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在る様式は「神秘的」

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より


在ると持つ

私たちの大部分は、ある(在る)様式より持つ形式について多くを知っている。それは持つことの方が、私たちの文化においてはるかに頻繁に経験される様式であるからである。


履歴書

持つことが関係するのは物であり、物は固定して記述することができる。ある(在る)ことが関係するのは「経験」であって人間経験は原則として記述できない。十分に記述できるのは、私たちのペルソナ「各人が被る仮面、他人に見せる自我」である。というのは、本来このペルソナは物であるからである。


これとは対照的に、生きている人間は死んだ像ではなく、物のように記述することは出来ない。というより、生きている人間は全く記述できない。総体としての私、私自身のすべて、指紋と同じように私だけにしかない私の本質は、たとえ感情移入によるとしても、決して十全には理解されえない。というのは、二人の人間が全く同じであることはないからである。


単一の行為でさえ、十全に記述することは出来ない。モナ・リザの微笑について、何ページにも及ぶ記述をしたとしても、言葉は絵に現れた微笑をとらえてはいないだろう。― しかし、それは彼女の微笑がそれほどまでに<神秘的>であるからではない。すべての人の微笑は神秘的である(市場で見られる教え込まれた、作った微笑でなければ)。


だれも他人の目の中に見られる関心、熱狂、生への希求(バイオフィリア)の表情や、憎しみ、ナルシシズムの表情、そして人々を特徴づける様々な顔の表情、歩きぶり、姿勢、言葉の抑揚を、十全に記述することは出来ない

能動性に対する誤解

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より

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現代の用法では、能動性はふつう、エネルギーの消費によって目に見える結果を生じる行動の特質と、定義される。それゆえ、たとえば土地を耕す農夫は能動的と呼ばれる。そのように、流れ作業で働く労働者も、顧客に買い物を進める外交員も、自分の、或いは他人の金を投資する投資家も、患者を治療する医者も、切手を売る局員も、書類を整理する官僚も、能動的と呼ばれる


忙しい人

現代的な意味での能動性は、ただ行動のみをさして、行動の背後の人物をさしてはいない。それは人々が奴隷のように外的な力に駆り立てられるために能動的である場合も、不安に駆り立てられる人物のごとく、内的強迫によって能動的である場合も、区別しない。


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能動性の現代的意味は、能動性単なる忙しさを区別しない。しかし、この二つの間には根本的な相違があって、それは能動性に関連した<疎外された>と<疎外されない>という用語に対応している。


疎外された能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。むしろ、私の能動性の結果を経験する。― しかも<向こう>にある何ものかとして、私と切り離され、私の上に、私に対立するものとして。


私は本当に働きかけはしない。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。私は能動性の結果から切り離されてしまったのだ。


「ありのままで」という欲求

エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より

現代社会においては、持つ存在様式は人間性に根差していて、それゆえ事実上変えることは出来ないとされている


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同じ考え方を表現するのが、人々は根本的に怠惰であり、生まれつき受動的であり、物質的利益や、飢えや、罰の恐怖という刺激駆り立てられなければ、仕事もそれ以外の何事もすることを望まない、という定説である。この定説を疑う者はほとんどなく、これが私たちの教育と仕事のやり方を決定している


しかしこれは、社会的な取り決めが人間性の要求に従っていることを理由にしてその価値を証明しようとする願望の表れにほかならない。


過去及び現在の多くの違った社会の構成員にとっては、人間の生まれつきの利己心や怠惰という概念は、その反対の概念がが私たちにとって空想的に聞こえるのと同じほど、空想的に思われるだろう


実際には、持つ存在様式も、ある存在様式も、ともに人間性における可能性であり、生存を求める私たちの生物学的衝動は、持つ様式を促進する傾向を持つが、利己心と怠惰だけが人間の生来の性癖であるわけではない


私たち人間には、ありたいという生来の深く根差した欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき利己心の独房から逃れ出たいという欲求である。この所説の真実性を証明する証拠はあまりに多いので、それだけで容易に一冊の本が埋まるだろう。


ガウェインと緑の騎士


ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ「神話の力」早川書房 より


モイヤーズ「私たちが死を理解するのを助けてくれる神話というと、どんなものがありますか」。


私たちは死を理解できません。死を静かに受容することを学ぶだけです。キリストが人間の僕の姿をとり、十字架上の死に甘んじた物語は、死の受容ということを私たちが学ぶ際の根本的な教えだと思います。


オディプスとスフィンクスの物語も、死の受容について語っています。スフィンクスはその一帯に災いをもたらしていた。そしてこの災いを取り除くために、英雄は彼女がかける謎に答えなければならなかった。


「四本足で歩き、次に二本足で歩き、次に三本足で歩くものはなにか」というのがその謎です。答えは「人間」です。赤ん坊は四つん這いで這いまわる、大人は二本足で歩く、年をとると杖をついて歩く。


スフィンクスの謎は、時の流れを通して見た人生の姿ですー 子供から大人になり、老人になり、そして死ぬ。恐れることなくスフィンクスの謎を見つめ、それを受け入れるとき、死はもはやあなたに取り付いた恐怖ではなくなり、スフィンクスの呪いも消えるわけです。


死の恐怖を克服することは、生の喜びを取り戻すことでもあります人は、生の反対物としてではなく、生の一つの相として死を受け入れたときにのみ、無条件な生の肯定を経験することができる


成りつつある生は、常に死の殻を脱ぎ捨てつつ、死の直前にある。恐怖の克服は生きる勇気を湧かせます。恐怖を克服していること、なにかを成し遂げることー  これは、どんな英雄の冒険においてもまず必要な、最も重要なことです。


現在の私は自己存在の最終的な形ではありません。そのことがいま私にはわかっています。私たちは常時、なんらかの形で死ななくてはならない。すでに完成された自分を脱ぎ捨てて行かなければならないんです


モイヤーズ「で、この物語が教えているのは?」


そうですね、英雄になるためには、何よりもまず誠実、克己、勇気といった騎士の美徳が必要だということでしょうか。まず、しようと決めた冒険に関して、それをやり通す誠実さ。いま一つは、騎士道の理想に対する誠実さ。


仏陀は、義務の神から、自分の地位にふさわしい社会的義務を果たすように迫られたとき、あっさりとそれを無視した。そしてその夜、悟りを開き、輪廻転生から解脱しました。


これに対して、ヨーロッパ人であるガウェインは、どこまでもこの地上の世界に対して誠実でした。この世の生の諸価値から逃れるのではなく、それに対して誠実であろうとするのです。


しかし、私たちがこれまで見てきたように、仏陀の道をとるにしてもガウェインの道をとるにしても、どちらにしても完成への道は欲望と恐怖の狭間を貫いているのです

恐怖なしに生きる

「『8958』なら我々の基準に合わせられるが、少女は違う」

「女の子に合うように基準を変えればいいわ」

「それは無理だ。少年には適応する要素がある。自己愛の強い人間ほど破壊行為を好むものだ」

「人を支配したがり、それができる。『8958』はそういう幻想を持っている」

「その点『2121』には問題が多い。欲がない。自己愛もなく度が過ぎるほど善良だ。おそらく我々の思うようにはならない。これ以上研究しても無駄だ」

「必要のない存在だ」⇨ ディーン・クーンツ「生存者」




J.クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」平川出版社 1954年1月5日:ラジガット・スクールで生徒たちに語る より


あなたがた若い人たちと私が、この恐怖という問題についてじっくり考えるのはとても重要なことです。なぜなら社会や大人たちは、みなさんが行儀よく振舞うためにも恐怖心は必要だと考えている からです。


もしあなたが親や先生を怖がれば、それだけ彼らはあなたを支配しやすいわけですね。彼らは「これをしなさい、あれをしてはいけない」と言えます。そこであなたは従わざるを得ないのです。ですから恐怖は道徳的圧力として使われるのです。


社会も恐怖心は必要だと言っています。しかも恐怖心が無ければ、市民や住民はまさに好き放題、好き勝手にするだけだと考えるのです。


恐怖はこのように人間を管理するため不可欠なものとなりました


恐怖はまた人々の啓発にも使われましたね。世界中の宗教は、人間を管理する手段として恐怖を利用してきたのです。ちがいますか。それらの宗教は、あなたがもしも現世できちんとやらなければ、その代償を来世で支払うことになると語ります。


すべての宗教は愛を説き、兄弟愛に触れ、人類は一つだと語りますが、それらはみな狡猾に、ないしはきわめて野蛮粗野に、この恐怖心を維持してきたのです。


もし一つのクラスに大勢の生徒がいたら、先生はどうやってみなさんを統制できますか。ふつうはできません。先生は、みなさんを統制するための手段を考え出さなければなりません。先生は煽ります。「がんばれ。君たちよりもずっと優秀な、だれそれ君のようになるんだ」。そこであなたは奮闘したり、怯えたりするのです。


恐怖は、たいがいみなさんを管理するための手段として使われます。おわかりですか


教育が恐怖を根絶し、それを取り除く手助けをするのは、とても重要ではないでしょうか。なぜなら恐怖は精神を堕落させるからです。すべての恐怖の形態を理解し、追い払い取り除くことは、とても大切なことだと思います。


そうでないとどんな恐怖であれ、それがみなさんの精神をねじ曲げてしまうからです。そうなればもう聡明ではいられません。恐怖は黒い雲のようなものです。


恐怖を抱いているときはまるで黒い雲を心に浮かべ絶えず怯えながら、燦燦と照る太陽の下を歩いている感じです

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
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佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中