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強迫的で過剰な努力

白人は冷酷に思える。目はじっと見つめるような表情。いつも何かを探している。だが、何を探すのだ?白人はいつも何か欲しがる。いつも不安で落ち着かない。何を欲しがっているのか、我々にはわからない。どうかしていると思う。⇨ マウンテン・レイク(アメリカ先住民のシャーマン)


エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社 より

カルヴィニズムにおける努力には、なおもう一つの心理的意味があった。あの絶え間ない努力に疲れないという事実、また世俗的な仕事だけでなく、道徳的な行為においても成功するという事実は、多かれ少なかれ、選ばれた人間の一人であるという、はっきりした証拠であった。このような強迫的な努力が非合理的であるというのは、その活動がある望ましい目的を作り出すためではなく、

 

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個人の活動や支配とは無関係にあらかじめ決まっている事柄(カルヴァンの予定説における、救われる人と救われない人)が、現れるかどうかを確認するために役立つと言われていることである。このメカニズムは強迫性障害の、よく知られた特徴である。

 

強迫性障害の人は、ある重大な仕事の結果を恐れるとき、その答えを待つ間、窓や街路樹の数を数えたりする。その数が偶数であれば吉、奇数であれば凶などと考えたりするだろう。このような懐疑は、特殊な場合だけでなく、しばしば、人間の全生涯に関係している

 

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それゆえ、「前兆」(もっているという兆し)を求めようとする強迫感も、全生涯にいきわたっている。石を数えたり、ひとりカルタをしたり、賭けをしたりすることが、不安や懐疑と結びついていることに、人は気が付かないことがある。漠然とした不安な感情から、人はひとりカルタをするであろう。

 

カルヴィニズムでは、努力のこの意味は宗教的教義の一部であった。それは最初は本質的に道徳的努力と関係していたが、のちには職業上の努力や、この努力の結果である、仕事上の成功や失敗に一層重点がおかれるようになった

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成功は神の恩寵のしるしとなり、失敗は罰のしるしとなった。このことを考えると、絶え間ない努力や仕事への衝動は、人間の無力さについての根本的な確信と矛盾しない。むしろそれは、当然の結果である。こうした過剰な努力や仕事は、予定説が前提である場合、運命を変えるものではない。なぜなら、予定説に従うならば、運命は絶対的な神によって定められてしまっているからである。

 

努力や仕事は、ただ予定された運命を知るための手段でしかないが、同時に、狂おしい努力は、それ以外の方法では耐えることのできない、無力感に安堵を与えるものであった。⇨ フロム




すべての動機をもってしても、最後の決定は私たち、自分たちが下すという点なのです。なぜならば、腐敗の素地があった、過去における専制君主制のような、神の命令に反した誤った体制でさえ、私たちは逸脱するよう強制されることはなかったと、明らかに感じるからです。私たちは、どのような体制下においても、賄賂を受け取らないということができましたし、退廃した場所に足を踏み入れない、ということが可能でした。このことのために、逸脱した文化の中に育ち、あるいは、ふさわしくないものを創造したにもかかわらず、他の人たちが歩んだ道を離れ、その環境に対し立ち上がり、あるいは革命を起こしたような人たちが、数多くみられるのです

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

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