能動性に対する誤解
現代の用法では、能動性はふつう、エネルギーの消費によって目に見える結果を生じる行動の特質と、定義される。それゆえ、たとえば土地を耕す農夫は能動的と呼ばれる。そのように、流れ作業で働く労働者も、顧客に買い物を進める外交員も、自分の、或いは他人の金を投資する投資家も、患者を治療する医者も、切手を売る局員も、書類を整理する官僚も、能動的と呼ばれる。
現代的な意味での能動性は、ただ行動のみをさして、行動の背後の人物をさしてはいない。それは人々が奴隷のように外的な力に駆り立てられるために能動的である場合も、不安に駆り立てられる人物のごとく、内的強迫によって能動的である場合も、区別しない。
能動性の現代的意味は、能動性と単なる忙しさを区別しない。しかし、この二つの間には根本的な相違があって、それは能動性に関連した<疎外された>と<疎外されない>という用語に対応している。
疎外された能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。むしろ、私の能動性の結果を経験する。― しかも<向こう>にある何ものかとして、私と切り離され、私の上に、私に対立するものとして。
私は本当に働きかけはしない。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。私は能動性の結果から切り離されてしまったのだ。
■スピードや機械的なものを愛する傾向
