FC2ブログ

MAD MEN


1960年代のニューヨーク、マディソン・アヴェニューにある大手広告代理店を舞台に、そこで働く者たちを描くドラマである。なお、タイトルである「マッドメン(Mad Men)」とは本作品の舞台であり、現在も大手広告代理店の本社が多いマディソン・アヴェニュー(Madison Avenue)の広告マンを指す造語である。Wikipedia


Huluを知り尽くした管理人が、アニメやドラマなどの様々な情報をお届けhttps://kaigai-drama-eiga.com/2016/06/20/mad-men/より


会社で働いたことのある人ならば、だれでも恥、嫉妬、ねたみなどの感情を感じたことがあるはず。「なぜ、あいつの方が出世するのか?」という疑問は、「欲望」から発生するものです。もっと出世したい、お金が欲しい、モテたい、というような「欲望」は、すべて他人と自分を比較することにより発生してきます。


「あいつより出世したい」「あの子よりモテたい」と、常に他人よりも上になりたいと願うことが、会社という集団社会で生きる私たちの「闇」の部分といえるでしょう。この「闇」部分を、マシュー・ワイナーが、秀逸の脚本力で描いているのがドラマ「マッドメン」なのです。


昼間からオフィスでウィスキーを飲み、たばこを吸いまくる登場人物たち。女性の体つきをからかい、「今晩どう?」なんて誘うことは当たり前だった時代。あくまでも、セクハラという言葉すらなかった時代の話ですので、これから社会に出ていく人たちはご安心を。


と、いっても、よくよくドラマを見ていると「なんか見慣れた光景だ」と感じるシーンもあり、現代社会も60年代もさほど変わりがないのかもしれないと思ってしまいました。現在の職場とはどんなところが違うか、そして同じなのか、比較してみるのも面白いと思います。


■主人公:ドン・ドレイパー/Don Draper

才能あるクリエイティブ・ディレクター。天才的な発想力で数々の印象的な広告を世に送り出す。ドンを目当てに名指しで発注してくるクライアントも多い。人に流されやすい広告業界の中で、紳士的に振る舞おうとしている。俳優に間違えられるほどのイケメン。


女性にはとにかくモテる。人もうらやむ美人な妻と、かわいい子供たちがいるのに、女性との情事をやめられない一見、非の打ち所がない人物のように見えるが、暗い過去を抱えており、それが発覚することを非常に恐れている。イライラして、ペギー(秘書)に八つ当たりすることが多い。


ナルシシズムの蔓延する地獄

日本人はみな、十二歳のこどもだ。⇨ ダグラス・マッカーサー




★現代ビジネス/2018年2月27日:自分に不都合な現実をみとめない人々(堀有伸・精神科医) より

筆者が「日本的ナルシシズム」という言葉を強調するようになったきっかけがある。それは、うつ病などの症状が出現しているのにもかかわらず、決して自分の心身の異常という現実をみとめようとせず、逆にそれを指摘する筆者のことを、激しく軽蔑して攻撃するような姿勢をみせた患者や会社にくり返し出会ったことだ。結果としてうつ病が慢性化して難治化することがあり、時には自殺などの事故の可能性を高めてしまう。そのようなパーソナリティーの成立には、東京電力のような日本型企業における、1940年体制のシステムで価値が高いとされた健康や献身・忠実などの価値観への過剰な同一化と、そうでない弱さ・不健康といった人間的な側面についての否認と憎悪が大きな影響を与えている。その価値観を奉じる企業に同一化しなければ、その組織内で生き残ることができないのだとしたら、それに適応せざるを得ないだろう。そして、それに過剰適応した者が、有利な結果を得やすい日本社会の状況が、数十年間持続していた結果として、2011年の原子力発電所事故が発生したと考えている。


集団ナルシシズム

私たちは一人であり、全員である。始まりであり、終わりである。⇨  *ボーグ・クイーン「スタートレック・ファーストコンタクト」


エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊國屋書店より

集団ナルチシズムは、個人のナルシシズムより発見が難しい。仮にある人が、「私と私の家族は、世の中で一番素晴らしい人間です。私たちだけが清潔で聡明で優秀で、そのうえ上品です。他の人はみな不潔で馬鹿で不正直で責任感がありません」と言えば、たいていの人はその人を無神経で、バランスの崩れた人だとか、あるいは狂人だとさえ思うだろう。


にもかかわらず、狂信的な演説家が「私」と「私の家族」を『国家』『民族』『宗教』『政党』に代えて大衆にその優越性を語れば、その人は愛国心や神への崇拝などの理由によって、賞賛され尊敬される


しかし他民族や他宗教は、自分たちが軽蔑されているという明白な理由から、この種の演説には激怒するのが普通である。しかし、友好集団のなかでは、各個人のナルシシズムが集団ナルシシズムによって正当化され、多くの人々がそれに同意しているという事実から、その演説が一見正当のように思えるのである。


多くの人が「正当である」と考えることは、理性的な判断を経ることなく、世間一般の人たちの考えだから「正義」だと、彼らは考えたがる。統一体としての集団が、存在を保持してゆくために集団ナルシシズムを必要とするかぎり、ますますそれはナルシシズム的傾向を助長し、自分たちは特に優れているという「格付け」を彼らに与えるのである。


集団の成り立ちが未開種族未開血族、あるいは現代においても精神的に貧困な場合、当初は数百人の成員を含むに過ぎないため、個人はまだ個性と独立性をもたず、原始的な結合(近親相姦的結合)によってグループに結び付いている。このようにして、集団ナルシシズムは、その成員が情緒的にいまだその所属する「血族外」では存在しないという事実によって強化されるのである。


集団ナルシシズムの社会学的機能の一つは、構成要員の多くに満足を与えないような社会は、成員に存在する不満を除去するために、悪性型のナルシスティックな満足感を彼らに与える必要がある経済的・文化的に貧困な人々にとっては、その集団に帰属するために生まれるナルシスティックな誇りこそが、唯一の、そして非常に効果的な満足感なのである


人生が面白くなく、また興味を持ちうる期待がないからこそ、彼らには強いナルシシズムが発達してくるのである。このような現象は、ヒトラーのドイツでも見られたし、現在のアメリカ南部に見られる人種問題のナルシシズムにもそれが見られる。


両者とも人種的優越感の核は中産下層階級であったし、現代でもそのことは同じである。中産下層階級は、経済的にも文化的にも被搾取階級であるが、その状況を変化しうるような現実的希望が全くないために、唯一の満足しかもちえないのである。


すなわち我々は世界で最優秀の種族であり、劣等種族と考える他の種族より優秀であるという慢心から生まれる自己像である。こういう集団の成員は次のように感じている。「私は貧乏で教養はなくとも、世界で一番立派な集団に属しているからこそ重要な存在である。つまり白人だからだ」とか「私は、ユダヤ人ではなく、アーリア人だ」と



*ボーグーその最大の特徴は、侵略の対象が「文化」や「技術」その物にある点にある。領土や財貨、個人といった物には興味を示さず、特定の種族の持つ、文明、文化、そのものを吸収同化していくという特徴は、ボーグを従来のSF作品に登場する侵略型エイリアンとは、一線を画す特異な存在へと昇華させた。物語中、ボーグは、同化と呼ばれる強制的なサイボーグ化により、自組織へと他のヒューマノイド(人間)を取り込もうとする存在として描かれた。


ボーグは全メンバーの意識を常時共有している性質上一人称単数の意思は存在せず、常に自分たちの事を「我々」と表現する。これは1人だけを相手にしていてもその個体はこのように表現する。同化の際に「我々はボーグだ」(We are the Borg)、「お前達は同化される」(You will be assimilated)、「抵抗は無意味だ」(Resistance is futile) という一方的通告をする。⇨ ウィキペディアより

暴力の深淵


エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊國屋書店より

生が、構成され機能することにより生長する特徴を持つのに対して、ネクロフィラスな人は、成長しないもの機械的なもの をすべて愛する。そしてまた有機体を無機体に変貌し、生きているものを物体であるかのように機械的に接したいという欲望に駆られる。あらゆる生命過程、感情、思考はすべて物体に変貌される経験よりは記憶が、存在よりは所有がここでは重要なのである。ネクロフィラスな人は、それを所有する場合にのみ花とか人とかを、客体として関与しうるのである。


それ故、自身の所有物に対する脅威は、自身に対する脅威であり、もし所有できなくなれば外界と断絶することになる。それ故、たとえ生を失うことにより所有するものが存在しなくなったとしても、所有するものを失うよりは生を失う道を選ぶという、逆説的反応が見られる。彼は支配を愛し、支配しようとして生を抹殺する


彼が生を深く恐れるのは、生がそのもてる性質上、無秩序で制御しにくいからである。ネクロフィラスな人にとって、正義とは正しき分断を意味し、彼らは自分たちの正義のためには喜んで殺し、喜んで死ぬ。「法による秩序」が彼らにとっての神であり、法と秩序を脅かすものはすべて、自らの至高の価値に対する挑戦と受けとるのである。


生から離れ生に敵対するものは、すべて彼を魅了する。彼は子宮の暗闇、さらには無生物的・動物的な存在の過去に戻ろうとする。彼は本質的に過去を志向し、憎み恐れる未来を志向しない。彼が切望するものは確実性である。


しかし、生は確実なものではなく、予測できず、制御できない。生を統御しうるものとするためには、生は死に変貌されなければならない。事実、死は生における唯一つの確かなものである

戦争の深淵


エーリッヒ・フロム「悪について」紀伊國屋書店より

傷つけられたナルシシズムのため生じた憤怒に、代わりうるものがあるとすれば、それは抑うつである。彼は外界に関与せず、関心も示さない。彼は何者でもなくなる。というのは、彼は外界と関与を持つための自我を発達させてこなかったからである。彼のナルシシズムが酷く傷つけられ、維持できなくなれば、自我は崩壊し、この崩壊の主観的反射が抑うつの感情になる。


しかしながら他人には一層危険だが、その人自身にはより満足のいく、脅威の解決法がもうひとつある。その方法は、現実をある程度まで自分のナルシスティックな自己像と一致するように歪めることである。一例としては、<永久運動機関>を発明したと信じる、ナルシスティックな発明家であり、より重要な解決策は誰か他人の同意を得ることである


そしてできれば、何百万という人の同意を得ることである。前者は<二者の愚行>であるが、後者は何百万もの人の喝采と賛同を得て、自己に潜在する精神的な病の発生を防ごうとする公人である。最もよく知られているのはヒトラーであり、何百万という人に、自分の演出した姿を信じ込ませ、「第三帝国」についての幻想をもたせるなどして、現実を変形させることに成功していなかったら、彼は恐らく精神病と診断されていただろう重症のナルシストだった。


カリギュラ、ネロからスターリン、ヒトラーに至るまで、彼らが自分たちの信者を発見し、現実を自己のナルシシズムに適合するように変貌し、一切の批判を破壊することに必死になったのは、まさにそれが狂気になるのを防ぐためだったが、逆説的にはこういう指導者の狂気の要素が、彼らを成功させることにもなっている


悪性型のナルシシズムの場合、その対象となるものは、その人の行為や制作したものではなく、彼が<所有するもの>である。もし私の肉体・容貌・健康・富のために私が偉大なのであれば、誰に対しても何に対しても関係を持つ必要がなくなり、何の努力もいらなくなる


自分の偉大な姿を維持しようとするほど、彼は現実から離れ、膨れ上がる自我が幻想の産物であることが暴露されないように、さらにナルシシズムを充実させる羽目に陥る。悪性のナルシシズムは自己制限を無視し、世間嫌いになり、唯我独尊に陥る。何も成就したことのない人は、他人の仕事を評価するのが難しく、そのため、ナルシスティックな栄光の中へと孤立せざるを得なくなる

記事分類
地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
リンク
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
BlogPeople
投票ボタン ☟
*
ブログ村投票
プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中