校を三年で修了すると、登り窯の共同使用権を頼りに陶工の仕事に就く。

 

19歳で高等工業学校窯業科への進学を目指すが、学歴が不十分で進学の希望を絶たれ、まず教員検定試験を受験し小学教師を4年間勤めたのち上京。「児童新聞」「婦女新聞」の編集、日本女子美術学校の経営、埼玉師範学校を経て、36歳で平凡社を創設

 

10歳で学校を終了して以降、下中の社会への参入はすべて、検定試験と出版と人脈という学校外の評価システムを通してであった学校を放逐された少年期の体験は、下中の生涯の行動を決定したと言ってよい

 

下中の生まれた丹波今田村は、明治維新の二年後に大規模な一揆が発生した寒村であった。その風土と伝統が維新の精神を刻印し、反近代と反権力の情念を培ったと考えられる。青年期の彼は、六種の漢籍(漢文で書かれた本)に没頭し、西郷隆盛の維新の精神と塙保己一(江戸時代の国学者)の言行録に傾倒している。

 

文部省の統計によれば、下中が学校を去った1888年の就学率は47%(男子63%、女子30%)、上京し出版メディアに就職した1902年は92%(男子96%、女子87%)である。学校教育は日清、日露戦争の間に急速に普及、国民教育の体制を完備した。その後、国民教育を主体化する国民運動が展開され、その一つが教育ジャーナリズムであり、大正自由教育の運動だった。

 

下中が関与したジャーナリズムは、学術的色彩を売りにした教育雑誌とは異質なもので、編集した「児童新聞(1902年)」は児童向けの新聞であり、「婦女新聞」もまた数少ない女性向けの雑誌だった。また、1909年から1912年までに下中は六冊の、通俗道徳を教える漢籍を出版している。下中の本や新聞は、学校の対抗文化であり代替物だったのだ

ユートピア構想の模索と矛盾

講座・差別の社会学2「日本社会の差別構造」弘文堂:共生へのユートピアとその挫折(学校改革運動の「近代」と「反近代」佐藤学より

 

下中弥三郎の功績に関しては、教員労働組合の組織や学習権や教育委員会制度や完全無償の公費教育や入試制度の全廃や脱学校論の主張のいずれもが日本で最初の提案であることから、その画期的な構想力と情熱的な活動に高い評価が与えられてきた

 

しかし、下中はもう一方で「*大亜細亜主義」と「*すめらみこと信仰」を提唱して「*国家社会主義」を推進した中心人物であった

 

彼は、*大政翼賛会の第四委員会(文化・出版係)と第六委員会(教育・思想関係)の委員長、日本精神文化研究所の顧問、出版報国団の顧問などを歴任し、戦前、戦中、戦後を通して、軍部や右翼に関係する多数の組織の要職を担った人物である。

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*大亜細亜主義ー欧米列強のアジア侵略に対して、アジアの団結を図ろうとする主張。明治の初期における民権論と国権論、欧化主義と国粋主義の対立は、日本の膨張主義が生み出したものであり、この風潮のなかから大アジア主義は生み出されてきたといえる。(平凡社/世界大百科事典 )

*すめらみことー天皇を敬って呼ぶ語。( 三省堂/大辞林 )

*国家社会主義ー資本主義社会の矛盾を国家の手によって解決しようとする思想と運動。国家の干渉によって社会主義的要求の一部を実現しようとするもの。マルクス・レーニン主義が国家の死滅を説いたのに対し、国家の統制機能は永遠であるとした。19世紀末のドイツで発展し、ビスマルクの社会政策などにも見られる。ナチズムはこの思想を極端化したもの。(平凡社/百科事典マイペディア)

*大政翼賛会ー1940年10月に第2次近衛文麿内閣により、新体制運動を推進するために創立された組織で、総力戦争を遂行するために一国一党制を実現させようとしていた軍に対し、国民各層の有力な分子を結集して軍に対抗できる強力な国民組織をつくろうとしたもの。しかし、次第に近衛の思惑をはずれ、政府に指導される公事結社として、行政補助機関のようなものとなり、東条英機内閣では国民統制組織としての色彩を強めた。(ブリタニカ国際大百科事典)

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このように左右の政治活動と文化活動を多面体のように逐行した下中は「昭和の怪人(大宅壮一による)」と呼ばれている。しかし、次の三つのことでは一貫していたことに留意したい。

 

1、差別と排除の装置としての学校の破砕と教育の構築を生涯追及し続けた。

2、「人類愛」「無産者の開放」「世界一教」などで表現される主旨の「大亜細亜主義」を貫いた。

3、教育・文化・政治において活躍した下中であったが、徹頭徹尾、出版メディアの人だった。

ルサンチマンの民主主義

講座・差別の社会学2「日本社会の差別構造」弘文堂:共生へのユートピアとその挫折(学校改革運動の「近代」と「反近代」佐藤学より

 

下中の「革新性」は、天皇制イデオロギーによる共生ユートピアの所産ではなかったか。「革新性」を高く評価される「教育改革の四綱領(1920年)」にしても、「明治天皇の御聖旨(五箇条の御誓文)」を基礎とするとされているし、「人民一班」の教育という超近代のユートピアも「太政官布告」という天皇制の装置において提唱されているのだ

 

教育を受くる権利<学習権>は、人間権利の一部なり」と述べた下中のユートピアも、五箇条の御誓文を前提として提唱されたのである。この特徴は、下中の反近代・反資本主義の思想とも対応している。下中において反近代は反西洋を意味していた

 

彼は「近代文明に毒せられた人々」は労働を蔑視し倫理を見失っていると主張し「文明開化は俺達には他国人だ」「俺達には、あの魔術のような素晴らしい近代産業の大組織は全く無用なのだ」と言う。「百般の労働の中、最も純真な生産労働である農業そのもの」と表現されたように「無産者」とは資産のない農民を意味し、生産労働は農業労働を中心に考えられていた。この反近代、反資本主義の教育を下中は「万人労働の教育」という脱学校論において表現したのである。

 

下中の「万人労働の教育」という「教育ユトピア」は、経済的な富や文化財の所有における絶対的平等を求める思潮を基調としていた。そのユートピアの原型を下中は、農民であり立ち杭焼きの陶工であり寺子屋の先生でもあった、亡き父の生活に見出している。下中の父は「野外で陶器に釉薬を施したり、畑を見回ったり、田の水を見に行ったり」して「滅多に子供の傍らにいなかった」と言う。兄弟子が年少の子を教えていたのであり、教師は生産に従事していたのである。

 

近代の学校が分割した労働と教育が混然と一体化した前近代の学校が、「教育ユトピア」の原型であった。この寺子屋風の小学校における「万人労働の教育」は「農村中学」と「農村自由大学」にも継承されるものとして構想されている。

 

絶対的平等を主張する下中の「生存権」と「学習権」の主張が近代の人権思想とは質的に異なる点にも留意しておきたい。まず第一に、彼の「生存権」と「学習権」は人権の拡大ではなく、むしろ縮小、すなわち「無産者(農業者)」による「無産者以外の人々」の抑制と統制を正当化する論理へと帰結している。

 

他の人間が飢えているときに、他の人間が飢えないでいる権利はない」「貧乏をするならば、誰もが貧乏をするべきだ」というのが、下中の「生存権の論理」であり、「道理」であった。この「ルサンチマン民主主義」とも呼ぶべき絶対的平等の「論理」と「道理」によって、彼のアナキズムは農本主義へと連なり、国家社会主義(ファシズム)を導いたのである。

教育政策は政治経済の動向とリンク

しおちゃんマン★ブログ/学校現場への応援歌「教育政策は政治経済の動向とリンクしている」 より


軍国主義への反省から民主主義への担い手を育成する科学的考え方を教えようとした戦後の数年間。新憲法のもと、個人の尊厳、真理と平和の希求、個性豊かな文化の創造を掲げた教育基本法(1947)が。学習指導要領試案では、自らの興味関心を伸ばす、主体性重視、教師の自主的な創意工夫が掲げられていました。


しかし、朝鮮戦争がはじまり、東西冷戦が激しくなりました。警察予備隊の起ち上げ(1950)、池田ロバートソン会談(1953)をきっかけに、愛国心、国主導の教育統制に転換、ソ連のスプートニク打ち上げ(1957)で西側の危機感が強まり理数科教育重視等、経済界の発言力が強まりました


1960年池田総理大臣が所得倍増計画を打ち出し、経済発展における教育の役割の重視。ハイタレントマンパワー育成を合言葉に取り組まれました。この頃に第一次学テ(全国中学校一斉学力調査)、教員の勤務評定問題が社会問題になりました。


不正発覚と学校現場の強い反対運動により学テは中止に。それ代わりに民間業者がその役割を担うようになり、それが偏差値を生み出しました。


1964年東京オリンピック。よい学校を出て良い企業への意識がますます高まりました。学力競争が激しくなり塾ブームに。生徒の輪切りや学校の序列化が進みました


1968年日本のGNPは世界二位に。学習指導要領の改訂では、内容を増やし、より難しい学習を進めることになりました。小学校に関数や集合が、理科でも抽象的な思考が求められました。その中で「落ちこぼれ問題」が発生。


1974年オイルショック。就職競争の激化と受験年齢の低年齢化。落ちこぼれ問題をきっかけとした校内暴力問題が全国に吹き荒れ、それを強い管理と細かな校則で取り締まろうとした学校の間に、その後様々なトラブルが発生していきます

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地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中