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デルポイの神託

それゆえ、自分自身を知れ、神に任せておくべきではない。人間の真の研究課題は人間である。⇨ アルグザンダー・ホープ「人間に関する小論」


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

なぜ性格のタイプの研究が有意義であるかについては、さまざまな理由があるが、なかでも重要なのは、人間というものがそもそも興味深く、また危険な存在であるということである。なぜなら人間こそこの世界で最も変わりやすく、人を苛立たせ、喜ばせる、不可解なものだからである。


多くの人々ー 家族、友人、街や会社で出会う人、テレビに映る人、自分の空想や恐れの中に存在する人ー と直接、間接に接触しないで過ごすことは、たとえ一日たりとも不可能であろう。あらゆる場所に人間がいて、あらゆる種類の影響ー 善きにつけ悪しきにつけー を私たちに及ぼす。


私たちは、よく知っていると思っていた相手を、実は理解していなかったということに突如として気づいた経験が必ずある。自分自身を理解していなかったということに気づいた経験さえあるかもしれない。他人の行動はー そして自分自身の行動でさえもー 時には異様で心を騒がせる


おかしな行動がひょいと飛び出したり、場違いなことをしでかしたりする。これらの思いがけない行動の中には微笑ましいものもあるが、不愉快で、後々まで不幸な影響を及ぼすようなものもある。


それだけに、人の特質が現れている性格のタイプというものをあまり顧みないでいると、大きな不幸を招く危険を冒すことになる。よく知っていると思っていた人物が実は怪物だったり、どうしようもない自己中心的人物だったことが分かったりするかもしれない


洞察力がなければ、ひどく侮蔑される可能性がある。その逆もまた真実である:洞察力がなければ、ダイヤの原石を見過ごしたり、大切にすべき関係を断ち切ってしまったりするかもしれない


しかし、問題は他人の性格を見抜くことには誰もが熱心であっても、自分自身をそれほど積極的に見つめようとする人はほとんどいない、ということである。私たちは、他の人々を動かす動機は知りたいが、自分自身に関してのギクリとするようなことを発見するのは恐れている。


現代の競争社会は、古代デルポイの神託命令の重点を「汝自信を知れ」から「他人の精神分析をせよ」に移してしまった。私たちは、X線で透視したように他人の内部を見通したいものだと思うくせに、他人には自分の弱点や欠点を知られたくない


私たちはすべてを逆さまにしている。これを正すには、他人に対しては主観的に、自分に対しては客観的になれといったキルケゴールの助言を思い出せばいい。すなわち、他人の行動を判断するときは、自らを相手の立場に置き、他人が自分自身や自分の世界をどう見ているかを理解するように努め、自分の行動を判断するときは、他人の目で自分を見るようにし、自らに情状酌量の余地を見つけるような安易さを克服するべきである。


それには、自分を見つめるときには自己愛自己欺瞞を、他人を評価すときには皮肉癖自己弁解を克服する必要がある。私たちは、自分に対しては勇気を他人対しては共感をもたなければならない。


自分自身を知るまでは、他人を知ることは出来ないし、他人を知るまでは、自分自身を知ることは出来ない。自分を知ることと他人を知ることは、実は一つのコインの裏と表である

エニアグラムの発見

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

エニアグラムは古代にその起源を発しているが、驚くほど現代的なものでもある。なぜなら、人間性は昔から変わっていないからである。歴史上の知られざる偉大な賢人たちから、私たちに伝えられてきたエニアグラムは、人間性に対する深い理解、昔と変わらず現代においても必要なもの、を表している。


エニアグラムは現実に役立ったからこそ、今まで生き残ってきたのである。これは真に後世に伝えるべきものである、ということを人々が信じていなかったら、エニアグラムは東方の口伝伝承の中に生き続けることはなかったであろう


心理学の歴史は、厳密かつ実用的であり、理論として包括的かつ的確な、実際に応用できる性格類型論(人間性の分類法)を見出そうとする闘いの歴史であった。すでに紀元前五世紀のヒポクラテスに始まって、ギリシアの哲学者たちは、性格のタイプが何らかの形で存在することに気づいていた。しかし、人間性というものを代表させる「基本となる」分類区分、基本的な性格のタイプそのものを見出すことはできなかった。


過去何世紀にもわたって、さまざまな分類法が提示されてきたが、どれもみな問題となる点や、不正確な点や、矛盾する点があった。多くの類型論は、きわめて幅が広く多岐にわたる人間性というものを十分説明しつくしてはいない。分類区分の数が少なすぎたり、あまりにも抽象的であったり、通常の行動ではなく神経症のさまざまな種類だけを扱っていたりする。


そもそも個々の性格のタイプを見つけることからして、概念上の大問題であるのであるが、それらのタイプが互いにどのように関連しているか、そしてそれによって人々が どのように変わり、成長するのかということを明らかにするような理論体系を見出すこととなると、より一層むずかしい。人間性を真の意味で正しく表現する性格類型はまだ存在しなかった。エニアグラムが発見されるまでは。


9つのタイプの簡単な説明

<感情の三つ組>に属するのは、人を助ける人:タイプ2ー人を励まし、所有欲が強く、操るのが巧みなタイプ。地位探究者:タイプ3-野心的で、実利主義的で、自愛的なタイプ。芸術家:タイプ4-感受性豊かで、内向的で、抑うつ的なタイプ。

<行動の三つ組>に属するのは、考える人:タイプ5-知覚力に優れ、分析的で、単純化しがちなタイプ。忠実な人:タイプ6-義務を果たし、忠実で、受動攻撃的なタイプ。万能選手:タイプ7-洗練され、極度に活動的で、過剰なタイプ。

<関係の三つ組>に属するのは、統率者:タイプ8-自信にあふれ、攻撃的で、対決好きなタイプ。調停者:タイプ9-受容性に富み、こせこせせず、自己満足的なタイプ。改革する人:タイプ1-理性的で、規則正しく、完全主義的なタイプ。

複雑で簡単なエニアグラム

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

ご推察のとおり、エニアグラムが機能する仕組みは複雑で微妙である。性格のタイプを基本的定位(感情、行動、関係)の一つに起因すると見なすのは、エニアグラムを分析する際に可能な一つの段階にすぎない。この本を読み進めば、フロイト的、ユング的、ホーナイ的、あるいはその他の観点からも九つの性格のタイプにふれることができる。なぜなら、エニアグラムは、同時にさまざまな段階の抽象概念によって機能しているからである。


エニアグラムは、深層心理を強調する性格への取り組みと、行動を強調する取り組みとの間の隔たりを埋める。エニアグラムから得ることのできる洞察は、人間性に関する最も抽象的な一般概念から、各性格のタイプのきわめて具体的な模写にまで及んでいる。しかし、矛盾するようであるが、エニアグラムは複雑であるにもかかわらず、簡単に理解できる


また、エニアグラムの九つの性格のタイプは、はっきりした分類区分を形づくっているが、それらを絶対に動かせないものと考えるべきではない。エニアグラムは、人間そのものと同様に、幅広い解釈ができるし、驚くほど流動的である。運動と変化― 統合あるいは分裂への方向への発展― が、この素晴らしい体系の本質的な側面である


しかも、エニアグラムの性格のタイプの模写は、健全さと統合の最高段階から神経症の最低段階まで及んでいるので、単に行動の模写にとどまらず、行動の予測にもなっている。― これは、実生活においてきわめて有用である。


たとえば、心理学者や精神科医は、患者が抱える問題をいっそう正確に診断することができるし、患者は自分自身をもっと手早く見通すことで治療の時間と費用を節約できるであろう。また、患者と治療者がどの精神療法の学派を信奉しているかにかかわらず、エニアグラムは、彼らの問題と経過について話し合う共通の言葉を与えてくれる


弁護士ならば、依頼人を一層よく理解できるばかりでなく、依頼人がどの程度信用できるか、また、法律上の問題にどの程度協力する能力があるかを判断できる。エニアグラムは、性格が重要な要因となる離婚や子供の保護監督事件まどでは、とりわけ強い助けになる。医師は患者に助言する際に、身体疾患が精神的問題によって酷くなっている場合はなおのこと、もっと鋭く問題を看破することができる。


しかし、ここで言っておきたいのは、本書はよくある自己啓発書とは違うということである。本書は奇跡を約束するものではない。健全な、自己の資質を十分発揮できる人間になるための「料理本」を書くことは不可能である

9つの指輪と9人の旅の仲間

与えられた指輪はエルフに三つ、ドワーフに七つ、人間に九つ。加えて、力と支配の指輪が一つ。指輪を与えられなかった平凡で平和を好み、野心に縁のないホビットのフロドが、自分の意志で旅を志願したことに注目。⇨ タイプ9の統合のベクトル「タイプ9はタイプ3に動く」


ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社 より

全人的人間な人間になることは、間違いなく、私たちがそれに向かって努力すべき理想であり、私たちが生きている限り続くプロセスである。書物は有益な情報を提供してくれ、新しい洞察を与えてくれるし、勇気づけてもくれる。しかし、知識だけでは私たちを変えるには十分ではない


もし知識だけで十分なら最高に博識の人々は最も優れた人々であるということになるが、私たちは自分自身の経験からそれが事実と違うことを知っている。知識は美徳になることはあっても、それ自体が美徳であるというのではない。自分自身についてより多く知るということは、幸せに生き、恵まれた生活を送るという目標達成の手段であるにすぎない。


しかし、知識だけをもっていても、美徳や幸福や目標達成をもたらしてはくれない。書物は、私たちが直面する問題のすべてに答えを用意してくれるわけではないし、私たちが探求に励むのに必要とする勇気を与えてくれることもない。そういうことのためには、自分自身の内部だけでなく、自己を超越したところをも見なければならない。


さらに付け加えれば、本書はエニアグラムに関しても性格のタイプに関しても最終決定版ではないし、またそうなることはあり得ない。常に何か付け足すことはあるものであるし、新たな関連も見つかるし、新たな解釈も出てくる。おそらく、精神の神秘が完全に理解されることはまずないから、それが完全に説明されることもあり得ないであろう。


では、どうすれば人間は、人間性を完全に客観的な方法で学ぶために自分自身の外側に立つことができるのであろうか。どうすれば私たちはキルケゴールが示唆したように、他人に対しては完全に主観的に、そして、自分自身に対しては客観的になることができるのであろうか。人間性を説明しようとする心理学者自身、人間なら誰しも陥りかねない、あらゆる歪曲と自己欺瞞の影響を受ける存在である


人間全体を「神の目で見渡す」ことができる者はいないのであるから、全体とはいったい何を意味するのであるか、絶対的確信をもって断言できる者はいない。だからこそ、心理学には信仰の要素がある。もちろん、それは必ずしも宗教的な信仰ではなく、科学的に証明できるものを超えた、人間性に関する一連の信念といったものである。


だからこそ、自分自身に関して何らかの最終的、客観的な真実を手にすることはほとんど不可能である。究極の答えにたどり着くよりも重要なのは、真実を求める探求者になることである。自分自身に関する真実を誠実に探し求めていく過程で、私たちは、今ある自分から可能な自分へ― より完全で、自分を肯定し、自己を超越する人間へと、徐々に変容していく。

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
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