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中産階級の敵意と反感

キリスト教と、ドイツ社会の統制の取れた階層的構造とが、ドイツ人の無意識の中に潜むヴォータン的な要素を抑圧していた。ヴォータンは、嵐と狂気を司る情熱的で非合理的な戦いの神であり、その暴力的な精神は人々の心をつかみ、逆上させ、血と破壊を渇望させる。そうした恐るべき元型の痕跡が、今や動き出している、とユングは訴えた。1936年、ユングはあえて異端的な説を述べた。すなわち、「ヴォータンの性格の底知れぬ深さの方が」経済的原因や政治的原因にもとづいた説明よりも「国家社会主義をよく説明できる」と。⇨ アンソニー・スティーヴンズ「ユング」講談社メチエ より


エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

我々はこれまで、主として中産階級にいきわたっていた、不安と無力感について述べてきた。いまや、ごくたまにしか触れることのできなかったもう一つの特性を、検討しなければならない。それは敵意と反感である。中産階級が激しい敵意を持っていたことは驚くに当たらない

 

すでにみたように、中産階級は全体として、またなかでもとくに、台頭する資本主義の恩恵を受けなかった人々は、深刻な脅威を受けていた。また彼らの敵意を募らせていたもう一つの要素がある。それは、教会の高位にあるものをはじめ、少数の資本家たちの見せびらかす、奢侈(しゃし)と権力である。しかし敵意と羨望とは募りながらも、中産階級の人々は、下層階級の人々のように、それを直接表現することはできなかった。下層階級は自分たちを搾取する金持ちを憎み、彼らの権力をくつがえそうと望んでいた。こうして彼らは憎悪を感じ、表現することができた。上層階級もまた、権力欲によって、その攻撃性を直接に表現することができた

 

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中産階級の人間は本質的に保守的であった。彼らは社会を安定させようとしたのであって、それをくつがえそうとは思わなかった。誰しももっと繁栄し、全体の発展にあずかりたいと望んでいた

 

そのため敵意を表面に表すことはできず、意識的に感ずることさえできなかったそれは抑圧されなければならなかった。しかし、意識を抑圧することは、ただ敵意を意識することを除くだけであり、敵意そのものを取り除きはしない。そのうえ、閉じ込められた敵意は、直接的に表現されないままに、パーソナリティ全体にも、他人に対する関係にも、また自己に対する関係にも、いきわたるまで増大した。

ーー合理化され、変装した形をとって

 

ルターやカルヴァンは、この広くいきわたった敵意をえがいている。それはこの二人が、人間的にみて、歴史の指導的人物、とくに宗教的な指導者の中で、もっとも憎しみにとらえられた人物であったばかりではなく、さらに重要なことは、このような敵意でいろどられた彼らの教義が、抑圧されて激しい敵意に駆り立てられていた人々にだけ、訴えることができたという意味においてである

 

この敵意のもっとも著しい表現は、彼らの神の概念のうちに、とくに、カルヴァンの教義のうちに見出される。我々は誰でもこの考えをよく知っているが、神というものをカルヴァンのように専制的で残酷なものと考えることが、何を意味するかは十分に理解していない。カルヴァンの神はあるものを永劫の罪に定めた(予定説)が、ただそうすることが神の力の表現であるということ以外には、そこには何の正当性も理由もなかった

 

もちろんカルヴァン自身は、この神の概念にたいして、当然予想されるような反駁にも心を配っていた。しかし正義と愛に満ちた神の姿を維持しようとして彼がおこなった微妙な理論は、全然納得できるようなものではない。人間のうえに絶対的な権力をふるい、人間の服従と卑下とを要求するこの専制的な神の概念は、中産階級自身の敵意と羨望とを反映したものである


カルヴァンの亡霊

人生に暗示を見つけられなければ、人生に打たれる。⇨ ユング

 

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

救済か永劫の罰かは、人がこの世で善行を積んだか、悪行を犯したかの結果ではなく、人間が生まれてくる以前から神によって予定されている。神がなぜあるものを選び、他のものを罰するか、それは人間が探ってはならない秘密である。神は、ただ神の無限の力を示したかったから、そうしたのにすぎない。

 

カルヴァンの神は、神の正義と愛という観念を、できるかぎり保存しようと努めているにもかかわらず、愛も正義もまったく持ち合わせない専制君主の姿を呈している。予定説は心理的には二重の意味がある。

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予定説は個人の無力と無意味の感情を表現し、強めている。人間の意志と努力とが価値がないということを、これほど強く表現したものはない。人間の成し得ることは、なに一つ存在しない。人間は神の手の中にある無力な道具である。

 

この教義のもう一つの意味は、非合理的な懐疑を沈黙させる働きにあるが、予定説の教義は一見したところ、懐疑を沈めるよりも強めるように思える。個人は前にもまして、彼が誕生以前から永劫の罪に定められているか、救済に定められているかを、知りたいという疑惑にさいなまれるのではなかろうか。

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自分の運命がどのようなものかを、人間はどのようにして確信できるのであろうか?カルヴァンはこのような確信の具体的な証拠なにも教えなかったが、彼やその帰依者たちは、選ばれた人間であるという確信を実際に持っていた。このような確信を持っていれば、予定説の教義は、もっとも安定を持つものであった。

 

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一旦救われていることになれば、その救済の状態を危機に陥れるようなものは何もなかった。というのは人間の救済は、彼自身の行為によるものではなく、生まれる以前にすでに定められているからである。さらに、根本的な懐疑は絶対的な安定性の追求を導いた。

 

しかし、懐疑は依然として背後に残されたままなので、自分の属している宗教団体こそ、人類の中で神に選ばれた人々であるという、一層強められた狂信的な信念によって、(懐疑は)繰り返し沈められなければならなかった

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カルヴァンの予定説には、ここではっきりと指摘しておくべき一つの意味が含まれている。というのは、予定説はもっとも活き活きとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活したからである


格差と差別、排除の原理

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

 

予定説はもっとも活き活きとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活した。すなわちそれは、人間の根本的な不平等という原理である。カルヴァンにとっては二種類の人間が存在する。すなわち、(絶対的権威によって)救われる人間と、(絶対的権威によって)永劫の罰に定められている人間である。この運命は彼らの生まれてくる以前に決定され、この世におけるどのような行為によっても、それを変化させることはできないというのであるから、人間の平等は根本的に否定される。

 

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不平等に造られているという原理は同時に、人間の間にはどのような連帯もないことを意味している。というのは、人間の連帯性にとって、もっとも強力な基盤となる一つの要素が否定されているからである。すなわち人間の運命の平等である。カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれた者であり、他のものはすべて神によって罰に決定された人間であると考えた

 

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この信仰が心理的には、他の人間に対する深い軽蔑と憎悪を表すことは明らかである。実際に彼らは、その同じ嫌悪を神に対しても抱いていた。近代思想は人間の平等をますます肯定するようにはなったが、カルヴィニストの原理は決して完全に黙してしまったわけではない。人間はその人種的背景によって、根本的に不平等であるという原理は合理化された同じ原理の確認である。心理学的意味は、まったく同一なのである。

 

ルターの教えと異なるもう一つの大切な点は、道徳的努力と道徳的重要性を、一層激しく強調する点である。個人が自らの行為その運命を変えることが可能というのではなく努力できるということそれ自体が、救われた人間に属する一つの証拠なのである。

 

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獲得しなければならない徳とは、謙譲と中庸、だれでも当然その分け前を与えられるという意味での正義、人間を神に結び付ける敬虔である。さらにカルヴィニズムが発展すると、道徳的生活と絶え間ない努力の強調がなされ、努力の結果としての成功が救済の印であるという考えが、重要視されるようになる。

 



結局予定論というのは、神さまの絶対主権、神さまがすべてを支配してらっしゃるという、この立場は擁護しているようでありますけれど、実際には、特権階級をつくって、神さまの愛と公平さを疑わせてしまうような、そういう理論のように思えてしまうんですね。そうしてこの、自分たちは選ばれたものである、自分たちは神さまに特別に愛された選民なんだ。こういう特権意識、選民意識というものが、実は、古代イスラエルを祭祀の国としての役割を見失わせた原因であったわけですね・・・・

躁的防衛

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

 

道徳的生活をとくに強調することは、カルヴィニズムの特徴であったが、しかしそれはまた特殊な心理的意味をもっていた。カルヴィニズムは絶え間ない人間の努力の必要を強調した。人間は絶えず神の言葉に従って生活し、その努力を怠ってはならない。この教えは、人間の努力が彼の救済にとって、何の役にも立たないという教義と矛盾するように見える

 

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どのような努力もしないという宿命論者の態度が、はるかにふさわしいように思われるであろう。しかし心理学的に考えれば、そうでないことがわかる。不安の状態無力と無意味の感情、とくに死後の世界についての懐疑は、誰にもほとんど耐えられないような精神状態を示している。このように恐怖に打たれた人間は、誰でも、努力を怠ったり、生活を楽しんだり、また未来に起こることに無関心であったりすることはできないであろう

 

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この耐え難い不安の状態や、自己の無意味さについての委縮した感情から、逃れることのできるただ一つの道は、カルヴィニズムできわめて優勢になった、まさにその特性だけである。すなわち熱狂的な活動と、何かをしようという衝動の発達である。このような意味の活動は強迫性を帯びてくる。個人は疑いと無力さの感情を克服するために、活動しなければならない。このような努力や活動は、内面的な強さや自信から生まれてくるものではない。それは不安からの死に物狂いの逃避である。

 

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このメカニズムは、個人が恐怖に襲われているとき、容易く見ることができる。数時間のうちに、自分の病気(おそらくは致命的な)について、医師の診断を受けようとしている人間は、当然不安の状態に置かれる。大抵彼は、静かに腰を下ろして待つようなことはしない。もしその不安が、彼を委縮させなければ、多かれ少なかれ、熱狂的な行動に駆り立てられるだろう

 

どのような行動であれ、日常的なそれよりも、より活発で、より熱狂している。なぜかというと、彼は不安にそそのかされているのであり、熱狂的な行動により、無力感に打ち勝とうとしているのである


強迫的で過剰な努力

白人は冷酷に思える。目はじっと見つめるような表情。いつも何かを探している。だが、何を探すのだ?白人はいつも何か欲しがる。いつも不安で落ち着かない。何を欲しがっているのか、我々にはわからない。どうかしていると思う。⇨ マウンテン・レイク(アメリカ先住民のシャーマン)


エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

カルヴィニズムにおける努力には、なおもう一つの心理的意味があった。あの絶え間ない努力に疲れないという事実、また世俗的な仕事だけでなく、道徳的な行為においても成功するという事実は、多かれ少なかれ、選ばれた人間の一人であるという、はっきりした証拠であった。このような強迫的な努力が非合理的であるというのは、その活動がある望ましい目的を作り出すためではなく、

 

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個人の活動や支配とは無関係にあらかじめ決まっている事柄(カルヴァンの予定説における、救われる人と救われない人)が、現れるかどうかを確認するために役立つと言われていることである。このメカニズムは強迫性障害の、よく知られた特徴である。

 

強迫性障害の人は、ある重大な仕事の結果を恐れるとき、その答えを待つ間、窓や街路樹の数を数えたりする。その数が偶数であれば吉、奇数であれば凶などと考えたりするだろう。このような懐疑は、特殊な場合だけでなく、しばしば、人間の全生涯に関係している

 

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それゆえ、「前兆」(もっているという兆し)を求めようとする強迫感も、全生涯にいきわたっている。石を数えたり、ひとりカルタをしたり、賭けをしたりすることが、不安や懐疑と結びついていることに、人は気が付かないことがある。漠然とした不安な感情から、人はひとりカルタをするであろう。

 

カルヴィニズムでは、努力のこの意味は宗教的教義の一部であった。それは最初は本質的に道徳的努力と関係していたが、のちには職業上の努力や、この努力の結果である、仕事上の成功や失敗に一層重点がおかれるようになった

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成功は神の恩寵のしるしとなり、失敗は罰のしるしとなった。このことを考えると、絶え間ない努力や仕事への衝動は、人間の無力さについての根本的な確信と矛盾しない。むしろそれは、当然の結果である。こうした過剰な努力や仕事は、予定説が前提である場合、運命を変えるものではない。なぜなら、予定説に従うならば、運命は絶対的な神によって定められてしまっているからである。

 

努力や仕事は、ただ予定された運命を知るための手段でしかないが、同時に、狂おしい努力は、それ以外の方法では耐えることのできない、無力感に安堵を与えるものであった。⇨ フロム




すべての動機をもってしても、最後の決定は私たち、自分たちが下すという点なのです。なぜならば、腐敗の素地があった、過去における専制君主制のような、神の命令に反した誤った体制でさえ、私たちは逸脱するよう強制されることはなかったと、明らかに感じるからです。私たちは、どのような体制下においても、賄賂を受け取らないということができましたし、退廃した場所に足を踏み入れない、ということが可能でした。このことのために、逸脱した文化の中に育ち、あるいは、ふさわしくないものを創造したにもかかわらず、他の人たちが歩んだ道を離れ、その環境に対し立ち上がり、あるいは革命を起こしたような人たちが、数多くみられるのです

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地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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