FC2ブログ

求められる「新しい解釈」


高橋和巳「人は変われる」三五館 より

私たちは30歳ぐらいになるまでに、大人としての世界と自分についての解釈を獲得し、安定した人生を送れるようになる。その解釈は私たちがこの社会で生きていくのに不可欠のものである。


だからこそ、私たちは生まれてから長い年月をかけてそれを育ててきたのである。しかし、40歳、50歳になったとき。その解釈は少々古くなり始めている。


この年代になったとき、私たちは自分の人生が後半部分に入ったことを自覚させられる。それは、体力の衰えや視力の低下といった身体の変化のためだけではない。もっとも大きな変化は、私たちの人生全体の時間に対する感覚が変わってくることである。


40歳ごろまでは自分の人生の時間は無限にあると思っていたが、後半を自覚したとき、私たちは自分の時間が死という事実で制限されていることに気づく。そして、その時間は毎日の日常生活の刻一刻の時間と連続しているのである。この単純な事実を自覚したとき、私たちのこころは死を見つめ始める。


心が死を見つめ始めたとき、こころは自然に、その事実を正確に理解し、解釈しようと動き始める


しかし、私たちがそれまで培ってきた古い解釈で死は理解できない。なぜなら、古い解釈は、社会に適応するために作り上げてきた「大人になるための解釈」であるからだ。


それは、社会で生きてゆくための解釈であり、より効率的に過ごすための解釈であった。そこでは、社会がいつまで続くのかや、自分がいつまで存在するかといったことは前提となってはいなかった。


そこでは、死は避けるべきものとしてだけ解釈された。「大人になるための解釈」を作り上げ、適応を果たして安定した私たちは、いま持っている解釈でも、とりあえずは事足りている。そのままでも、毎日を送るのに困りはしない


しかし、死という事実を含んだ人生の後半部分を真剣に考えようとするとき、とりあえずの毎日の生活だけに満足して、その先の自分の人生を考えないわけにはいかないであろう。


また、たとえ死を正面から考えようとしなくても、この生活の先には確実な死があると思うならば、いつのまにかその思いは、私たちの毎日の生き方に影響を与えているはずである。

記事分類
BlogPeople
INポイントランキング
ブログパーツ
リンク
内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
オリジナルのブログを目指して鋭意更新中