在る様式は「神秘的」
エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より
私たちの大部分は、ある(在る)様式より持つ形式について多くを知っている。それは持つことの方が、私たちの文化においてはるかに頻繁に経験される様式であるからである。
持つことが関係するのは物であり、物は固定して記述することができる。ある(在る)ことが関係するのは「経験」であって人間経験は原則として記述できない。十分に記述できるのは、私たちのペルソナ「各人が被る仮面、他人に見せる自我」である。というのは、本来このペルソナは物であるからである。
これとは対照的に、生きている人間は死んだ像ではなく、物のように記述することは出来ない。というより、生きている人間は全く記述できない。総体としての私、私自身のすべて、指紋と同じように私だけにしかない私の本質は、たとえ感情移入によるとしても、決して十全には理解されえない。というのは、二人の人間が全く同じであることはないからである。
単一の行為でさえ、十全に記述することは出来ない。モナ・リザの微笑について、何ページにも及ぶ記述をしたとしても、言葉は絵に現れた微笑をとらえてはいないだろう。― しかし、それは彼女の微笑がそれほどまでに<神秘的>であるからではない。すべての人の微笑は神秘的である(市場で見られる教え込まれた、作った微笑でなければ)。
だれも他人の目の中に見られる関心、熱狂、生への希求(バイオフィリア)の表情や、憎しみ、ナルシシズムの表情、そして人々を特徴づける様々な顔の表情、歩きぶり、姿勢、言葉の抑揚を、十全に記述することは出来ない。