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ガラドリエルの試練

『ロード・オブ・ザ・リング』(原題:The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring)は、2001年の映画。アメリカ・ニュージーランド合作で、J・R・R・トールキン作の『指輪物語』を原作とする実写による作品である。『ロード・オブ・ザ・リングシリーズ』三部作の第1作目。 ⇨ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア』



ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

健全なタイプ4(内向的直観型)は、すべてのタイプの中で、最も個人的な人たちである。彼らは、その感情と衝動がどんなに不穏当で不快であろうと、それに関して自分を欺くことはしないし、欠点や不合理性を進んで他人の前に表す。


彼らが人間的であるのは、その感情が純粋で深いこと、そして、もしそれがなすべき正しいことならば、たとえ痛みを伴うことがあろうとも、自分自身の気持ちに触れてほしいと進んで思うことにある


健全なタイプ4は、自己実現よりも伝統やしきたりを重んずる人たちに非難される危険を冒してでも、個人として自分に忠実であることを気にかける。私たちが健全なタイプ4の中に目にする感情の正直さは、自分自身にあまり素直であってほしくない人々に敵意、あるいは少なくとも困惑を抱かせる。


しかし、健全なタイプ4が社会にもたらすものは、模範となる人間性、誰もが個々の人間であるがゆえに価値があるというメッセージである。


彼らは人々の個性を尊重し、その感情に敏感で、プライバシーを必要としていることに理解がある。タイプ4は他人をコントロールすることなく、人々が独自の道を見つけることを喜んで許す。これは、彼らが良き両親、友人、聞き手、セラピストとなる理由の一つである。


健全なタイプ4は、個人としての自分を意識しているため、自分の独特の違いだけでなく、あらゆるものの違いに対して鋭い感覚をもつ


彼らは孤独ではないが、人生においては、自分が独自の意識を持つ、たった一人の存在であることを理解している。この観点から言えば、健全なタイプ4は、単に個人主義者ではなく、個人としての存在を意識している実存主義者である。


こうしたことすべてには、ある程度の厳粛さが存在するが、健全なタイプ4は、あらゆることを厳粛にとらえるわけではない。彼らは優れたユーモアの感覚を持つ。というのも、人生のより大きな問題に照らしてみれば、人間行動の多くに痛烈な不条理のあることを、彼らは知っているからである。


彼らは、人間、特に自分自身の中に、悪魔と天使、卑しさと気高さを同時に見ることができる。こうした対立物を皮肉交じりに並べれば、それはおかしなものであるが、それと同じくらい心を打つ。人間の条件が持つ不調和は、健全なタイプ4に面白がって首を横に振らせる。そして、彼らが、人間の条件の不調和を、自分自身の中以上に気づいているところは、ほかにない

ホビット荘の住人

『ロード・オブ・ザ・リング』(原題:The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring)は、2001年の映画。アメリカ・ニュージーランド合作で、J・R・R・トールキン作の『指輪物語』を原作とする実写による作品である。『ロード・オブ・ザ・リングシリーズ』三部作の第1作目。 ⇨ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア』


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

意識性と個人性に起因する諸問題

彼らがそれを認めたいか認めたくないかは別にして、タイプ9も単一の個人である。彼らは、その夢のような反意識性の中で生きるうちに、他の人たちとの結びつきを得るよりはむしろ、必然的にそれを失うであろう。その半意識性下において彼らの人間関係は、ほとんど理想化された幻想にすぎない


その認識は、病的な場合には非常に進行するので、現実の客体と主観的認識の区別ができない。そうした行動は、客観的現実とは無関係な幻想に基づく特徴を持ち、きわめて混乱させられるものである。これはこのタイプの現実を遠ざける主観性を明らかにする。

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しかし、その客体のもつ影響力が完全に現われなければ、それは善意の中立状態と出会い、共感はほとんど示さないが、絶えず落ち着きをもたらし順応する。低すぎるものは少し高くされ、高すぎるものは低くされる(平準化、絶対的平等)熱狂には水がかけられ、過度は抑制される。そして普通の状態から外れたものは、すべて正しい基準に戻される。


―これらはすべて、客体が持つ影響力を必要な限度内にとどめるためである。こうしてこのタイプは、自分の環境に対する一つの脅威となる。というのは、その全体的無害性は全く疑いがない、というのではないからである


彼はすぐに他人の攻撃と尊大さの犠牲になる。こうした人は最初は自分自身を侮蔑されるに任せるが、最も不適当な機会に、相手よりも二倍も愚鈍に、そして頑固になって報復する。(C・G・ユング「心理学的類型」内向的感覚型)

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<連続体>の下端では、タイプ9はほかの誰とも同じように、彼らに独自の利己心があるので「その環境に対する一つの脅威」である。もっとも、他のタイプに比べて、他者に順応していることがあまりにもはっきりしているので、タイプ9の利己心は見つけにくい


彼らの利己心がとる独自の形は、多くの価値を進んで犠牲にしようとするその心持ちーある意味では、現実すべてを進んで犠牲にしようとする心持ちである。そうすることによって、彼らはその心の平安を維持することができる。


不安になること、あるいは、なんらかの形で感情的な刺激を受けることは、通常から不健全までのタイプ9にとって、きわめて脅威的なことである。なぜなら、彼らはその感情を意識することに慣れていないからである


実際、いかなる種類の感情的反応も、その反応が不安、攻撃、または、なにか他の原因によるにしろ、彼らの抑圧の完全さを引き裂く。その結果、彼らが利己的にではあるが無意識に支払う代価が、すべての人、すべての物に、ますます目を向けないということであっても、通常のタイプ9はいかなる代価を払っても、平和を探し求める。


彼らは「実情に目をつぶる」ことによって、必死になって平和に固執するため、結局、何事にも対処できなくなる。彼らは問題をやり過ごそうと急ぐあまり、何事にもまともに直面せず、問題は決して解決されない。彼らは人生をまるで夢遊病で歩むみたいに、部位感覚を失う。お粗末な判断をして、ときには悲劇的な結果を生じることもある。さらに、彼らの注意の欠如と現実遊離がもたらす結果を、少なくとも他人は永久には見過ごしてくれない。不健全なタイプ9は、どんな代償を払って避けようとしても、自分のしたことに真正面から取り組まなければならないこともある。彼らはいかに自分が怠慢であったかを直視するよりは、現実から完全に背を向けたい

安定して幸福な子供時代

これらすべての経験は統合され、私は愛されているという経験へと結晶する。私は母親の子供だから愛される。私は可愛い良い子だから愛される。母親が私を必要としているから、私は愛される。これをより一般的な言い方でいえば、私は今のような私だから愛されるということになろう。もっと正確には、私が私だから愛されるということになろうか。母親に愛されるというこの経験は受動的である。愛されるためにしなければならないことは何もない

母親の愛は無条件なのだ。しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子供であることだけだ。母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受け取るための資格もない

しかし、母親の愛が無条件であることには否定的な側面もある。愛されるのに資格が要らない反面、それを獲得しよう、作り出そう、コントロールしようと思ってもできるものではない。母親の愛があるのは神の恵みのようなものであって、もし母親の愛がなく、人生が真っ暗になってしまったとしても、どんなことをしても創り出すことはできない。⇨ エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊國屋書店 より

『ロード・オブ・ザ・リング』(原題:The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring)2001年、アメリカ・ニュージーランド合作。監督・製作 : ピーター・ジャクソン■キャスト /フロド : イライジャ・ウッド、アルウェン : リヴ・タイラー


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

幼児期の原点

子どものとき、タイプ9は、両親もしくはそれに代わる人物を肯定的に同一視した。両親と同一視することによって、彼らの感情面の要求は完全に満たされていたため、両親と自分を区別しようとする衝動はごくわずかであった。


タイプ9は、少なくとも、その性格の様式が形成される初期年代の間は、安定して幸福な子供時代を典型的に送った。彼らの子供時代は、愛着を持ってふり返る詩的で美しい時代、再び取り戻したい時代であった。貧乏や病気や他の災難によって、それまでののんびりした生活がめちゃめちゃになってしまった一時期が、子供時代の終わりにあったかもしれない。しかしそのときまでに、彼らの最も重要な性格構造はすでにしっかり固まっていた。


タイプ9は両親と肯定的に同一視したため、他の人たちと深い同一感をもつことによって、自分の自己感覚(アイデンティティ)を維持することを学んだ。その後の人生では、彼らは、最初に両親との結びつきに非常な満足を味わったのと同じように、他の人たちと結びつき、それに、自分の結びつきの一形式である平和との結びつきを求める。


タイプ9は、自分が同一感を持った相手との分離を最も恐れる。こういう理由で、通常から不健全までのタイプ9は、たとえそれが他人に従属しすぎることを意味するとしても、可能な限りあらゆることをして、自分自身や他の人たちとの間の感情的な絆維持強化する。

『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(原題:The Return of the King)2003年、アメリカ・ニュージーランド合作。監督・製作 : ピーター・ジャクソン■キャスト /メリー:ドミニク・モナハン、エオウィン:ミランダ・オットー、エオメル:カール・アーバン、ギャムリング:ブルース・ホプキンス、セオデン:バーナード・ヒル

典型的な平凡人

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

周りに順応して役割を演ずる人

通常のタイプ9は、進んで自分自身を他者に順応させる。なぜなら、彼らの自己感覚はそこにかかっているからである。相手が理想化されればされるほど、感情的な絆は強くなり、タイプ9が感じている自分自身というものとの一体化を深める。彼らは、子供のために生きる母親、夫のために生きる妻のようになる。もちろん、子供がまだ幼く、母親なしでは生きられないときに、母親が子供の必要に従うことは適切なことである。しかし、子供が大きくなるにつれ、同じように自分を表に出さない態度を続ければ、それは問題となる


通常のタイプ9が相手との一体感を持ちすぎ、その過程において自分自身を見失うことが多すぎるのが本質的問題であるあまりにもたやすく他人の願望どおりにすることが彼らの願いとなり、他人の考えどおりにすることが彼らの考えとなる


相互作用が起こる:彼らは相手に順応するにつれ、相手を理想化する。もし相手が人ならば、その人は決して間違ったことはしない。もしそれが価値とか信念であるならば、それは決して疑われることはない。したがって、通常のタイプ9は、習慣的な役割にすぐに落ち込み、人生で自分の占める場所は役割「夫、妻、稼ぎ手、親、市民」を果たすことであると定義する。


それは誰か他の人から、もしくは、自分の生きている文化によって割り当てられたものである


他の多くの事柄の中で、結婚し、子供をもち、仕事を持ち続けることが期待され、彼らはそのように順応する。彼らの生き方、宗教的、政治的信念、自分自身や子供たちに対する期待は、自分が受け入れた慣習によってすべて定義される


通常のタイプ9は、典型的な平凡人であるとあまりにも適切に考えられているのは、この理由による。彼らは社会の接着剤であり、必要ならばどんな隙間にも進んで流し込まれようとする意志によって、関与した個人にはそれなりの犠牲を払わせることになるが、社会に役立つ。自分の発達については一切考えずに、通常のタイプ9は、習慣的な価値基準と社会の大半の穏健な生活様式を受け入れる。


したがって尊敬されることは、彼らにとって非常に重要なことである。タイプ9は、社会的地位が同じくらいの人たちに負けまいとするよりも、むしろ、社会の尊敬すべき人々の一員であり、適切なことをし、立派な人たちがやらないようなことはしないことのほうに関心がある。


この意味において、通常のタイプ9は一般に保守派であり、家族と宗教と仕事を中心とする伝統的価値を守ろうとする


『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(原題:The Return of the King)2003年、アメリカ・ニュージーランド合作。監督・製作 : ピーター・ジャクソン■キャスト /■ピピン: ビリー・ボイド、ガンダルフ : イアン・マッケラン、デネソール:ジョン・ノーブル、ファラミア:デビッド・ウェナム

海を渡るエルフ

『ロード・オブ・ザ・リング』(The Lord of the Rings)は、J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』を原作とし、ピーター・ジャクソンが監督・共同脚本を務めた叙事詩的ファンタジー冒険映画の三部作である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ユング「タイプ論」みすず書房 より

内向的直観型の人が最も多く抑圧するのは客体の感覚である。このことが彼の無意識を特徴づけている。この感覚の特性は、衝動的で歯止めが利かないことであり、それに加えて感覚的印象に異常なほど縛られている。この性質によって、霞を食って生きている意識的構えが補償されてある程度の重みが与えられ、その結果完全に「昇華」してしまうことを防ぐことができる


ちょうど世界を感覚的にしか捉えない人にとって、世界が道徳的な問題となることが決してないように、直観型の人にとってもイメージの世界が道徳的な問題となることは決してない。世界はこの双方にとって審美的な問題知覚の問題・「感じ」・なのである。


このようにして内向的直観型(タイプ4)の人には、自分に身体が存在することも、それが他人に影響を及ぼすことも意識されなくなってしまう。外向的立場から彼らを批判するならば、「彼にとって現実は存在せず、彼は何の実りもない夢想にふけっている」ということになろう。


無意識のイメージを観照することは、汲めども尽きぬ想像力を生み出すとは言え、もちろん直接役に立たないという意味では非生産的である。しかしこうしたイメージが場合によっては、歴史の新しい流れを促すような見解を生み出す可能性を持っているという意味において、外的世界から最も縁遠いこの機能も、ちょうど同タイプが民族の心的生活にとって欠くことのできないものであるように、心の収支決算全体にとっては不可欠なのである。もしもこのタイプが存在しなければ、イスラエル民族に預言者が現れることはなかったであろう。


内向的直観が捉えるイメージは、ア・プリオリに備わっている・すなわち遺伝によって備わっている・無意識的精神の基盤に由来するものである。これら諸元型の最奥の本質経験によっては捉えられないがこれらは先祖代々営まれてきた心的機能の諸活動の沈殿物・すなわち有機的存在の諸経験が何百万回も繰り返されることによって堆積圧縮されて一定の元型になったもの・を表している。したがってこのタイプは原初の時代からこの惑星で営まれてきたあらゆる経験を代表しているのである。


ところで無意識はけっして心の<死せる残滓>としてそこにあるだけのものではなく、むしろ我々の中でともに生きており、内的変化・すべての現象一般と内的に関連した諸変化・を経験しているのであるから、内向的直観が内的諸価値を知覚すれば、すべての現象を理解するためにきわめて重要なある種の資料が得られる


それどころかこれには新しい可能性だけでなく、後になって現実に生じることを多少なりとも明瞭な形で予見することすら可能であるこれが預言者的な洞察をもたらすことは、これがあらゆる経験可能な事柄の法則的な経緯を表す元型と関係していることから説明がつくのである

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地球ネコ
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
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武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
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