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カルヴァン主義の不寛容性

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明日に向けて/福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。:2015/08/29カルヴァン主義の不寛容性(スコットランド啓蒙思想に学ぶー3)より

清教徒の不寛容性

イギリスのピューリタンはカルヴァン主義に依拠し、国王を頂点とするイギリス国教会の、新教と旧教の折衷的なあり方を鮮烈に批判していましたが、そのことが結束力の強さももたらしていました。


とりわけ信仰心の篤い信徒だけで構成し、「良家の師弟でなければ指揮官になれない」という当時のイギリスの習慣をも破ったクロムウェル率いる「鉄騎兵」は当時のヨーロッパの中で最強と言われる軍団を形成しました。


この鉄騎兵のもとにピューリタンは国王の軍隊を次々と打ち破りましたが、市民革命の成功の後には、カソリック教徒の多かったスコットランドやアイルランドにも無慈悲に攻め込み、特に後者のダブリンへの侵攻では4000人の無差別殺戮が行われました


後年、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバー(1864~1920)が、カルヴァニズムの禁欲主義と不寛容性こそが資本主義社会を作り上げる原動力となったという考察を『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で展開しました。


ウェーバーはカルヴァン派が自らを神に「選ばれたる者」と認識しており、それ以外のものを救う対象どころか神に見捨てられたものだとするきわめて極端な考え方に支配されていたことを指摘しました。


しかもカルヴァン派のもともとの教義では、神の意志は絶対であり人間の行いによる変更は不可能なものとされていました。そのため実は「選ばれたる者」とそうでないものが、誰なのかも本来、人間には知り得ないことになります。


ウェーバーはこの教義のため、選ばれた者とそれ以外のものの差は「現世から外面的に分離されていた中世の修道士の場合よりも原理的に一層架橋しがたく、また目に見えないだけに一層恐ろしいものになった」と指摘しています。


「隣人の罪悪に対する場合、選ばれた者、つまり聖徒たちが神の恩恵に応えてとるべきふさわしい態度は、自分たちの弱さを意識して寛大に救助の手を差し延べるのではなく、永遠の滅亡への刻印を身に帯びた神の敵への、憎悪と蔑視になったから」です。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫版p207-208)


自由意志の完全否定

もともと「宗教改革」の中で登場してきたカルヴァンは、バチカンを無視し、教会勢力を批判する中で、神の強烈な絶対化を掲げていました。とりわけカルヴァンは、エデンにおけるアダムとイブの堕罪以前に人間の救いと滅びは神によって決定されており、人間のいかなる営為もそれに影響を与えることはできないという「二重予定説」を唱え、人間はその中身も知ることができないと主張しました。


その冷徹な主張は、信徒たちの間に絶大な不安を呼び起こし、やがてただ可能なのは自らが神に選ばれた存在、神の千年王国実現の武器であると確信し、一時も休むことなく神の事業のために働き続けることだという考えを生み出していきます。


ウェーバーはここに、質素倹約に基づき、ひたすら資本の増大にまい進する資本主義的エートスが生まれたと論じたのですが、それはさらに転じて、己は神の武器であり、逆らうものは神の敵だと言う強烈な信念を形成するに至りました。


その意味でカルヴァンの唱える神は、「慈愛」などとはほど遠い存在であり、こうした考え方を信じ込むことからピューリタンは、反対するもののみならず自らに属さないものすべてを神の敵とする強烈なセクト主義を形成していったのでした


もっともこうした不寛容さは、けしてプロテスタントだけのものではなく、イギリスのカソリック回帰をめざした「ブラッディマリー(メアリ1世)」にも顕著なように、キリスト教に共通のもので、各派はこの「不寛容」を誇りとさえしていました


これらを踏まえたときに、正義の名の下の流血にうんざりした人々が、1688年に無血革命=「名誉革命」政府を支持した観点に、キリスト教的な原理を盾にとった過酷な殺戮の体質への批判が価値化されていたことは理解しやすいと思います


これらのことは、例えば宗教的寛容を自由主義の核心として訴えたロックの『寛容についての書簡』などによくあらわされています。ロックは明らかに宗教的対立の克服を目指していたのでした。


そのことは正義の根拠を神におく絶対的正義の立場から、不完全な人間におく相対的正義の立場への移行が始まったことをも意味していました。イギリス経験論はこのようにして非原理的=経験主義的な立場をとっていったのでした。

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佐藤蓼丸

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