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無力さへの恐れ-1

「何の音だった?」あれは、悲鳴だった。子供の声のような悲鳴
「君はどうした?」私は階下に下り外へ出て、そっと納屋に近づき、恐る恐る中をのぞいたの
「そこで何を見たんだ?」子羊よ。悲鳴を上げてた
「子羊たちを殺してたのか?」悲鳴を上げてた
「それで逃げた?」いいえ、子羊を逃がそうとゲートを開けたわ。でも、子羊たちは全然逃げないの
「だが君は逃げ出した?」子羊を1頭抱えて必死で逃げたわ
「どこへ行った?」分からない。食料も水もなく、とても寒かった。凍えそうに。少なくとも1頭だけは助けたと思ったけど、とても重くてダメだった。ほんの数キロ逃げて、保安官に捕まったわ。怒った牧場主は、私を施設へ送ったの

「君が連れ出した子羊は?」殺されたわ
「今でも時々目が覚める?明け方に目覚めて子羊の悲鳴を聞く?」

⇨ レクター博士とFBI捜査官・クラリスの会話「羊たちの沈黙

 

 

■A・ローウェン「ナルシシズムという病」新曜社 -幼年期の屈辱と家族の権力闘争 より

私の所へ来るナルシシズム的な患者はみな、子供のころ、権力をコントロールの手段として用いる両親によって、深い屈辱感を味わされた経験を持っている。多くの場合、権力とは物理的な力である。両親は子供を無理やり服従させるために、自らの優越した物理的強さを用いるからである。

 

お尻に平手打ちをくらわせることは、そうした身体的虐待のごく一般的な形態であるが、叩くために無理やり服を脱がせてお尻をさらさせる場合には、子供に対してとくに屈辱感を与えることになろう。子供がヘアブラシやベルトで叩かれることも珍しくないが、それは不必要に残酷な扱いだと思う。

 

罰を与えるための道具を取ってこさせたり、逃げようとしたら罰を増やすと脅かされたりして、屈辱感が増大する場合もある。あたかも子供には痛さを表現する権利もないんだとばかり、子供が泣くとますます強く叩く親もいる

 

たいていの場合、罰は攻撃という性質をはるかに超えて、権力の証明とみなさざるを得ないようなものであった。「将来お前が私に歯向かうことがないように教えてやる」というわけである。ときには罰の中にサディスティックな要素を見つけることもあった。それは、実のところ子供に苦痛を与えることを親が楽しんでいることも、患者の話が表しているような場合である。

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

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